第三話 過去と今を繋ぐ――2
かすかな光の射しこむ天井から、砂と瓦礫が落ちてくる。パラパラと、乾いた音が鳴った。
「ん?」
身をすくめてうずくまっていた美雪は、突然上から聞こえてきた声に、肩を震わせる。おそるおそる顔を上げると、きつい顔立ちの少年と目があった。
「だ、れ……?」
「子どもまでいんのか。しかも、ピエトロの奴じゃないな。――陽国人か」
少年は流暢なピエトロ語で言った。美雪には半分以上理解できなかったが、彼が目を細めて嫌そうな表情をしているのは分かった。美雪は体をがたがたふるわせながら、つたないピエトロ語で問いかける。
「わ、わたしを、助け、に、きてくれたの?」
どうか、そうであってほしい。
少女の切なる願いとは裏腹に、少年は怪訝そうに目を見開いた。だめか、とあきらめかけたとき。少年の声が降ってくる。
「助けてほしいのか?」
美雪は驚いた。どうしてそんなことを聞くのか、わからなかった。けれど、一縷の希望にすべてを託して、こくこくと激しくうなずいた。すると少年は、少し考え込んでから、手を差し出してくる。
「なら、来い」
崩れた天井の上から、にやっと笑いかけてきた。
「てめーみたいなガキを助けにきたってわけじゃない。でも、来たいってんなら来ればいい」
――これが、ジェラルド・ルチアーノとの出会いだったのである。
※
「美雪……様?」
ためらいがちに自分を呼ぶ声を聞き、美雪はふっと顔を上げた。
夜の闇に満たされた部屋。暗がりの中に、一粒の宝石のような灯りが揺らめいている。そして赤い灯火は、そばにいる少年の顔をぼんやりと浮き上がらせていた。
「ああ、ごめんなさいね。居づらかったかな」
美雪は苦笑して、少年に言った。少年、ノエル・セネットは少々困惑した様子で首を振る。緑色の髪がさらさらと揺れた。
きれいな子だな、と美雪は思った。
――『預言者』と呼ばれる立場にあるこの少年のことを、美雪はほとんど知らない。一度、アルバートが彼を引きとったばかりの頃、変わった子どもがやってきた、という噂話を小耳にはさんだ程度である。
守護天使が健在だったため、その頃は『預言者』の出番がほとんどなかったせいもあろう。
そして、彼が表舞台に出ると同時に、彼女はすれ違うように王城を退いた。
だから彼らは、お互いの顔を知ることなく生きてきたのだ。――今日この日に、道が交わるまでは。
「先代様は」
少年の、ささやきのような声を聞き、美雪ははっとした。彼をじっと見つめながら物思いにふけっていた自分を恥じつつ、言葉の続きを待つ。
「ジェラルド様は、美雪様のことを楽しそうに話しておられました。私があの方とお会いしたのも、ほんの数回のことですが……」
ノエルは、ゆっくりと語る。困ったように微笑みながら。
「その数回の間にも、何度も、何度もお聞かせくださったのですよ。美雪様や『仲間たち』の話を。ですから、その、あなたにもいずれお会いしたいと思っていました」
お目にかかれて光栄です。
そう言ってノエルは頭を下げた。その姿が、遠い誰かに重なったような気がして美雪は目を瞬く。だが、すぐにその思いを胸にしまいこんだ。ごまかすように、子どもっぽく笑って両手を振る。
「やだなあ。そんなにかしこまらないでちょうだい。私、もう一般人だし」
「そうは言いましても。今度は光貴さんと晴香さんのこともあります」
「……あの子たちの話を出されると、痛いわね」
鋭い指摘に、美雪は肩をすくめる。それから、ノエルに改めて向き直った。
「ありがとうね、ノエル君。うちの子たちが、ずいぶんと世話になった」
「そんな!」
神妙に美雪がお礼を述べると、今度はノエルが慌てた。勢いのまま、腰をおろしていた寝台から立ちあがっている。
「迷惑をかけたのは、僕の方です。――こんなことを口に出すと、お二人から怒られるので、今はあまり言わないんですが……。
正直、今でも思うんです。晴香さんを巻き込んだのは僕だ、と。僕が彼女を見つけなければ、彼女は今も、クリスタの城下町で普通に暮らしていたのではないか、と、そんなふうに」
緑の瞳が罪悪感に揺らぐ。遠い、遠い始まりの日に、置き去りにしてきたはずの、痛みがうずく。
街の片隅の飲食店で少女に出会った瞬間、ノエルは歓喜した。陛下のお役に立てる、恩返しができる、国を盤石にできる。そんなふうに。だが、思ってひっぱりこんできた少女は、力も罪咎も自覚もない、けれどそれゆえに、どこまでも優しく温かな、ふつうの女の子だった。彼女を見て、ノエルははじめて、自分の力と役目の重さを知った。
騒動に翻弄され続ける彼女の、強くなってゆく後ろ姿を追いながら、少年は考える。役目を果たした、果たしてしまった自分に、できることは残されているだろうか、と。
「ちょっと、ちょっと。そんな顔しないでよ」
笑いとともに声がふる。はっとしている少年の前で、美雪は明るく笑っていた。
「その件は、あの子をほったらかしにしてしまった私にも、責任があるし。君に会えたから、娘は強くなれたんじゃないかなと思って」
ノエルが目をみはった。美雪の瞳が悲しげに微笑む。
あの頃の親子は、長男の失踪の悲しみを背負って立ったままだった。自分のことと毎日のことに没頭しようとして必死になっても、それにはどこか、空虚な痛みが伴った。
「それに、ほら。君たちが動かなかったら、晴香と光貴は会えないままだった可能性もある。君たちが引きとめてくれたようなもんよ。――壊れかけた、北原家をね」
「美雪様……」
「だからやっぱり、お礼を言わせて。ありがとう。『預言者』――ノエル・セネット君」
二人の視線と思いが、静かな部屋で交差する。
世界に翻弄され、茨の道へ踏みこむ少年少女。彼らを想う人々が進む道もまた、厳しさがともなうものだろう。
それでも。
それでも、未来をつくる手伝いができるなら。
大切な人の遺志を継ぎ、今を守ってゆけるなら。
そんなふうに、思うのだ。
やがて、あちらこちらに散らばっていた人々が戻ってくる。その中に息子の姿を見いだした美雪の目が揺れるのを、ノエルは確かに見た。だが、あえて気づかなかったふりをして、「おかえりなさい」と彼らを迎え入れる。予想に反して光貴や晴香の顔は晴ればれとしており、そのことが少年を安堵させた。彼が視線を感じて顔を上げると、なぜか宮廷魔導師ににやりと笑いかけられる。彼は「さーて」と言って寝台に腰かけると、何やら包みを広げはじめた。結び目を解かれた布の内側から、ふわりと芳ばしい香りが漂ってくる。
「何それー」
「晩飯」
楽しそうにのぞきこんだミーナへ、ラッセルは短く答えた。彼は広げきった布の上から何かをとりあげて、一人ひとりに渡してゆく。光貴たち兄妹が目をみはった。
「これ、お米!?」
「へえ、このあたりにも米があるんだな」
「陽国のやつとは種類が違うはずだけどな。それはそれでうまいぜ。……といっても、トルキエの東の方でちょっと作られてるだけだから、米は貴重でな。市場にもそんなに出回らないんだけど、屋台を見回ってたらたまたま売ってたから」
ノエルはふむ、と呟いて、手もとのものを見おろす。米をかるくにぎって固めたものを焼いて、表面に焦げ目をつけたのだろう。そこにさらに、飴色のたれがぬってある。かじりついてみると――口の中で米粒がほぐれて、たれの味が広がって想像以上においしかった。生まれてこの方米を食したことのないノエルでも、すんなり受け入れられる味である。
一同は、しばらく無言で米を堪能していた。が、ふいに、ラッセルが口を開く。
「美雪さん、さっきの話について確認したいことがあるんですが」
「ん? さっきの、って」
「『堕天使』」
ラッセルがその名を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。彼は構わず、飯の最後のひと欠片を口に放りこんで嚥下すると、改めて話しなおす。
「美雪さんのおっしゃった、暗黒魔法を使う『天使』ですが、それはおそらく……」
「ああ、その話ね。うん、多分、あなたたちはもう会っている」
光貴と晴香が顔をこわばらせた。きっと自分も似たような表情をしているだろうと、ノエルは思う。彼らの様子に気づいているのかいないのか、美雪はいつもの口調で語り続けた。
「レラジェ、か。いたね、そんな奴。いきなり狂ったように笑いだす変なの、くらいの印象しかなかったんだけど」
「ご存じなのですか!?」
メリエルが身を乗り出すと、美雪は口もとについたたれを指でぬぐいながら、うん、とうなずいた。
「おそらく、今あちこちで暗躍している奴らは、私らが追い払ったはずの『堕天使』軍の残党ね。きっと、うまいこと逃げのびていたんでしょう。ただし」
美雪の言葉がいったん途切れ、ややあって、息を吸う音が響いた。
「レラジェと一緒にいたもう一人の女の子については、たぶん、最近加わった子だわ。私の記憶にないのは当然のこと、『解放軍』の記録にも該当する人物はいなかったはず」
「……そう、なんだ」
晴香が目を伏せた。彼女の唇は、音を紡がずに動く。彼女が、少女の名前を求めたことに気づいて、ノエルも顔を歪めた。思わず美雪を振り返る。彼女は、トルキエ流焼き飯を口いっぱいにほおばって、満足そうな顔をしていた。食べ盛りの少女のような表情は、けれど、飲みこんだ瞬間に消えた。
「シルヴィア、ね……」
「美雪様?」
ノエルが名を呼ぶと、美雪は人さし指を唇に押しあてた。それから、何食わぬ顔で前を向く。
「どこかで聞いたことがある名前だけど、どこだったかな。王城?」
「え――」
「ノエル君、国に帰ったら調べてもらえないかな」
すばやくささやかれた頼みごとに、ノエルは無言でうなずくことしかできない。問いただそうとはしたのだが、その前に、晴香とミーナから声をかけられてしまった。
――ジェラルド・ルチアーノの妻。今でこそ、一介の行商人を名乗っているが、かつては間違いなく王国の中枢にいた女性だ。彼女は今、この局面にあって、何を見つめているのだろう。
ふくれあがる疑念を押し隠し、『預言者』の少年は少女たちにほほえんだ。




