第三話 刹那の追憶――4
「な、なんだ!?」
フレイが珍しく動揺を顔に出した。光貴も突然のことに驚いて、素早く辺りを見回す。
その間にも、轟音の余波のような、低い地鳴りが何度も響いた。そこに、人の悲鳴と思しきものが重なる。はっと顔を見合わせた二人は、謎の衝撃と音が止んだその瞬間に弾丸のような勢いで部屋を飛び出した。
廊下では夜勤の文官武官が忙しなく駆けまわっている。およそ夜とは思えないざわめきが、王宮全体に満ちていた。
「どういうことだよ、これ……」
「さあ……何かあったのは、間違いないようだけど」
周囲の状況を確認しながら、ひそひそと言葉を交わし合う光貴とフレイ。人々は、彼らの横をすり抜けていく。緊急事態ゆえ、二人の姿が見えていないようだった。
再び、獣のうなり声にも似た音が響く。
「この音は、どこから聞こえてきてるんだろう」
視線を動かしながらフレイが言った。しかし、あちこちに音が反響しているせいでそれは突き止められそうにない。ため息をついた光貴は、自分の動揺を落ち着かせるべく瞑目した。
その瞬間――覚えのある気配が、自分の中に流れ込んでくるのを感じる。
彼は愕然とした。
「フレイ」
「ん? どうしたのさ、光貴」
「魔力を、感じる」
少年の言葉に、公子の表情が凍りついた。だが彼はとっさに深く息を吸い、目を閉じる。
やがて――瞠目して、真っ蒼になった。
「『豊穣姫』の、ミーナの魔力だ!」
「なっ――」
その言葉が意味するところはなんなのか。
考える暇もない。二人は同時に床を蹴り、ミーナの部屋の方角へ向けて走り出していた。反対側から駆けてくる人間を突き飛ばすことも厭わず、廊下を抜け、角を曲がる。
そのとき、二人を呼びとめる声があった。
「お兄ちゃん! フレイくん!」
「――晴香!」
振り返った二人は同時に叫んだ。少女が黒髪を振り乱しながら走ってきて、彼らの前で立ち止まる。着の身着のまま飛び出してきてしまったらしく、上着さえ羽織っていなかった。
「な、なんか、すごい音が聞こえてきたから、何が起こってるのかと思って」
彼女は半泣きになってそう告げてきた。その姿に背を向けたまま、光貴は言う。
「今……ミーナの魔力を感じたんだ」
「え? それって」
「詳しいことは分からない。だから、部屋に直接行こうと思ってる」
そう告げたとき、隣から腕をぱしんと叩かれた。少し顔をしかめた彼は首を振ると、また駆けだす。いつの間にかフレイが少し前を走っていた。
「わ、私も行く!」
そんな声とともに、妹が後からついてくる。光貴たちは何も言わなかった。
歩き慣れた道を突きぬけ、見覚えのある扉を視界に入れる。そのとき彼らは、唖然とした。
扉の前の床が変形し、突起のようなものが突き出しているのだ。そのすぐそばでは、ミーナの護衛のために配属された兵士が、うずくまってうめいていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
三人は慌てて兵士のもとに駆け寄った。彼が押さえている右腕は、服が裂けてそこから血があふれ出している。救援者の顔を認めた兵士は、「すみません」とうめくように言った。
フレイは扉と兵士を見比べる。
「何があった?」
「よ、よく分かりません。いきなり地面が蠢いたかと思えば、このとげみたいなものが突き出してきて……」
彼の言葉が終わる前に、地面が微動した。悲鳴を上げる兵士を支えたまま、三人は飛び退く。直後、大理石の床を食い破って突起が突き出した。
「これって」
光貴がうめいたのは突起に驚いたからではない。それと同時に扉の方からあふれ出した膨大な力の流れ――それを感じ取ったからだ。
「ミーナか。なんとなくそんな気はしたけど」
苦々しい声で応じたのはフレイだった。
どうにか立ち上がった兵士の腕を放すと、三人は誰からともなくうなずく。そしてフレイが扉に近寄り――少しためらってから、思い切って押しあけた。観音開きの扉が跳ね飛ばされるように開く。
そして三人を出迎えたのは温和な笑顔ではなく、猛烈な魔力の嵐だった。
部屋に一歩踏み込んだ途端、暴風が全身に叩きつけられる。光貴はどうにかその場に踏みとどまり、転びかけた晴香の体を支えた。
無意識のうちにうめき声が漏れる。こんな魔力と接する機会など、今まで当然ありはしなかった。もし彼が今、数か月前と同じただの人であったなら、この中に立っていることなどできなかっただろう。
「これは……どうして、こんな……」
顔を手でかばっているフレイが、わななく唇の隙間から声をこぼす。それに答えられる者は誰もいない。三人とも、無言で、慎重に嵐の中を進んでいくしかなかった。
部屋の中もめちゃくちゃである。水差しが砕けて破片が床に散らばり、棚は吹き飛び割れていた。木端が周りに散らばっているのは、やはりそのせいだろう。
亀より遅い歩みで寝台の方へと向かっていった。時折、誰からともなく部屋の主の名を呼びながら。するとやがて、風の音に混じって嗚咽が聞こえてきた。
「ミーナ!」
フレイが鋭く叫ぶ。だが、その瞬間に嵐の勢いは強くなった。三人とも危うく飛ばされかけて、たたらを踏む。光貴はその勢いを顔面から受けながら、そこに感情の欠片を見つけて眉をひそめた。
「俺たちを、というか来訪者を拒んでるのかもしれない」
「な、なんで」
「いや、そんなの俺が知るか。というかこれ、なんとかできないもんなの?」
「――簡単に言うなよ」
フレイは苦虫をかみつぶしたような顔になる。しかしすぐに表情を引き締めると、正面を見据えた。
「手がないことはないよ。少し強引だけどね。ただ、大量の魔力がいるから君も手伝って」
「ええ? 手伝えったって」
「反論は受け付けない」
切り捨てるように言われてしまい、光貴としては敗北を認めざるを得なくなった。首を振って、少年公子を見やる。
「で、何をやればいいんだ」
「何、というほどのことでもないよ。ただ真正面に魔力をぶつけてミーナの魔力を引き裂き、道を作る。それだけだ。……できるよね?」
――それくらいできて当然だ、と。問いかける彼の目は、そう語っているようであった。光貴はそこに一抹の腹立たしさを覚えたものの、状況が状況だけにその感情を飲みこむ。そしてただ、うなずいた。
「できる」
フレイは返事をしなかった。光貴は肩をすくめて前を見る。――小さな少年が口元を少し緩めたことに、彼は気付いていなかった。
目を閉じる。世界が暗闇に閉ざされ、魔力の熱がはっきりと感じられるようになった。光貴はそれを丁寧に、しかし素早く練り上げてすぐにでも正面へ放出できるよう整える。
『叡智王』たる少年が言ったことを実行するのは難しいことではない。ただこの大嵐に向かって大量の魔力を放ってやればいいだけの話なのだ。
「行くよ」
声が聞こえる。近いようにも遠いようにも感じた。
「さん、にー、いち……」
およそ子供とは思えない落ち着き払った声が数を数えていく。やがて、顔面が熱くなった。すぐ前に、守護天使二人分の魔力が凝っている。
「それっ!」
鋭い一声とともに魔力を解き放ち、同時に光貴は目を開けた。
白光と炎が、それぞれ太い筋となって伸びている。それはやがて絡み合い、ひとつの大きな弾となって暴風のただ中に突っ込んだ。すると魔力は甲高い音とともに引き裂かれ、そこだけが割れたかのように道ができる。
「走れ!」
肩で息をしながらも、光貴は反射的に叫んでいた。二人が放った力が消えて、道が閉ざされてしまう前に。そう思いながら三人は無言で駆けた。
そうして、魔力が割れた場所を再び嵐が閉ざす頃には、三人は寝台の前に辿り着いていた。
「ミーナ」
フレイが寝台に視線を落とす。応えはない。
少女は彼らを見ていなかった。頭を抱えてうずくまり、しゃくりあげながら何事かを叫んでいる。白い指が金色の頭に食い込んでいた。
何を言っているかはまるで分からない。光貴たちは当惑して視線を交差させた。だがやがて、声が明瞭な言葉を紡いでいく。
「……いや…………もういや……!」
「――! ミーナ」
晴香が身を乗り出した。だがやはり、ミーナは大粒の涙を流して泣くばかりである。
「いや……来ないで、誰も来ないで!」
甲高い声が暴風のうなりを切り裂いた。泣きじゃくる、などという生易しいものではない。もはや狂乱の体とでも言った方がいいような有様だった。
引き下がった晴香が、どうにもならないというように首を振る。光貴は目を細めて、頭を抱え込む少女を睨んだ。
「まいったな。もしかして外に突起が出まくってるのもこの錯乱のせいか」
「かもしれない。しかもこれ、ただの錯乱じゃないよ」
「どういうことだ?」
光貴が振り返った先の少年の顔は、少しこわばっていた。平静を装ってはいるが衝撃が大きすぎて立ち直れないでいるのは一目瞭然である。その彼は、悔しそうに唇をかみしめた。
「ここへ来て分かったよ。ミーナには魔法がかけられている。精神魔法がね」
「なっ!?」
兄妹で声を上げ、フレイを凝視する。だが彼は訂正する素振りを見せなかった。それどころか、どこか冷たい目でミーナを見やる。
「人の中にある、悪い感情を引き出す類の魔法だ。術者をとっ捕まえて解かせない限り、解くのは不可能だろうね」
「その術者って」
言いかけた光貴は、はっと目を見開いた。彼女にそんな魔法をかける、質の悪い魔導師など一人しか思いつかない。
光貴の表情に気付いたらしいフレイが、顔をゆがめて床を睨む。
「ああそうだよ。おそらくあの、『呪術師』とか名乗ってたふざけた魔導師だ。こうなったら絶対捕まえて真実を吐かせてやる!」
激しい怒気をはらんだ言葉を吐きだしたフレイは、その勢いのまま踵を返した。誰が止める間もなく、彼は暴風の中を突っ切って消えていってしまう。光貴はその背中を呆然と見送ったあと、思わず舌打ちした。
「……ああもう! 日ごろから散々人のこと蹴落としといて、こういうときだけガキに戻るなんて! 質の悪い公子様だな!」
「お、お兄ちゃん。どうするの」
完全に置いてきぼりをくらっていた晴香が、おずおずと彼の袖をつかんできた。光貴は少し考えた後、ミーナを振り返る。
「ここにいても仕方がないから、俺はフレイを追いかける。ミーナのことは…………おまえに頼んでもいいか?」
「えっ!? 私?」
「今、この娘のことを任せられるのはおまえしかいないんだ。頼む」
晴香はあんぐりと口を開けて固まっていた。何か言いたげな顔をしている。が、これ以上議論している時間もない。光貴は晴香の肩を強く叩くと、背後の暴風に魔力を一発叩きこんでから、部屋の外に向けて駆けだした。
「光貴?」
部屋を飛び出して間もなく、前から呼び声が聞こえる。光貴ははっとして、咄嗟に足を止めた。前方から駆け付けたのは、ラッセルとノエルである。
「あんたら……そういえば部屋にいなかったな」
「情報整理に忙しかったんだよ。それより、何が起こってる!?」
息を切らせたラッセルが、赤い顔で訊いてきた。光貴はすぐに説明できず、渋面になる。どこから話せばよいものか――短い逡巡のあと、重い口を開いた。
「ミーナがものすごい錯乱しているみたいで、魔力が暴走してるんだ。精神魔法をかけられたせいだって言って、フレイが犯人の追跡のために飛び出していっちゃって……。一人じゃ何しでかすか分からない様子だったから、俺は追いかけるところ」
拙い説明に返ってきたのは沈黙だった。光貴の言葉が分からないというよりは、状況が壮絶すぎて理解が追いつかないらしい。だがやがて、ノエルが大きく息を吐く。
「フレイが言っていた『犯人』というのは、もしかして」
「ああ。『呪術師』のことだよ。少なくとも俺たちは、そう踏んでる」
声音に一抹の苦みが混じるのはいたしかたない。光貴がため息をつくと、ラッセルは「なるほど」と呟いて両の拳を突き合わせた。
「だいたいの事情は分かった。助太刀しようか?」
「……いや」
光貴はためらいつつも首を振る。目をみはる宮廷魔導師に向かって苦笑を浮かべた。
「ミーナの部屋に行って、晴香の助けになってやってくれないか。あいつに、ミーナのこと任せてきたんだ。中は魔力の嵐だけど――ま、ラッセルがいれば問題ないだろ」
二人の城勤めは顔を見合わせたが、やがてどちらからともなくうなずく。
「分かりました。それでは、フレイのことは光貴さんに任せますね」
「ああ。晴香のことは頼んだ」
応答する少年の声は力強い。光貴はひとり胸をなでおろしながらも、素早く二人の横を通り抜けた。言いようのない不安を抱えながら、彼は夜の廊下を駆ける。
広がっていくざわめきは、混乱に陥る王宮を現しているようであった。




