第二話 学問の日々から――2
「うわあ、やっぱりおいしそうだな」
本日のおやつ、小ぶりなドーナツの詰め合わせをみて目を輝かせる晴香の背後から、専属侍女のルナが言った。
「そう言ってもらえると嬉しいです。料理人さんにも伝えておきますね」
彼女は口調こそ丁寧だったが、物腰は友達相手に会話するときのそれである。もっとも、最初はルナも晴香に対してうやうやしい態度だった。『神託の君』相手ということで、いつも以上に気を遣っていたらしい。しかし、晴香がそれを望まず、その意思を彼女に伝えてから、二人は友達同然の関係となった。
「では、わたくしはこれで!」
ルナはそう言い残すと、駆け抜けるような速さで部屋をあとにした。ちなみにここは、ノエルの私室――の横にある、学習室だ。
ルナが去っていって五秒ほどしてから、晴香は「いただきます!」と嬉しそうに言う。それにならったノエルの声が聞こえてから、彼女はドーナツに手を伸ばした。
「晴香さんって、本当にお菓子が好きですよね」
幸せそうに丸い焼き菓子をほおばる彼女を見ながら苦笑するノエル。晴香は彼に、ドーナツをのみこんでから返事をした。
「あ、ああ。こんなにおいしいもんだからびっくりしちゃって。うち、昔からいろいろあって経済的に余裕がない時期もあったから、あんまりこういうもの食べなかったんですよね」
「そうなんですか?」
「はい。あ、ノエルさんもどうです?」
興味深そうに晴香を見てくるノエルに、その晴香はドーナツを差し出した。ノエルは「ありがとうございます」と言ってから受け取ると、少しずつ食べ始めた。
そうして何秒か経った頃、言う。
「あの……晴香さん。前々から思っていたんですけれど」
「ん? なんですか?」
続いてティーカップの方に手を回した晴香が顔を上げると、ノエルは少し言いにくそうにこう口にした。
「『これ』が素の僕が言うのもなんですが……せっかく、これから一緒に旅をするんですし。敬語、抜きで構いませんよ」
彼の言葉に、晴香はかたまった。
実は、ちょっとずつ気を遣って言葉を選びながら接していたのだ。それがばれてしまったということか。赤くなってうつむいた彼女は、小声で問う。
「いいんですか?」
「ええ」
少年のはっきりとした返事を聞いた晴香は、顔を上げて笑った。
「分かった。よろしく、ノエル君」
するとノエルはほっとしたような表情になり、ドーナツの最後の一口を平らげた。それから返してくれる。
「はい。よろしくお願いします」
晴香もこれにほっとした。今まで二人を隔てていた、薄い薄い壁がようやく取り払われたような気分になったのだ。安心したので、もうひとつドーナツをつかみとる。
そのままたわいもないおしゃべりタイムに突入しかけた二人だったが、その二人を突然の来訪者がさえぎった。何分かぶりに、再び扉を叩く音がする。しかし、ルナのものとは違った。
彼らは同時に首をかしげ、それからノエルが「どうぞ」と言う。その来訪者は、声に従い入ってきた。
「こんにちは。甘い時間を邪魔してすまねーんだけど、ノエルに用があるんだ」
その人は陽気な声を上げる。金髪の、よくよく見るとアルバート王に顔が似ているような気がする若者だった。何者かまったくわからなかった晴香は首をかしげたが、ノエルは対照的に目を見開いてからひざまずく。
「お……王太子殿下!」
「えっ!?」
本日何度目になるだろうか、驚きの声を上げた晴香を見て、王太子らしいその男は笑う。それから、「まあ楽にしろって」と言った。
恐る恐る立ち上がったノエルは、彼に問う。
「ど、どのような御用で?」
「父上がおまえと話したいんだとさ。おおかた、そのお嬢ちゃんに関することだろうよ」
言いながら、彼は親指で扉を示した。ノエルはそれを聞いて、少し張り詰めたような表情になる。
「分かりました」
「おし。じゃ、俺はこれで」
彼の返事を聞いた王太子は、ひらひらと手を振りながら部屋を去る。直後、室内には妙に薄っぺらいながらも重苦しい沈黙がただよった。
「すみません、晴香さん。今日の学習はここまでになりそうです」
「あ、うん。分かった。それじゃあ私帰るね」
ぎこちない返事をした晴香は、とりあえず王との談話に赴くノエルの背中を見送ってから、残りのドーナツをちゃっかりお土産として頂戴し、帰路についた。
廊下に出ると、なぜか突き当りの柱の影で自らの主が手招きをしているのを見た。その様に呆れつつも、ノエルは手招きにしたがってアルバートのもとへ行く。
すると彼は、ガキ大将のような顔で頭をかいた。
「すまんな、ノエル。いきなり呼びつけて」
「大丈夫ですよ。お気になさるのは、無理もないことでしょう」
ノエルが淡々と言うと、アルバートは少し困ったようになってから、「どうだ?」と言葉少なに問うてきた。それが晴香のことだとすぐさま察したノエルは、あくまで淡々と答えを口にする。
「勉強の方は順調です。少しのみこみが遅いときもありますが、旅の遅延を考えるほどではありません。むしろ非常に聡明な方だと思います。
『力』の方は……発動の兆候すらありません。やはり、旅の中で徐々に覚醒するか、その導きに従って『神聖王』ご本人を見つけるか、のどちらかでしょう」
「そうか、そうだな」
ノエルの報告にどこか煮え切らない返事をした国王は、うむ、と考え込むような素振りをした。しばらく黙ってそれを見ていたノエルだったが、やがて緑の瞳で目の前の王を睨みつける。
「それよりも陛下。先日私にくださった情報……あれは、どういうことです?」
ここでようやく、柔和なアルバートの表情がひきしまったものになった。彼は鋭さが増した声で答えてくる。
「どうもこうも、書いてある通りだ。だから言ったであろう。国軍がむやみに出しゃばってどうにかなる相手ではない、と」
その声を最後に、沈黙が下りた。
ノエルが国王よりもらった情報。それはいうまでもなく、『夜空の首飾り』のありかと犯人に関する重大な手掛かりとなるものだった。それは、良かった。問題はその情報の中にあった、犯人と思われる者たちを示す名。
重い口を開いたノエルは、確信していた。
「……あの日、申したはずです。晴香さんは未だ一般人であると。過酷なご命令は避けていただきたいと」
アルバートは、何も言わない。だから代わりに、ノエルが言ってやった。
「陛下。実はあなたは、重大な何かに気付いておられるのではないですか?」
さて、今日は世界情勢について学んでいただきます。
天使――空想上の――のような笑顔のノエル。彼の口から吐き出された悪魔のようなセリフに、覚悟していたとはいえ晴香の顔は引きつった。だが、逃げるわけにはいかない。旅に出るためにこなさなくてはならないことなのだ。
腹をくくって、羽ペンをにぎる。
「はい」
はっきりとした声で晴香が返事をすると、ノエルは大陸の地図を取り出してきて広げ、向かい側に座る教え子に手招きをした。彼女が自分の方に回り込んでくると、彼はその中の、ピエトロ王国の部分を指さして解説を始めた。
「ここが、僕らの住むピエトロ王国です。既にご存じかと思われますが、周辺にはいくつかの国がひしめき合っており、王国はこの辺りの国々とはおおむね関係良好です。唯一、西方のヴィスターテ帝国とはある土地の領有権でもめていますが……」
言ってから彼は地図の右端に指をすべらせた。そこには小さな国があるが、ノエルが示したいのはもっと別の場所のようだった。
「ちなみにここからさらに東へ行くと、晴香さんのお母様の故郷、陽国がありますね」
「こうして見ると、王国からはホント遠いよねえ」
そのせいもあってか、晴香が生まれてから母は一度も里帰りをしなかった。兄は一度だけそれに付き添っていったという話を聞いたことがあり、ひどく羨ましくなったものだ。機会があれば行ってみたいと思っている。
微笑んだノエルが、再び大陸の方に指を戻す。
「さて、ここからが本題です」
そんな前置きをした彼は、いくつかの話をしてくれた。ピエトロ王国と対立しているヴィスターテは、その実貿易相手としては欠かせない存在で、現在、外交を立て直そうと王国の外交官たちが必死になっているということ。陽国とピエトロは目立った関係形成をしていないものの、近々なにかの条約を締結しそうなことなど。
しかし、数ある話のなかでも特に重要だったのが――
「今、王国が……というより、世界がその存在を危険視している国のひとつが、この大陸にあります」
そう言ってノエルが指さしたのは、東南の方。広い陸の中で、ひときわその存在感を示す大国。
「シオン帝国。もともと大国でしたが、十数年前から急激に経済発展し、軍備増強も始めました。そのときから今日にいたるまで、勢力を拡大し続けています。しかし、そんなことよりも何よりも僕たちが彼の国を危険視している理由は――『ある集団』が、彼の国の上層部と関わっている可能性があるからです」
「ある、集団?」
晴香はノートの上を走らせていた羽ペンを止めて訊き返す。するとノエルは、具体的なことを何も言わず、ただこう答えた。
「『夜空の首飾り』消失に関与しているかもしれない……集団です」
「なっ――」
短い悲鳴のようなその声が自分のものであると晴香が気付くのは、しばらくしてからだった。
このときはまだ混乱していた。口をあんぐりと開けたままの状態から、おそるおそる問いかけてしまう程度には。
「そ、その集団、ってどういう?」
「具体的なことはまだ何も分かっていませんが、危険な組織だということは分かっています。かつてピエトロ王国は彼らと刃を交えたことがあるそうで。ずいぶん昔のことなので量は少ないですが、記録にそのことが残っています」
表面だけを拾い上げるようにして語るノエル。それは彼なりの気遣いだっただろうが、あいにく晴香には、その集団とやらがどれだけ危険な組織かが分かってしまった。ノエルの顔がとても険しかったせいである。
「首飾りを取り戻すためには、そんな奴らと相対しなきゃならないの?」
みるみるうちに心の中に不安が湧きあがってきて、気付けば晴香はそう呟いていた。対面の少年はしばらく言葉を探していたものの、今回ばかりは苦々しい表情を隠そうとしなかった。というより、それができないでいるようだった。
「はい。そのよう……です。あの陛下に限って、晴香さんをむやみに危険な目に遭わせようとはしないだろうと踏んでいたのですが」
――昨日、ノエルは国王に問いかけた。「実はあなたは、重大な何かに気付いておられるのではないか」と。
国王は、はっきりと答えなかった。肯定とも否定とも取れる言葉でごまかされてしまったのである。そのおかげで、結局ノエルの主君の真意は未だ闇の中だ。
彼自身、あのアルバート王が何を考えているのか、そのときからずっと不安に思っている。、主を信頼していないというわけではないが、その意図するところが分からないとなると不安になるのは当然だった。
今の苦々しい面持ちにはそういった感情も含まれているが、少なくとも、今学習室で唖然としている少女はそのことに気付いていなかった。それを幸と取ったか不幸ととったかノエルはいつもの調子に戻り、続けた。
「僕もそのことを知ったのはつい先日で、このタイミングに世界情勢の話ができたことはよかったと思っています。首飾りを探すにあたって、頭に入れておいていただきたい重要事項でしたので」
「そっか。そうなんだね」
納得したことを示すために、何度もうなずく晴香。彼女は胸の中をじわじわと覆い尽くしていく黒い感情を無理矢理おさえこむかのように、両手に力をこめていた。ノエルに悟られまいと頑張っていた様子だったが、当のノエルといえばとっくに気付いていたらしく、少々悲しげな顔をした
「……もし、不安や不満があれば、遠慮なく言ってくださいね」
その気遣いは嬉しかった、たまらなく。涙が出そうになるほどに。だが、だからこそ晴香は唇をかんだ。
「ありがとう。でも、大丈夫。やってみるよ」
口を突いて出たのは、そんな言葉と、我ながら下手くそな作り笑いだった。