第五話 想い――4
魔導師の老人は、早朝の道をのろのろと歩いていた。
乾いた土とぽつぽつ生える草の中に、まるでチョークか何かで一本線を引いたように続く道。ここは、アルド・ゼーナ王国の首都、エルメインからわずかにそれた郊外の街道だった。一日を通してほとんど人通りのないこの道は、逃亡老人にとっては格好の逃走経路だったのである。
「やれやれ、結局手に入れたのは前金だけか」
自分の懐をまさぐりながら、魔導師は言う。
――王太子と侯爵から与えられた任務。それは、彼らが王都追放という刑罰を受けた時点でうやむやのものとなってしまった。この老人自身は騒ぎに紛れて遁走したのでほとんど無傷なのだが、報酬が予定の半分しか手に入らなかったというのは何だか悔しい。
「まあ、それでもしばらくは遊んで暮らせる金だな」
彼は快活に笑いながら呟いた。だが、すぐにその笑顔は消える。彼の目の前に、いつの間にか女が立っていたからだ。
黒い長髪の女。すべすべの白い肌としわのない顔つきからしてまだ若いようにもみえるが、実際はそうでないことを老人は知っている。それどころか、彼女はもはや「人であり、人でないもの」だ。
「久しぶりね」
言って、女は妖艶に微笑む。紅唇は美しい三日月の形を描き、目は楽しげに細められていたが、その奥の瞳はまったく笑っていない。
「おまえは……」
「あなたのこと、観察させてもらったわ。シルヴィアに任務を言い渡させた直後から、ね」
「くっ!」
それが何を意味するのか。王宮での日々を振り返った老人は即座にそれを判断し、そして身をひるがえした。街道をそれて不毛地帯へと逃げ込もうとする。だが、そんな彼の走りを、背後から突きつけられた漆黒の刃がさえぎった。
「今まで気づかなかった私が迂闊と言うしかないのだけれど」
艶やかなような声。しかしその本質は、氷よりも冷たい怒りだ。
「先の任務の『失敗』。あなたはあれを『失敗』と言ったけれど――そうではなかったのね」
女が、色も温度もない無表情をしている。それを見てもいないのに、老人は気配でそう悟っていた。感情のこもらない声は、淡々と真実を語る。
「『次代の“神聖王”となりうる者を、ピエトロ王国に先んじて見つけること』。あなたはこれを達成できなかった。出来なくて当たり前よ。この任務を受ける前に、シオン帝国の依頼で標的を封印魔法にかけていたのだから」
「あ、あれは」
「あら、言い訳するの? それはいいわね。どんな素晴らしい作り話が聞けるかしら」
老人は喘ぐように口を開閉し、やがてそれを閉じた。
もはやどんな弁明も意味をなさない。今、彼女を支配しているのは――彼を消すという意思、ただそれだけだ。
実体がないはずの刃がぬるりと光ったように、老人には思えた。
「あなたのような信頼できない男を生かしておいても邪魔になるだけだわ。――さようなら」
冷酷な宣告はしかし、その内容に反してあっさりと告げられた。
老人は咄嗟に言葉を発しようと口を開き、しかしその望みがかなえられることはない。邪な魔法で作られた刃はあっという間に虚空をすべり、老人の細い首を両断した。
胴から離れた頭が宙を舞い、その軌跡を描くように鮮血が細く飛び散る。
女、つまりアスタロトは、その様を無感情に眺めた。
「あっけない」
嘲りも悲しみもない平坦な声で呟いた彼女は、繊細な手を一振りする。すると、先程人の首を刎ねた魔力の刃は、跡形もなく消えうせた。
トルキエは、ピエトロ王国の南に位置する小国である。歴史は長いがとりたてて有名な遺産があるわけでもなく、かといって特有の品があるわけでもないこの国だが、ひとつだけ特徴的な部分があった。
それが、川が多いことである。特に首都近辺を流れる大河は、世界でも五指に入るほどの規模だ。一見なんということのないように見えるこの特徴はしかし、この国の歴史の長さを裏付けていた。周辺国の中でも比較的温暖で、乾燥しているトルキエでは、このたくさんの川のおかげで古くから穀倉地帯のひとつだったのだ。だからこそ、エクティア地方でいち早く文明が発達した。大陸中央の諸国には劣るそれを、しかしトルキエ人はとても誇りに思っている。
少女は、パンを片手に短く息を吐いた。ため息というほど深いものではないが、こころなしか疲れが滲んでいる。ただパンを買いに寄っただけのはずの店で延々と国の歴史を聞かされれば疲れも出るというものだ。
「この国は小さい。けれどこの国の人たちは、この地とご先祖様をとても誇りに思っている」
それは、国の成り立ちを得意気に語る店主の表情からよく分かった。話自体は途中から適当に聞き流していた少女だが、彼の輝かんばかりの笑顔には微笑ましくなったものである。
「それは、とても素敵なこと」
トルキエは、輝いていた。
否、トルキエだけではない。少女がこれまで渡り歩いてきた国は、すべて輝いていた。大きな国も小さな国も、豊かな国も貧しい国もあった。だが、民たちは生き生きしていたのだ。時に笑い時に怒り、人間らしく生きる。そんな民たちが生きる国。それは、少女がいた国とはまったく違う様子だった。
「外の人たちには、『心』があるわ」
呟いて、少女はパンをかじる。温かくて、やわらかい。ほのかな甘みが口いっぱいに広がった。少女は満足げに微笑むと、再び歩き出す。それから、道の先に大きな編み籠を抱えた婦人を見つけて、そっと声をかけた。
「教えてほしいことがあるのです」
「おや、なんだい?」
「ここからどちらへ行けば、ピエトロ王国へ抜けられますか」
婦人は最初きょとんとしていたが、すぐに何やら納得したようにうなずいた。そして、空いている方の手を顎にあてて、「なるほどなるほど」と繰り返す。
「ピエトロに用があるんだね。――ええと、この道をまっすぐ行って、北門を抜けるのさ。それから街道沿いに進む。途中、いくつか街があるから、そこを経由しながら行くといいよ。この先ならどこでも地図が売ってると思うし」
「何日くらいかかりますか」
「そうだねえ。早くて一週間、てところかな」
少女は与えられた情報を素早く頭の中で整理した。そして、小さく顎を動かす。
「そうですか。ありがとうございます」
「はいよ。気をつけてお行き。――ああ、そうだ」
婦人が突如何か思い出したかのように声を上げる。立ちさりかけていた少女は、その足を止めた。
「北の国境は警備が厳しいから、出入国手続きに時間がかかるかもしれないよ。国境警備員によると、ピエトロ側の『セイボショ』とかいうのと隣接してるから、っていうんだけど」
その言葉を聞いた少女の肩が微かに跳ねる。だが、婦人はそれに気付かなかった。
「……お気づかい、ありがとうございます」
動揺を抑えこむようにして放たれた少女の声に、微笑んだのみである。
一方少女は、はやる気持ちを抑えて足早に歩いていた。
つい先ほど聞いたばかりの話が、頭の中を繰り返しかきならす。
「セイボショ……聖墓所」
たどたどしい言葉を反芻し、それをはっきりと言いなおした彼女は、ふっと笑みを刻んだ。
「ずいぶんと、皮肉な運命」
感情のはっきりしない声で少女は呟く。それからふと、薄い空を見上げた。さらさらの黒髪が風に流されてなびく。
「――あなたは死の間際、どう思ったの? 憎んだ? それとも、悲しんだのかしら」
遠い問いかけは、誰にも届かない。それを分かっていながら、しかし少女は語り続けた。
「わたしが『彼』に会いにいこうとしていると知ったら、あなたは怒るかもしれない。でも、大丈夫。あなたが思うような事は起こさない、起こさせない」
穏やかだった闇色の瞳が、ふいに鋭く煌めいた。意思の刃を光らせた瞳は、挑むように青空を睨む。
「――因縁は、わたしたちの代で終わらせる」
その響きは、まるで宣戦布告のようだった。
これまで何度も、何度も虚空に投げかけてきた決意の言葉。しかし、この時の言葉は少女にとって、今までとは違う意味を持っていた。
だが、その「意味」とはなんなのか、という結論を少女は出さなかった。ただ、力強い声の余韻だけを宙に残し、賑やかな町に背を向けたのである。
【第三章 END】




