第五話 新生――3
翌朝早く、一行は宿場町を出て街道にいた。皇国へ戻るメリエルを見送るためである。
陽光の帯が、東の空にうっすら見えるだけの時分だ。当然、街道も静かだった。が、一行以外まったくの無人というわけでもない。彼らと同じように早く出立する旅人や商人たちが、薄明の光と闇を背負っていた。からんからん、ちりんちりん。隊商のものであろう、鐘や鈴の音が、透明な空気の中に溶けてゆく。
「それでは、わたくしはここで失礼いたします。皆さんの道行に、安寧と幸があらんことを」
街道の端で。メリエルは、光貴たちに礼をする。旅装であっても、その様は優雅だった。ノエルやリリスが流れるように返礼する横で、北原兄妹はぎこちなく頭を下げる。上流階級の振る舞いにはどうしても慣れない二人だった。
一方、階級や振る舞いをさして気にしない人もいた。光貴たちの母や、ラッセルがそうだ。
「そちらこそ、道中気を付けてな。近道できるとはいえ、距離があることには変わらんだろ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、問題ありませんわ。そもそも、わたくしは単身でここまで参ったのですから」
「それもそうだなあ」
ひらひらと手を振った赤毛の宮廷魔導師に、『慈悲姫』は満面の笑みをこぼした。ほころんだ花のように可憐でありながら、その奥には氷柱のような冷徹さも潜んでいる。それを向けられても、ラッセルは決して動じていなかった。むしろ、快活に声を立てて笑っている。その声が響いた瞬間、メリエルの中の氷柱が溶けたように、光貴には思われた。
「『神聖王』就任式の際には、正式なアクティアラ皇国代表としてお伺いしますわ。――ごきげんよう」
笑みをやわらげたメリエルは、清流のごとき長髪を揺らして一行に背を向ける。静かに、けれど確かに小さくなっていくその影に向けて、光貴はとっさに手を振っていた。メリエルは振り返らない。だからきっと見えていないだろう。それでも、こうしたかった。
同じことを考えた人は、光貴以外にもいたらしい。何気なく視線を転じると、全身を弾ませながら思いっきり手を振っている妹の姿が目に入った。前のめりになりすぎて今にも転びそうな彼女に苦笑した光貴は、さっと服の襟をつかむ。
「メリエル、元気でね!」
通行人の気すら引く声を張り上げたのは、ミーナだ。再会を約束する言葉は、朝の澄み切った大気に乗って飛んでいく。メリエルがその声に反応を示したのかどうかは、もうわからない。それでもミーナは胸を張り、清々しそうに口の端を持ち上げる。あまりに堂々とした姿がおかしくて、ほかの面々も釣られて思わず笑声を立てた。
一つの別れの余韻が消えかけた頃。一行の中から、また一人が進み出る。大きな鞄をかついた美雪は、お使いに出かける男の子のような表情で振り返った。
「んじゃ、私もぼちぼち行くね」
「王都で会おうね、母さん」
さっぱりした態度の美雪は、胸の前で拳を握る娘に、一度うなずいてみせる。
「ん。多分、私の方が先に着くから、家の様子見ておくね」
「頼んだ!」
親子は調子よく言葉をやり取りすると、軽く拳を打ち合わせた。はて、二人はいつからこんな調子で会話するようになったのか。彼女たちの、もう一人の親族は一人で首をかしげていた。
美雪の方は、光貴の胸中など知るよしもない。軽快に歩き出そうとしたところで、けれど動きを止めた。何かを思い出したらしい。目をしばたたき、ちょっと首をかしげてから、鞄を開いた。荷物がぱんぱんに詰まっている鞄の上の方から、両手で持てるくらいの包みを取り出した。
「ラッセル坊ちゃん、ちょいと」
「はい? 俺ですか?」
ラッセルが怪訝そうな顔をしつつも踏み出した。美雪は、当然のように包みを彼の手に乗せた。
「これ、あげる」
「なんですか?」
眉をひそめた青年を見て、美雪は立てた人差し指を唇に当てる。
「秘密。お昼ごろになったら開けるといいわ」
「……はあ……」
薄い茶色の包みについて、彼女はこれ以上語る気がないらしかった。ラッセルもそれを察したようで、濃霧の中に立たされたような顔のまま引き下がる。
最後の最後に謎を残して、美雪もまた去っていった。本人の気性ゆえか、合流する未来が見えているからか、メリエルのときと比べて淡白な別れであった。母を見送った光貴の中にも、不思議と寂しさはない。
「大丈夫」
隣からそんな一言が聞こえたのは、母の姿が見えなくなって、陽光がうっすらと大地に広がりはじめたときだった。光貴ははっとして振り返る。晴香が、いつになく静かなまなざしを地平線に向けていた。
「もう大丈夫だよ。別れてもまた会えるってわかってるから。もう、バラバラにはならないよね、私たち」
光貴は小さく息をのむ。自分と同じ色を持つ、血を分けた少女の横顔を、思わず見つめた。晴香は、兄が失踪してからほとんど一人で王都に住んでいた。その彼女が、黒茶の瞳に今宿している感情はなんなのか。読み取ることはできない。それでも、決して暗い気分でないことだけは、光貴にもわかった。朝焼けの中でもわかるほほ笑みが口もとを彩っていたから。
光貴も顔をほころばせる。おもむろに腕を上げると、妹の黒髪をわしゃわしゃとなでた。
「わっ!?」
素っ頓狂な声を上げた晴香は、光貴に非難の目を向けてくる。無言の抗議を受け取った少年は、目を細めた。口を半開きにして固まった妹の頭を、彼は改めてなでる。今度は昔のように、優しい手つきで。
「そうだな。もう大丈夫だよ、俺たちは」
「……うん」
嬉しそうにうなずいた晴香から、光貴は手を離す。そうして、うんと伸びをした。
「さて――ピエトロ王国に帰るんで、いいんだよな」
両腕を天に伸ばしたまま、彼は同行者たちを振り返る。彼らは先刻の兄妹のやり取りを詮索することなく、ただうなずいた。
「そうですね。陛下も待ちくたびれていらっしゃるかもしれませんし」
「帰ろうぜ。俺たちの故国に」
少年と青年の言葉を受けて、光貴はうなずく。
そして彼らも――朝日の下に踏み出した。
『光貴。最後にひとつだけ、言わせてくれ。――戻ったら、晴香と母さんにも、伝えてほしい』
明るい声が、優しい言葉が、光貴の脳裏にこだまする。
『一緒に生きていけなくて、ごめんな。ずっと愛してるよ』
それは少年にとって、魔法よりも強い「魔法」だった。
彼の心に刻まれた呪いを解く、最後の魔法。それを胸に刻み込んで、彼は世界へ踏み出す。
――新たなる『神聖王』として。




