第四話 混沌の夜――1
王宮の混乱は続いたままだ。ミーナが唐突に暴走したせいか、幾人もの文官武官が駆り出されて、廊下を駆け抜けている。悲鳴と怒号があちこちで飛び交っている。また新たなやり取りを聞いた光貴は、眉をひそめた。
――たちの悪いことに、騒動はそれだけではないらしい。どこからか新たな襲撃者がまぎれこんでいるというのだ。ここはまだ戦場にはなっていないが、それも時間の問題だろう。
光貴は焦りをにじませながらも、宮殿を走り続けていた。時折すれ違った人に探し人の行方を尋ねながら進んでいると、やがて見覚えのある赤毛が見える。
「フレイ!」
張り上げた声は、彼自身の予想以上によく響いた。呼びかけに振り向いた少年が、目を丸くする。
「光貴、来たのかい。ミーナはどうしたの?」
「晴香とラッセルたちに任せてきた」
肩で息をしながらステアーズ公子に駆け寄った少年は、見上げるかたちで相手をにらんだ。だが、視線を向けられた当人はそれに気づかないまま、廊下の向こうを見やる。
「そうか……」
呟かれた言葉にこめられた感情は、名前の分からぬものだった。目を細めた光貴はしかし、ため息をついただけで、それ以上責めることはしなかった。
「『呪術師』を追いかけてたのか?」
「ああ。前に会ったときに感じた、奴の力を頼りにね。でもミーナの暴走のせいか、すごく分かりにくいんだよ。急がないと逃げられるっていうのに」
フレイは忌々しげに目を細めて吐き捨てる。しばらく何かを堪えるようにうつむいていたが、やがてはきっと光貴を振り返った。
「行こう。こんな所で苛立っててもしょうがない」
「ああ、そうだな。本当に手遅れになったらまずいし」
厳しい声を投げかけられた光貴は、苦笑しながらうなずいた。二人はどちらからともなく走りだす。だがその眼前に、いきなり黒い影が立ちはだかった。反射的に後ろへ跳んだ彼らは、影の正体を一瞬で悟ると眉をひそめる。
その影――黒ずくめの人間たちは、その瞬間に襲いかかってきた。
「こいつら……なんだ?」
「多分、『首謀者』が送りこんできた襲撃者どもだろうな」
激しい雄叫びとともに叩きつけられる剣をぎりぎりで受け流しながら、光貴は公子の疑問に答えた。続けざまに刺客の鳩尾めがけて肘を打ちこみ、指先で得物を回転させる。改めてそれを握りしめる少年を見て、フレイは苦々しい顔をした。
「……ねえ、君って本当に元庶民? 動きが普通じゃないよ」
「嘘ついてもいいことないだろ。ただラッセルにしごかれただけだ。っていうか、そんなこと言ってる余裕があるなら――」
二人ほどの襲撃者が飛びかかってきたため、光貴は口を閉じざるを得なかった。一人の剣を弾き飛ばし、そこに生じた隙を使って足払いをかける。相手が転倒したことを確認もしないまま、二人目の手首に刃を走らせて、腹を思いっきり蹴り上げた。
黒い身体がどうっと大理石の床に倒れる。光貴が肩で息をしていると、その横でいきなり深紅の炎が弾けた。複数の悲鳴が重なる。
彼が振り返ると、赤髪の少年が冷然と襲撃者たちを見ているところであった。襲いかかってくる彼らに対して少年が手を振ると、空中に炎が噴き上がり、あっという間にその身体を舐めつくしてしまう。
「朋友の国で、ずいぶんと勝手な真似をしてくれたものだな」
冷たく吐き捨てる『叡智王』の姿は、とても十歳ほどの子供とは思えぬものだ。傍で見ていた光貴の背を、悪寒が駆け抜ける。だがフレイは、しばし襲撃者たちとにらみ合うと、不意にその手を掲げた。指先から炎が生まれ、あっという間に広がっていく。やがてそれは壁のように刺客の前に立ちふさがった。
火の壁に戸惑う彼らを無感動に見つめたフレイは、光貴の方を振り返る。その目は、いつもの彼となんら変わらない穏やかなものだった。
「さあ。行こう、光貴」
「あ、ああ……」
ステアーズ公子のあまりの豹変ぶりに困惑しながらも、光貴は小さな背中を追って走り出していた。
王宮の中を奥へ奥へと進んでいくにつれ、空気は淀んだものに変わっていった。壁や床に赤い血がこびりつき、異様な臭いを放っているせいである。辺りでは刺客と騎士たちによる乱戦が繰り広げられていた。
むごたらしい死体を目に留めた光貴は、顔をしかめる。それは刺客のものであったが、気分がよくないことに変わりはなかった。
「あいつの姿が見えないな……」
隣から聞こえてきた呟きに振り返る。フレイが、落ち着きなく辺りを見回していた。
「あいつ、って呪術師を名乗ってたやつだよな」
「うん。気配をまだ感じるから、王宮を出てはいないはずなんだけど」
独白に似た少年の呟きに触発され、光貴も辺りをうかがってみる。廊下の端では今も戦闘が繰り広げられており、ちょうど騎士の一人が刺客を切り捨てたところであった。文字通り血を血で洗う混乱の中、しかしあの黒い衣は見当たらない。
「もうちょっと探してみるしかなさそうだな」
「うん……」
光貴が疲れたように呟くと、フレイも暗い顔でそれに同意した。
二人は混戦の中をひたすらに突き進む。襲撃者たちとは何度も相対した。そしてそのたびに光貴が蹴り飛ばし、フレイが焼き払うということの繰り返しである。
剣の柄を襲撃者の脳天に叩きつけて昏倒させた光貴は、深々とため息を漏らした。
「いつまで続くんだろうなー、これ」
「さあねえ。とにかく、探すしかないよ。目撃証言もないしさ」
炎の壁を作り上げたフレイが振り返る。彼が言うには、まだあの呪術師の魔力ははっきりと感じ取れるらしい。とすれば、それを辿る以外に方法はないだろう。二人とも、どこか投げやりな様子で包囲網を突破して、再び廊下を駆け抜け始めた。
それからどれくらいの時が経っただろう。辺りが急に静かになったのを感じて、光貴は無意識のうちに足を止めた。直後にフレイも立ち止まり、目を細めて辺りを眺め出す。
「ずいぶんと静かになったね。不気味なくらいだ」
見てみれば、そこに人は一人もいなかった。武官も文官も、襲撃者たちも。長い廊下にいるのは、その真ん中にぽつんと佇んでいる二人だけ。
うすら寒さを感じて、光貴は身震いをした。そしてごまかすように正面に向き直り――思わず声を上げる。
「あっ……呪術師……」
喘ぐような叫び声がすべて終わる前に、彼らの目前に姿を現した黒衣は、一瞬で曲がり角の向こうへと消える。だが、それを黙って見逃すほど少年たちは馬鹿ではなかった。
「逃がすものか!」
床を蹴ると同時にフレイが吠える。光貴はそれに続けて走り出し、同時に相手の魔力を捉えた。ようやく相手の尻尾を捕まえ、追跡の体勢に入る。
呪術師――魔導師の動きは決して俊敏ではないが、そうはいってもなかなか捉えづらいものだった。舞を演じるかのようにあちらこちらへふわりふわりと移動する。その度に公子の苛立ちが増していくのが光貴には分かった。そして同時に、苛立てば苛立つほど捕まえられなくなる、と冷静に判断してもいた。
二つ目の曲がり角へさしかかろうとした頃、少年は唐突に手を振る。目をきつく閉じ、内側にわだかまる熱を外へと放射した。すると魔導師の眼前に白く光る短剣の列が現れる。相手がそれをよけようとする前に、光貴は勢いよく手を振りおろした。すると短剣は勢いよく地面に突き刺さり、やがてそれは形を崩して薄い光の壁となる。
「……よし」
「やるじゃん、光貴!」
光の壁で相手を阻んだ光貴は、肩で息をつく。正直、成功する自信がなかったのだ。一方、魔導師に追いついたフレイは、彼の方を振り返って拳を固めたのである。
追いつめられたはずの魔導師はしかし、そんな二人を愉快そうに眺めていた。
「いやはや。お二人とも、お若いですなあ。腹立たしいくらいです」
細く開かれた口から、しわがれた声が漏れる。少年たちは閉口し、魔導師に向き直った。にやりと気味の悪い笑みを浮かべる老人は、口調こそ丁寧なものだったが、前とは違って二人に小汚い物を見るような目を向けていた。
フレイが顔を険しくして、一歩前に踏み出す。
「腹立たしい、はこちらの台詞だ。この詐欺師め。よくもミーナを……あんなひどい目に遭わせたな!」
紅い目に、さらに激しい炎を燃え盛らせて少年が叫ぶ。最後の一言はもはや、叫びに近いものがあった。ほとばしる殺気は、光貴が身を竦ませるほどのものだ。
だが、ステアーズ公子にして『叡智王』たる彼の糾弾を受けても、魔導師は平然としている。
「ミーナ様? ああ、あの魔法のことですか」
「やはりおまえだったんだな。今すぐミーナの元へ行き、あの魔法を解け!」
「それは無理でございますよ」
あまりにもあっさりとした否定。笑う魔導師を見て、フレイが口をぱくぱくさせている。引きつった顔を見れば、怒りのあまり何も言えなくなっているのは一目瞭然だ。
うるさい少年が沈黙したのをいいことに、老人はさらに続ける。
「それに、あの魔法を解く必要などないでしょう」
「なんだと?」
光貴とフレイが、異口同音に叫ぶ。すると魔導師は、まるで叙事詩でも詠むかのような大仰な手ぶりを見せた。
「私はただ、ミーナ様の御心にとりつく闇を、外部に解き放っただけのことであります。あれは彼女の正直なお気持ちなのですよ。それをわざわざ抑えこむ必要が、どこにありましょうか」
芝居がかった魔導師のしぐさに、光貴は拳を握る。こんなもの、フレイでなくとも耐えきれない。
「おまえ…………ミーナのあの暴走を見て、よくそんなことが言えたな」
「関係のないことです。少なくとも私には」
魔導師はどこまでも白々しい態度を装った。光貴は思わず歯ぎしりする。今の彼の様子を妹が見ていたのなら、今までにないほどの怒気に震えあがっていたに違いなかった。それほどまでに、光貴は怒っていた。
だが、首謀者本人がこのような態度ではいかんともしがたい。光貴とフレイは視線を交差させる。お互いに考えていることは同じようだった。
「――どうして、あんな真似をした」
やがて、光貴がそう問うた。老人のぎょろりとした目が見開かれる。直接解呪をさせるのではなく、魔法をかけた真意を探る。少年はそういう策に出た。訝る魔導師に対し、言い募る。
「守護天使にこんなふうに危害を加えれば、おまえは困るだけじゃないのか」
「……そうでもありませんよ」
ややあって、魔導師はそう呟いた。少年たちは目をみはる。
「まあいい顔はされぬでしょうが、私にはそれこそ関係のないこと。なぜなら、私の雇い主は、『豊穣姫』を消すことをご命令なさったからです。私はその命令を、忠実に実行するまで」
「――なんの冗談だ、それは」
フレイの瞳に、再び怒りの炎が灯る。彼の性質のせいか、その小さな体の周りを本物の炎が取り巻いているように錯覚し、光貴は息をのんだ。一方の魔導師は、そよ風が吹いたほどにも動じない。
「冗談ではございません。事実です」
「ならば、貴様にそんな命令を下したのは誰だ!」
「こんなところにいたか」
突如、この場の誰のものでもない声が割り込んできた。涼やかな男の声。二人の視線が、魔導師の後ろに集中する。魔導師本人も振り返って、にやりと笑った。
「噂をすればなんとやら、ですな」
面白そうな声が聞こえる。
魔導師の背後には二人の男が立っていた。どちらもくすんだ金髪と鋭い碧眼を持つ美男だ。よく似ているから、兄弟なのかもしれない。二人が二人とも、冷やかな目つきで魔導師を睨んでいる。
傲然とした態度を取る二人の若者を、光貴は知らなかった。だが、一瞬だけ『誰か』の姿と彼らが重なったような気がしただけだ。不思議に思った彼は、フレイに説明を求める眼差しを向ける。そして驚いた。
「フレイ……?」
フレイは、二人の方を見て瞠目していた。あまりのことに、唇が小刻みに震えている。魔導師への怒りすら忘れてしまっているようだった。
一方、二人の若者はフレイの姿に気付くと冷笑を浮かべる。
「おまえは、ステアーズ公国の第三公子だな。卑しい公国の者ごときが、この王宮の敷居をまたぐとは」
ずいぶんな言いようである。目を細めた光貴は、フレイの小さな肩をゆすった。
「おい、フレイ。あの二人は誰だ」
「……あの、お二方は」
その呼び方に、光貴は目をみはる。だが、驚きはこれだけでは終わらなかった。わなわなと震えだしたフレイは、光貴と二人を交互に見て、そして叩きつけるように叫んだのだ。
「ルドニア侯爵と……王太子殿下だ。つまり、どちらもこの国の王子だよ!」
ラディス王の姿が脳裏をよぎる。
この場の時が止まってしまったように、光貴は錯覚していた。




