第二話 学問の日々から――3
それから何日か経ったころ、晴香の王城と自宅を往復するような日々に変化が訪れた。旅の必需品をある程度揃えるため、という名目で城下町、つまりは少し前まで彼女自身も普通に暮らしていたクリスタの街へ行くことを許されたのだ。
もちろん、『あの日』の影響で騒ぎが少々広がっているので堂々と行くわけにはいかない。というわけで帽子をかぶって眼鏡をかけるという変装をして城下に赴いた晴香であった。
ちなみに今日は、珍しくノエルが隣にいない。というのも彼は出立の手続きに追われているからである。一応あとから追いつくとは言っていたが、今は晴香一人だ。
「うわあ、なんかもう懐かしいなあ」
約一か月前となんら変わりない活気に満ちた様子に、晴香は思わず声を上げた。直後、肉屋のおばさんやライル、『エール』の人々のところに顔を見せに行こうかという考えがよぎる。だが――
「おっと、抑えなきゃ抑えなきゃ」
それはできないことになっていた。街に出る前、ノエルや女官に言われたのである。
『あまり“北原晴香”として人と話さない方が良い』と。
これは噂や騒ぎを不要に広めないためでもあるが、せっかく固まりかけている晴香の決意を鈍らせないための、彼や彼女らなりの気遣いだったりもする。
「よーっし、とっとと買い出しに行くぞ!」
もちろん後者については何も知らない晴香は、あきらかに空元気と思える声を上げた。
それからいくつかの店に寄り、必需品を買い込んだ。まずは鞄。それから非常食や旅用の服など。できるだけ量は抑え、服は動きやすいものを選んだ。
そうして店を巡った彼女は、一通りのものを買い込んで、今度は休憩できる場所を探した。
「うーん、結局ノエル君は来なかったなあ。やっぱり忙しいのか」
などとぼやきがらうろついていると、後ろに誰かが立ったのが分かった。ちょこんと首をかしげ振り返った彼女。その目はしっかりと、背後にいたフード付きのマントをはおる若者の姿を捉えていた。
「よおっ」
「え、あの……?」
晴香が、わけ分からないという顔をしていると、フードの若者はちょっとばかり怪訝そうにしていた。だが、すぐに合点がいったとばかりに手を叩く。
「ああ、あんた、俺が誰なのか分かってないのか。そりゃ、この姿じゃ分からんわな」
そう言った彼はフードの端をちょっとつまんで持ち上げた。そこから現れた顔を見て、晴香はぎょっとした。危うく買い物袋を取り落としそうになる。
「お、お、お、おう――」
「しっ! 大声でそれ言うなよ!」
王太子、と言いかけた晴香は、当人に小声で制された。はっとして口を押さえる。ここは街中だ。彼の身分を証明するような呼称を堂々と使うべきではない。
それこそ、たちまち大騒ぎになってしまう。
冷静にならなければ、と考えて呼吸を整えた晴香は、彼といっしょに大通りから外れて、小さな空き家の前の石段に腰かけると、小声で尋ねる。
「殿下、なんでこんなところにいらっしゃるんですか?」
すると王太子は質問に答えず疲れたように首を振る。
「できればその堅苦しい物言いやめてくれないかね、お嬢ちゃん。それに『殿下』じゃなくて『トレヴァー』でいい」
王太子、もといトレヴァーの言葉に、さすがに困った様子を見せた晴香だったが、本人の意志でもあるのでしぶしぶうなずいた。妙な既存感を覚えながら。
「分かりました。その代わりでん、トレヴァーさんも私のこと『晴香』って呼んでください」
しかし、敬語――いや、丁寧語は抜けなかった。どうしても王族であることを意識してしまうのだ。さすがにトレヴァーもそこまで要求するつもりはないのか、苦笑してこう言う。
「了解、晴香ちゃん」
いきなり「ちゃん」をつけられたことに怯んだ晴香だったが、気にしないようにして再び問う。
「で、なんでこんなところにいるんですか?」
「お忍びと言いたいところだが……実は、今目が回るほど忙しいセネット家の坊ちゃんに頼まれて、あんたの様子を見にきたんだ」
ノエル君が、と晴香は呟き、たちまち渋い顔になった。その心配りは心底うれしいのだが、なぜトレヴァーなのか。ほかに適任者がいたのではと思ってしまう。
すると、そんな彼女の心の呟きを読み取ったのか、彼はにかっと笑って親指を立てた。
「こんなだから、慣れない使用人より話しやすいだろ? それに、俺なら小さい頃から何度も城を抜けだしてるからな、万一ばれても大して騒がれない――て、あの坊ちゃんが。腹ぁ立ったがその通りなんで言い返せなかった」
そこは、胸を張るところなのだろうか。晴香はどう返事をしていいのか分からず、沈黙してしまう。一応笑って返しておいたが、その顔は確実に引きつっていただろう。
すっかり黙りこくってしまった彼女を見て声高に笑った王子様は、いきなり話を振ってきた。
「もうすぐ出発なんだってな。それにしては動揺少ないけども、晴香ちゃんは」
動揺、という言葉に反応した晴香はピクリと震える。それから、膨らんだ買い物袋の端をにぎるように、指先に力を込める。
「そんなこと、ないです」
小さな小さな声。しかし確実に聞きとったトレヴァーが首をかしげる。晴香は、我知らず続けていた。
「本当は、とても、怖いんです」
ノエルのもとでは決して吐かなかった弱音。それは彼に心配や迷惑をかけたくないからだった。この王太子ならさほど心配しないだろうと思っているかというとそうでもないが、やはりそこまで関係が深くないせいだろうか、自然とそんなことも言えていた。
トレヴァーは黙って続きをうながしてきた。晴香はそれに従う。
「旅立ちが決まったあの日から、ずっと思っていました。もし自分が『神聖王』じゃなかったらどうしよう、って。いつまで経っても頼みの綱である力が発現しなかったら首飾りを取り返すことさえできないかもしれないんでしょう? それで結果としてノエル君の足を引っ張ってしまったら……自分がただの役立たずだと分かったら……そう思うと、怖くて仕方がないんです」
『神託の君』であることは守護天使であることには直結しない。あの日にアルバート王から言われたことでもある。理解してはいたことだったが、そのときからこの事実がずっと心に引っかかっていた。
なんだかんだと言いながら、みんな晴香に期待している。次代の『天使』となってくれることを切望している。それはみんなと接してみて彼女自身もすぐ悟った。だからこそ、その期待が重たかった。
吐き捨てるような少女の言葉にトレヴァーはしばし悩んだ素振りを見せ、それから言った。
「とりあえず、ノエルの預言に間違いはない。それはこの俺の名をもって保証してやることもできる」
ずいぶんとノエルの力をあてにしているようだが、そこは晴香も同じなので特に言及はしなかった。だまって話を聞いていると、トレヴァーはこう続ける。
「つまり、だ。あんたが『神聖王』じゃなかったにしても、『神聖王』に縁ある者だということは確かだということ。ならば多少なりともあんたの言う『力』はあるだろうし、いつか本人と引き合わせられることになるだろうな」
おもに彼の最後の言葉が、晴香には気になった。説明を求めるような眼差しを向けていると、彼は苦笑して「『神託の君』とその者に関係のある『天使』は引きつけ合うんだと」と、実に簡単な説明をしてくれた。彼も、実はよく知らないのかもしれない。
やがてトレヴァーはまとめに入る。
「えーっと、結局は……ま、あんまり力まず行けってことだよ。あがくのも大事だが、たまには流れに身を任せることも必要だぞ」
軽い響きの言葉とともに、肩をぽん、と叩かれた。
晴香は目を見開いたが、すぐにその驚き顔は笑顔に取って代わる。
なんだか、憑き物が落ちたような気がした。
「そうですね。すみません、ありがとうございました」
彼女がそう言うと、王太子は気にするなと言い声を立てて笑った。
――そんなトレヴァーと少しだけ話をして別れた晴香は、とりあえず王城を目指して歩きだす。心のうちをぶちまけたせいか、往路より足取りが軽い気がした。
「やっぱり話すって大事なこと、なんだよね」
呟いた晴香は、あのあとトレヴァーに言われたことを思い出す。
『今度からはそういうこと、きちんとノエルに話した方がいいぞ。少なくとも今回の旅の間、あんたが頼れるのはあいつくらいのもんだろうしな……変な事態にならない限り』
彼の言う「変な事態」がどういう事態なのかが気にならないこともないが、大事なのはそこではない。
これまではノエルに迷惑をかけたくないからという理由をつけて、無意識のうちに逃げていたような気もする。だが、これからはそうもいかないだろう。お互いに、少しずつでも打ち解けていかなければ、首飾りを取り戻すなんてとうてい無理だ。
「うん。よし、頑張ろう」
一人気合をいれた彼女は、そう小さく独語した。
「あ、晴香さん!」
ちょうどその直後に、背後からじゃっかん潜められている、聞き慣れた声がする。振り返った晴香は駆け寄ってくる緑髪の少年に手を振った。
「あ、ノエル君。もう買い物終わっちゃったよ。今から戻ろうと思ってたところ」
「すみません、ご同行できなくて」
晴香の目の前で足を止めるなりそんなことを言ったノエルに対し、晴香はいいよと言って手を顔の前で振った。忙しいのは分かりきっていたのだし、本当に気にしてもいなかった。
少し残念な気もしていたが、それは言わないでおく。
買い物袋を持ち直した晴香は、ふと気付いた。何やら訝しげに、ノエルが自分の顔をしげしげとながめていたのだ。どうしたんだ、とでもいわんばかりに。
何かついてる? と訊こうとして口を開いたところで、彼に先手を打たれる。
「もしかして晴香さん、殿下に何か言われました?」
「ん?」
晴香は素っ頓狂な声を上げる。どうやらノエルは、あの悪ガキのようにも見える王太子を派遣したことを隠すつもりもないらしい。
呆れはしたが、言い当てられたことに変わりはないので、肯定した。
「うん。なんというか、そんなとこ。でも、なんで分かったの?」
するとノエルは嬉しそうに笑った。
「外へ出る前と比べて、表情が明るくなったので」
このときになって初めて、晴香は自分がごまかし切れていなかったことに気付いた。気丈にふるまったつもりが、どうやら顔に出ていたらしい。
晴香はぷ、と吹きだした。
「うん……心配かけてごめん。城に戻ろう」
「ふふ。そうしましょう」
トレヴァーさんに言われた通り、旅の中ではノエル君といろいろ話そう。そして、彼にも話してもらおう。実は、いろんなことが気になっているから。
そうしてぶつけ合っていけば、きっと今よりも仲良くなれるはず。
いつの間にか「預言者」に対する信頼とは別種の感情を抱くようになった少年と会話を弾ませながら、晴香はそんなことを考えていた。
「なんだか久し振りな気がするね」
あいかわらず物が少ない我が家を見回してそんなことを言う幼馴染に、晴香は相槌をうってから、便せんにペンを走らせた。
旅立ちの日の、前日。晴香は久し振りにライルと会った。ついでに自宅にも呼んだ。どうせしばらく会えないのなら今日くらいゆっくり話したいというのもあったが、そのついでに頼みごとがしたかったからだ。
「で、今は出発準備中だよね。何してんの?」
ライルにそう問われた晴香は手を止めないまま顔を上げる。
「手紙だよ。もし私が出てる間に母さんが帰ってきて、なんの説明もなかったら困るでしょ。てわけだから……」
言っているうちに書くことは一通り書き終えた晴香は、その手紙を封筒に入れて、きょとんとしているライルに突き出した。
「これ、もしそういうことがあったら、母さんに渡しておいて」
「なるほど。俺を呼んだのは、それを頼むためだったんだね、納得」
一瞬にして得心したらしいライルはあっさりと封筒を受け取ると、腰に巻きつけているポーチに滑り込ませた。
「了解。しっかり渡しておくよ。ついでに、定期的にここを掃除しておいてあげる」
さらりと付け足された申し出に、バタバタと準備を続ける晴香は驚いた。
「ええ? そこまでは良いよ」
「まあまあ、そう遠慮しなさんな。帰ってきたとき埃まみれとか、嫌でしょ」
「確かに嫌だけど」
「じゃあ決定」
かばんに物を詰めながらテンポよくライルと会話を進めていた晴香は、あるところでふと手を止めた。彼女の細い指の先にあるのは、飾ってある家族写真。そこに映る笑顔の三人をしばし見つめた晴香は、やがてその手をひっこめた。
「ん? 持っていかないの?」
ためらいもなくかばんに放り込むと思っていたらしいライルに訊かれた晴香は、彼の方を振り返って答える。
「うん。……今回は、家族にすがっちゃいけないような気がしたから」
だから、思い出にも頼らない。
力強く言い切った晴香に対し、ライルは「そっか」とだけ言葉を返した。
――いってきます。
呆れる反面うれしそうな幼馴染の姿を視界の端にとらえつつ、心の中でそう呟いた晴香。
それから彼女が見た写真の中の兄と母は、相変わらずの笑顔で。しかし一方で「がんばれ」と言ってくれているようだった。