第一話 少女――1
あの日は、雨だった。
黒い雲と、水の粒が霧に見えるほどの豪雨。
訃報が届いたのは、そんな日の昼下がりのことだ。
――父が死んだ。
仕事中の事故だ、と聞いた。しかし彼は、父がなんの仕事をしていたのか知らなかった。どういう顔で、どういう人で、いつも子供たちにどう接してくれていたのか、それはよく知っている。けれど、彼がなんの仕事をしているのかだけは、全く知らなかった。
家に帰ってこない日が何度もあった。それが何日も続くこともあった。けれど、父も母も、何も教えてくれない。父の仕事場がどこにあるかさえも。
そうして結局、何も知らされないままに、父は逝ってしまった。
母は笑顔でふるまっていた。彼を、彼の妹を悲しませまいと。
けれど彼は、見てしまった。暗い部屋で、母が独り、父の遺体にすがりついて泣いている姿を。そして、父の体に大きな傷がたくさんあるのを。
見てしまった刹那。遠くで、雷鳴が轟いた。
※
「晴香あー。皿、持ってきてくれー」
野宿用の小さな鍋の中で、煮物がぐつぐつと音を立てている。中の汁をかきまぜながら、光貴は、妹の名前を大声で呼んだ。すると、少し離れたところから返事が聞こえてくる。そうして、妹が皿を持ってくるまでの間に、光貴は汁を少し味見した。
今日の夕食は、野菜と肉のごった煮だ。家庭で作るようにじっくりとは煮込めないが、それでも携帯食料よりは味気がある。木の小皿で汁をすすった光貴は、考え込むように眉を寄せた。
「どう? 光貴」
鍋を挟んだ反対側から、声がする。少年が顔を上げると、金髪の少女と目が合った。彼女は、こちらをのぞきこむようにしてくる。そんな彼女に、光貴は慎重に答えた。
「ちょっと塩味が薄いかな。塩、余裕あるか?」
「だいじょーぶ! あ、でも私にも味見させて!」
「はいはい」
二人がそんな会話をしていたところに、妹が皿を持ってやってきた。彼女――晴香は、仲の良い彼らを見ると、あからさまにうんざりした、という顔をする。
「はーああ。いいねえ、お兄ちゃんとミーナは。料理の話で盛り上がれて」
料理の腕が壊滅的な少女の言葉に、光貴とミーナは目を瞬かせた。
ひょんなことから、各国を旅して回っている、ピエトロ王国出身の若者四人。彼らがアルド・ゼーナ王国を発ってから、数カ月が経った。彼の国で新たに仲間に加わった少女、ミーナ・コラソンも馴染んできて、今のように積極的に野営の準備をしたりしている。
「それにしても寒いねえ。風邪引かないように気をつけなきゃ」
ミーナが、肩をすぼめて呟いた。
アルド・ゼーナに着いたときには初秋だったはずだが、今はもう冬の気配が漂っている。寒々しい風が吹き荒れ、木の葉を散らしていく。さらにここは、エクティア地方北部。いつ雪が降り始めてもおかしくない。
「寒い日に温かい料理が食べられるって、嬉しいよねえ」
味見してから、鍋に塩を追加するミーナを横目に、晴香が言った。光貴は深い同意をこめて、うんうん、とうなずく。
「ノエルの準備の良さには感心するな」
彼が同行者の名前を出すと同時に、横からミーナの声がした。
「良い感じだよ! 二人とも、味見味見!」
「おー、分かった」
光貴がぞんざいに返事をしている隣で、晴香はにんまりと笑っている。
「やっと出番か」
普段の彼女に似合わない、不敵な表情と声だった。
煮物を盛りつけ、乾パンを持って、三人は同行者の元へ行った。目印の、焚火のあとが見える。そして晴香がぶんぶんと手を振った。
「ノエルくーん! ラッセルさーん! ご飯の用意、できたよ!」
その声が聞こえたのか、簡素な野営地で寝袋を広げていた男二人が振り返る。そのうちの一人、赤毛の青年がぱっと目を輝かせた。
「おう、ありがとうな! ……晴香は、手え出してないよな?」
急に用心深くなる青年を見て、晴香は頬を膨らませた。半眼で彼を睨んで、ぷいっとそっぽを向く。
「残念ながら、お皿を運んで味見しただけだよ。残念ながら!」
「そりゃあ、良かった」
晴香の厭味など歯牙にもかけず、青年――ラッセル・ベイカーはからからと笑った。その態度が余計に腹立たしかったのか、少女は「むうー」とうなり声を上げる。そんな様子に苦笑した光貴は、助け舟を出すことにした。
「ラッセル、その辺にしてくれよ。あまり怒らせると飯抜きになるぞ」
「はっは! 悪いな。おまえの妹は、からかい甲斐があるんだよ」
「ひどい、ラッセルさん!」
晴香が悲鳴のような声で非難すると、一行からどっと笑い声が上がる。そして、その様子を微笑ましく見守っていた緑髪の少年、ノエル・セネットが彼らを促した。
「みなさん、そろそろ食事にしましょうよ。料理が冷めてしまってはもったいない」
彼の言葉に、全員がうなずいた。
黄昏の空に、細い煙が立ち上る。薪が赤熱に包まれてぱちぱちと爆ぜ、橙色に光っていた。この時期はただでさえ寒いが、夜になるとさらに冷え込む。焚火と毛布と防寒具は必需品だった。
そして、焚火を囲む四人は、木製の椀を片手に話しこんでいた。
「もう、トルキエ北部に入ったんだよな? 緑君」
ノエルを見て切り出したのは、ラッセルである。珍妙な渾名で呼ばれた彼は顔をしかめたが、すぐ不快感を振り払うように咳払いをした。あくまでも冷静に答える。
「はい。もう少し行けば、ピエトロ王国との国境線に辿り着くはずです」
彼の言葉を聞き、光貴はぽつりと、椀に視線を落とした。
「ピエトロか。故郷に帰る、ってことなんだよな」
今、大陸で異変が起き始めている。そのことを知らせるために、五人は「五大国同盟」に所属する国々を訪ね歩いていた。残るは、エクティア地方西端の秘境、アクティアラ皇国のみ。しかし彼らはその前に、五人中四人の故郷であるピエトロ王国へ戻る選択をしていた。理由――きっかけは、ノエルのある発言だ。
「そういえばノエル君。結局今まで教えてくれなかったけど、『私たちに見せたいもの』ってなんなの?」
光貴は、妹の声を聞いた。晴香がノエルを見て質問している。旅の最中、何度も出てきた疑問だ。ノエルはいつも、それに答えてくれなかった。今回も、案の定首を振った。
「すみません。実際に着くまで、それは教えられないんです。決まりで」
「決まり?」
「ええ。ピエトロ王国の、決まりです」
少年の一言を聞いた光貴は、なんとはなしにラッセルを見る。彼は複雑な表情でやり取りを見ていた。続けてミーナの方を向くと、彼女はこてんと首をかしげている。光貴に説明を求めるような視線を向けてくるが、彼にもどうしようもない。
光貴がため息をついた。
――そのとき、背後に人の気配を感じる。
光貴の肩がぴくりと跳ねた。振り返りそうになったのを辛うじて堪え、様子をうかがう。ほかの四人はまだ気づいていない。気配の主は、逃げるでもなく出てくるでもなく、ただじっとしているようだった。
「……静かに」
やがて、ラッセルの低い声がする。同時に、場は水を打ったように静まりかえった。彼も気配に気づいたようだ。
光貴は焚火を見たまま、気配の主に聞こえる程の声で言った。
「誰だ?」
すると、背後の茂みががさりと揺れ――
「こ、こんばんは……」
ためらいがちな声がした。
光貴は声に振り返り、そして息をのむ。
「女の子……?」
そう。茂みの中から出てきたのは少女だった。それも、信じられないほどの美少女。
火が映しだす彼女の肌は、ひたすらに白い。透き通るような肌、とはこういうことを言うのだろうか、と光貴はぼんやり考えた。さらりと流れる長髪は、艶やかな黒。瞳は、闇より深い深淵のようだった。
だが、容姿以上に光貴を惹きつけたのは――彼女が纏う、「得体の知れない何か」だった。深く、暗い、それでいて優しい、力の流れ。初めて感じるもののはずなのに、遠い記憶が刺激されるような感覚を抱く。
軽く眩暈を覚えた光貴は、少しして我に返った。ぱちぱちと焚火の爆ぜる音が聞こえる。光貴は瞬きをしていたが、少女の方はそれに気付いていなかった。
彼女は一同をおろおろ見回したあと、光貴を見てぴたりとその視線を止めた。目が合った二人は、しばらくお互いを見つめあう。やがて、少女がぽつりと言った。
「あなたは……あなたが、そうなのね」
「えっ?」
光貴でも聞きとれるかどうかわからないくらいの小さな声。思わず彼は訊き返したが、少女は答えなかった。まっすぐに前を向いて、それからぺこんと頭を下げる。
「いきなり、ごめんなさい。驚かせてしまって」
「え、えっと」
晴香とミーナと、ノエルの三人が困ったように顔を見合わせる。ラッセルは、少女を胡乱げな目でにらんでいた。少女はそれに気付いたようだが、少し眉を下げただけですぐに言葉を続けた。
「わたし、旅をしているのですが、行くあてがなくて。それでとりあえず、隣のピエトロ王国に行こうと思っていたんです。でも、国境を通過できるか心配で……。そんなとき、あなたたちの話し声が聞こえたから……」
ノエルが息をつく。どうやら、事のあらましを聞いて納得したらしい。そして直後、茂みから飛び出てきた少女は、もう一度、今度は深く頭を下げた。
「お願いします! わたしも、ピエトロ王国まで連れていっていただけないでしょうか!?」
切羽詰まった声での懇願を聞いて、今度は全員が戸惑った。あまりにも唐突すぎて、どうすべきか咄嗟に判断できなかったのだ。みんながお互いをうかがっている空気を感じたのか、ラッセルが少女にひらひらと手を振る。
「悪い、少し相談させてくれ」
「はい」
少女は不安そうにしつつも、素直に了承した。
そろそろと顔をあげる少女をよそに、五人は額をくっつけて相談し始めた。口火を切ったのは、ラッセルである。
「どう思う? あれ」
ぞんざいな口調で言った彼が見たのは、『預言者』の少年だった。彼は水を向けられると、苦い顔をしつつ少女の方をうかがう。
「正直、怪しいですね。旅の目的もはっきりしていませんし、護身術の心得すらなさそうな女の子が一人で旅、というのも妙な話です。それに、『話を聞いた』と彼女は言いましたが、それにしては彼女がこれほど近づくまで、気配のひとつもしなかった」
ノエルの声に、警戒の色がにじむ。光貴は顔をしかめた。
緑髪の少年が言うことは正しい。しかも、さらに妙なことに、最初に気配に気づいたのはほかの誰でもなく、光貴だったのだ。普通は、ラッセルかノエルが気付いて、真っ先に知らせてくれるはずなのに。
四人が息を詰めて見守る中、ノエルは「ただ」とこぼした。
「敵意のようなものは、まったく感じられません。何か意図があったとして近づいていたとしても……僕たちに直接何かしようとは、思っていないのでしょう」
「けどなあ」
まるで言い聞かせるような言葉を、ことさらに軽い声がさえぎる。光貴と晴香とミーナの三人が目を向けると、ラッセルが両手を組んで頭を後ろから抱えていた。
「俺たちに何かするつもりがなくても、ピエトロ王国そのものに何かするつもりだったら……連れていくわけにはいかない」
鳶色の瞳に、稲妻のような光が走る。ラッセルという一人の青年としてではなく、宮廷魔導師ラッセル・ベイカーとしてふるまっている証拠だった。ノエルは彼を見て、渋面を深くする。それからちらと、年少組を振りかえった。
「あなた方の意見は、どうですか?」
問われた三人が顔を見合せる。最初に口を開いたのは、晴香だった。
「私は……国境を越えるくらいまでなら、一緒に行ってもいいかなと思った。あの子、確かによく分からないけど、すごく真剣に頼んできたし。何か嘘をついているようには思えないよ。そのまま連れてくのが不安なら、最初の街で別れればいいでしょ」
訴えるような口調に、全員が気まずそうな顔をする。晴香の言葉に便乗するように、金髪の少女が手を挙げた。
「私も――せめて、途中までは一緒にいてあげたい。なんだか、放っておくのも不安だもの、彼女」
ミーナの言葉を受けて、ラッセルがあからさまに困ったような表情になる。ノエルは微笑ましげにため息をついていた。やがて、晴香が光貴を見る。
「お兄ちゃんは?」
「え?」
それまで深く考え込んでいた光貴は、唐突な声がけに驚いた。全員の視線が自分に集まっていることに気付くと、彼は苦い顔で下を向く。それからふと、少女が立っている方を見た。
「俺は――あの子を連れていきたい」
晴香をはじめ、全員が言葉を失った。
光貴のそのような言い回しを聞いたのは、妹の彼女ですら久し振りだったのだ。「連れていってもいい」ではなく、「連れていきたい」である。
だが、本人は仲間の驚きを分かっていなかった。遠くを見るような目で言い募る。
「もちろん、困ってるっていうのもあるんだけどさ……。あの子から、何かを感じるんだ。引きつけられるような、ずっと探していたような、何か。どうしてか分からないけど、あの子を見てると」
――見届けなくちゃいけない、って気持ちになるんだ。
語っているときの光貴の表情は、今までにないくらい静かだった。長い時を超越したかのような目が、空をなぞる。誰かが息をのむ音が聞こえた。
人知れず満ちた緊張はしかし、一人の少女に破られる。
「ふーん?」
わざと軽い口調で反応した晴香は、悪戯っぽく笑った。
「お兄ちゃんがそんなふうに言うなんて、珍しいじゃん。もしかして、あの子に惚れた?」
「ほっ……!?」
光貴が目をみはってのけ反る。そのときには、年相応の顔が戻ってきていた。
「そ、そんなんじゃねーよ!!」
「どうだかね。顔、真っ赤だよ」
「っ、晴香! おまえなあ!」
「お兄ちゃんにカノジョができるなんて、嬉しいなあ」
「光貴! 恋愛は攻めが大事よ!」
晴香が勢いのままに兄いじりを始め、さらにミーナが便乗した。彼女が恋愛のなんたるかを語ると冗談に聞こえない、と光貴は思う。
そのままぎゃあぎゃあと言い合いをする三人を見て、ラッセルが大きく息を吐いた。疲れのにじんだ鳶色の瞳が、かたわらの少年の苦笑を捉える。
「えーっと。じゃあ、同行を許可して様子を見るってことでいいんだな?」
「いいんじゃないでしょうか。賑やかになりますね」
緑髪の少年は、朗らかな笑顔で答えていた。




