第四話 継承の儀――2
「えっ?」
たった一人を支えていた感触が消え去ると、少年の体はふわりと浮いたあと、勢いよく落下しはじめた。落ちている、とわかるのは、下に強くひっぱられているからで、まわりの景色はまったく変わらない。
光貴はばたつくこともせず、ただ流れに身を任せていた。驚きすぎて、そうすることしかできずにいたのだ。しだいに、耳の奥がずきずきと嫌な痛みを訴えてくる。その頃になって、やっと、恐怖が全身を駆け抜けた。
これからどうなるのか。どこへ行くのか。どこにもいかずこのまま死ぬのか。間近の未来は、いつになく暗かった。
どれだけ経っても衝撃が来ない。底のない空間をえんえんと落ちてゆく。光貴は、瞼が重くなっていることに気がついた。意識がもうろうとしだして、考えごとをする余裕すら、なくなってくる。怖くもなくなるのだから、かえってよかったのかもしれないが。
たちまち強くなる眠気にうっとりと目を閉じかけたとき、また、あの高音が耳によぎった。二度ほど音が響いたあと、光貴の中に異変が起きる。
――大量の、音が、声が、風景が。砂嵐のように、頭の中へと流れこんできたのだ。どれが何を現しているものなのか確かめる余裕もない。ほんのわずかよぎった映像は、そのほかの映像の歓声に押し流されてゆく。場面はめまぐるしく移り変わり、情報の奔流は、人の頭を容赦なく締めつけた。
異様な叫び声が空間の中に響く。光貴は自身の絶叫を聞くことすらできなかった。頭の中がうるさくて、それどころではなかった。頭を抱え、かきむしり、歯を食いしばって痛みに耐える。耐えきれなくなるたびに、聞こえない声が喉をひっかいた。
流れこむ情報に頭をかき乱される。そんな時間が、どれほど続いたのか、わからない。光貴が意識を手放しそうになったそのとき、背中に鈍い衝撃が走った。同時に、情報の波もふっつりと途切れる。かわりに、目の前で火花が散った。
「っ、がっ……!」
つぶれた声が出ると同時、軽く舌を噛んだ。光貴はしばらくうずくまってから、ゆっくりと体を起こす。視界はぐらぐらと揺れていて、頭には突き刺すような痛みがあった。
「なんっ、なんだよ……いったい……」
声を出すだけでも、全身が悲鳴を上げる。光貴はそのまま眠りたいのをぐっとこらえて、なんとか見えない地面に両手をついた。まずは、状況を確かめなければならない。そう思ったとき――耳慣れない音を聞き取り、体が勝手にかたまった。
低い音。しばらく高音ばかり聞いていた光貴は首をひねったが、やがて、聞こえてきたものからひとつのものを思い起こした。
頭を丸め、毛を逆立てて威嚇する、犬の姿だ。
「うなり、声?」
そうっと呟いた光貴は、ぎこちなく首を巡らせる。次の瞬間、か細い悲鳴をのみこんだ。
――彼が見た先には、巨大な、白い獣が立っていたのだ。
※
「うううううん」
低い、低いうなり声。その後に、寝台がばったばったと音を立てた。子どもの行為、と無視していた貴族令嬢が、とうとう青筋を立てる。
「ミーナ。お行儀が悪いです。つつしみなさいませ」
私はともかく、リリスもいるのよ。メリエル・ラグフォードがそう続ければ、ミーナ・コラソンは、うつ伏せで枕を抱いたまま、ばたつかせていた足を止めた。それから、がばりと起きあがる。そして、やはりまた、枕を抱きしめた。
「だ、だって! 落ちつかない! 晴香たちも美雪も、遅くない!?」
「確かに、遅いですね」
時計を見ながら呟いたのは、リリスだ。ミーナは顔をぱあっと輝かせて、「でしょうっ!?」と言う。メリエルが、重いため息をついた。
「ああもう。ねえ、追いかければよかったかなあ」
この少女は、友達が心配でしかたがないのだ。わかっていても、年上の二人は、彼女を思う通りにしてやることはできない。リリスは苦笑して眉を下げ、メリエルはいつものつんと澄ました表情で、彼女の方へ身を乗り出した。
「『あのお二人』が、何も言わずに出ていかれたのです。美雪様も、思い当たる節がおありのようでしたが、詳細は説明なさらなかった。それはつまり、私たちに伝えてはならない場所へ行く、ということなのでしょう。むりに尾行などするものではありませんわ。最悪、国どうしの問題に発展してしまいます」
『あの二人』とはもちろん、ラッセルとノエルだ。ミーナもまた、ピエトロ宮廷勤めの二人に思い当ったのだろう。うっ、と声を詰まらせる。
「そう、だよね」
細い指が、枕をきゅっと抱きしめた。金色の瞳が、理解と疑念のはざまで揺れる。メリエルは、それまで厳しくしていた目もとを緩め、年下の守護天使に、そっと語りかけた。
「大丈夫。彼らを信じましょう」
ミーナはしばらく唇をかんでいた。それから、ゆっくりうなずいた。
メリエルが息を吐く。そしてリリスはほほ笑んで――おもむろに、寝台から下りた。音で気づいた『慈悲姫』が、たおやかに振り返る。
「どうなさいましたの?」
「ちょっと、お散歩に出てこようかと思って。待つしかないなら、できることで、気をまぎらわせたいでしょう」
リリスは、ふんわりほほ笑んで言う。二人の守護天使は、いったん顔を見合わせた。けれどすぐに「それもそうね」「行ってらっしゃい」と、それぞれの言葉を投げかけた。
光貴たちが出ていったのは、朝方だった。が、今はもう陽がだいぶのぼっている。人々の動きもさかんになっていて、雑多な宿場町ならではの、独特な音と芳香が、漂ってきている。威勢のいい呼びこみの声に耳を傾けつつ、リリスは青空を見上げた。
光貴も、晴香も、ラッセルも、ノエルも。誰も、何も言わなかった。ふだんではあり得ないことだと、彼らを知る者は言った。だからこそ、リリスには、彼らの行き先がわかっていた。
「……『聖墓所』」
いつかのように、繰り返す。誰にも聞かれぬ呟きは、ひそやかな夜の闇に似て。そしてそれは、リリス自身を表すものだ。
「始まってしまった。継承だけでなく、すべてが」
――それを知る者は、少なくともこの町にはいない。先代『神聖王』の妻であったという女性も、光には気づいても影には気づかない。
だが、彼女はもともと影にいた人間だ。嗅ぎつけるのも、時間の問題だろう。それはそれで、構わない。それよりも、リリスは次代の『神聖王』が気がかりでならなかった。
『継承の儀』だけは、いくら彼女でも干渉できない。あれは、定められた『天使』だけの時間だ。始まってしまったからには、成否は継承者にかかっている。
リリスは静かに瞼を閉じる。強くまぶしく、どこか儚い少年の後ろ姿が、浮かんだ。
「光貴様」
呼ぶ声は、蜜のように甘い。その意味を、当人が知るのはまだ先だ。
だから今は、ただ、見えない彼に、祈りを捧ぐ。
「――どうか、打ち勝ってください」
※
光貴は、白い獣を見たままかたまっていた。逃げようにも手足は震え、その場に縫い止められたように動かない。言葉をつむげない唇と喉はかわききって、かすかな痛みを訴える。けれどそんな痛みなど、氷より冷たい恐怖に比べれば、生易しいとさえ思えた。
獣は身じろぎひとつしない。ただ、粛然と、金色の瞳で小さなものを見つめている。
綱渡りのような危うい沈黙。そのなかで、わずかでも先に動いたのはどちらだったのか。――かすかな音に反応し、獣は強く、見えない大地を蹴り上げた。獅子がうさぎを狩るように。飛び出した、鋭い爪が飛びかかる。光貴は考える前に飛びのいて、光の矢を射た。白い光は空間に溶け込み、わずかな輝きだけを残して獣の顔面を狙う。吸い込まれるように消えた矢は、けれど、音もなく砕け散った。
「はあっ?」
光貴は、思わず素っ頓狂な声を上げた。ほんのわずか、立ち止まった隙に着地した獣が噛みつこうと身を乗り出す。風を切り裂く一撃を、すんでのところでかわした彼は、がむしゃらに走って獣から距離をとった。胸を押さえる。心音がうるさい。激しくなった動悸をおさえるのに、せわしない呼吸はまったく役立たなかった。
「なんだよ、あれ……」
獣は、背を丸めて威嚇の姿勢をとっている。狐のような面立ちだが、尻尾は狼か犬のそれだ。そして異様に長い牙と爪をもつ彼は、この空間と同じ白をまとっている。これはいったいなんなのか、光貴は考えこみそうになったが、うなり声で我に返る。
よくわからないが、このままでは光貴が獣の腹におさまるのは確実だ。黙って食われるわけにはいかない。光貴は腰に手をのばし、震える指を叱咤して、愛用の剣を引き抜いた。しかし瞬間、顔をしかめる。
白。
光。
神聖。
永遠。
音でも映像でもない何かが、割れた硝子の破片のように、脳裏をばらばらと落ちてゆく。光貴は思わず眉間を押さえたが、すぐに獣の方へ向き直った。剣の柄を強くにぎりしめ、左足をさげて、静かに獣をにらむ。一拍のあと、跳んだ獣に向かって剣を振った。かすかな手ごたえに安堵して、そのまま切りこもうと腰を落とす。
刹那、光貴は動きを止めた。氷にも、炎にも似た見えない刃が、頭の奥を鋭く貫いた。
突然の頭痛に、光貴はこらえきれず声を上げる。苦痛をたえようと、背を震わせたそのとき、別の衝撃に襲われた。正面からの攻撃に、少年はあえなく吹き飛ばされる。手にしていた剣が手もとから滑り落ち、耳障りな金属音を立てて跳ねた。光貴はかまわずうずくまる。激しい痛みをやり過ごそうとしたが、それはしつこく体の中に居座り続けた。
食いしばった歯の隙間から、呻きがもれる。聞こえる声は己のものではないようで。そしてその間にも、空もないはずの空間で、風がうなった。
白い獣がくる。わかっていても、身構えることすらできない。せめてもの抵抗と、とっさに上げた両腕が、鋭いものに貫かれる。間もなく頭を揺さぶられ、体はぶざまに転がされた。
もはや形をなさない声を上げたとき、光貴の脳裏にまた断片がよぎる。それは前のものよりも、明確な形をもっていた。それゆえに、彼の脳をさらに強くしめつけた。
何かの映像だ。川に流れる小石のように、次々と流れてゆく。それはまた、『天使』たちの記憶だろうか。光貴はぼんやり考えた。考えることができたのも、ここまでだった。入れ替わる断片の情報量に、頭が悲鳴をあげていた。襲いかかる獣の一撃一撃に、体は音もなく泣き叫んだ。自分がもう、白い獣に弄ばれているとわかっても、少年にはどうすることもできなかった。
古びた映像の流れが、つかのまゆるむ。断片の切れ間にのろのろと顔を上げた光貴は、ふっと目の前が暗くなったように感じて目を細める。
白い獣がすぐ前で、倒れたものを見下ろして。ゆっくりと、口を開けていた。




