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King of Light  作者: 蒼井七海
第三章 遠い日の欠片
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第三話 刹那の追憶――3

 奇妙な浮遊感を味わった。

 それがなんであるか自覚する前に、感覚は唐突に消える。そして息をつく間もなく、頭の中で光が閃いた。


「――き、光貴!」

 横から名前を呼ばれて光貴ははっとする。彼の周りに音が戻ってきた。何かが焼ける音と、せわしない足音。

 光貴は首をひねると、そのまま横を向いた。母が目を丸くしてのぞきこんできている。

「どうしたの、ぼーっとしちゃってさ」

「……いや。別になんでもない」

「ならいいけど。目玉焼き、できたから運んで」

 笑顔で要求を突きつけてくる母に対し「うい」とやる気のない返事をした少年は、目玉焼きが載った皿を持って台所を出た。

 食卓へと歩いていくと、雑巾を手にしている妹と目が合う。彼はにやりと笑い、茶化すように呼びかけた。

「晴香ー。台拭き終わったかー」

「あと一列! ちょっと待って!」

 晴香はそう言うと、素早く拭き残した一列を雑巾でなでていく。あっという間に埃が払われていく様を見ながら光貴は苦笑した。

「手際が良くなったな」

「ずっとこればかりやってるからね! あーあ、私もお料理したいなー」

「おまえがやると食材がもったいないからやめてくれ」

「ひどい!」

 笑って言ったせいかふざけたと思われたらしく、晴香は頬を風船のように膨らませる。

 だが光貴としては、いたって真面目に返しているつもりであった。そう言わしめるほど、彼女の料理はひどいのだ。食事からおやつまで、彼女が作った物がまともな味だった試しがない。

 光貴は皿を配置しおえると、次の一皿を取りに台所へ駆け戻っていった。


 父が何年か前に亡くなってから、一人欠けた家族の食卓が北原家では当然のものとなっている。父のことはなんとなく覚えているが、恋しさを抱かせるほどの思い出は、光貴にはない。――きっと、仕事が忙しかったのだろう。

 そう割り切ってはいるが、そのことが彼にとっては、一抹の寂しさを抱かせるものであった。

 すべての皿が揃うと、三人の食事は始まる。いきなり、目玉焼きを頬張りながら晴香が身を乗り出した。

「ねえお兄ちゃん! 今日、私の勉強見てくれるんだったよね」

「あっ…………」

 妹の言葉に、少年はぴしりと固まる。

 少し前に交わした約束と、昨日教師から突きつけられた課題が、交互に頭をよぎった。

「悪い晴香。昨日論文の課題が出てさ。しばらく、一緒に勉強はできないんだわ」

「ええー!?」

 案の定、晴香は拗ねそうになる。そこに割って入ったのは母だった。

「まあまあ。光貴も光貴でやることがあるのよ。分かってあげな。勉強なら母さんが教えてあげるから」

「母さん、勉強できるの?」

「歴史と地理なら得意だよ」

 母は疑いの目を向ける妹に対し、大真面目な顔で答えている。事の真偽は光貴にも分からないが、ここは任せた方がいいだろう。

 光貴はパンを手に取りながらも、母の方を見た。

「ごめん母さん。よろしく」

「まっかせときな!」

 にこにこ笑う母の向かいで、晴香が目を細めている。光貴は前を向き直したところでそれを見てしまい、引きつった笑みでごまかす羽目になった。

「落ち着け晴香。また今度な、今度」

「今度こそちゃんと見てくれるの?」

 怒気がかすかに混じる問い。光貴は少し考えた。それから、へらりと笑う。

「多分」

「多分かい!」

 晴香からツッコミが飛ぶが、それはいつものことだ。光貴は声を立てて笑ってから、パンの切れ端を口に放り込む。

「と、いうわけで。今日は図書館に行くわ。昼はどっかで食べる」

「了解。日が沈むまでには帰ってきなよ」

 母の明るい声がけに、少年はうなずいた。


 朝食を終えるとすぐに、光貴は図書館へと足を運んだ。

 ここクリスタにあるのは、国内最大の図書館――王立中央図書館のみである。一般人が閲覧可能の書物のほとんどがここにあるのだから、調べ物にはうってつけの場所だった。

 いつも通りの静かな館内に入った光貴は、研究書類の書架へ行き、題目に沿ったものを片っ端から引っ張り出す。それを近くの机に運ぶと、必要なことをすべてメモしていった。

 作業は昼過ぎまでかかった。だが、それまでのところで必要な情報はすべて手に入れる。あとはこれをまとめるだけだ。

 少年は一息をつき、席を立つ。昼食をとるために外をぶらつこうと考えた。

 警戒は、ほとんどしていなかった。間延びした平穏の中を歩いていくことを当然と思っていた。

 そこに漬け込むようにして、魔手は伸びてきたのである。

「この辺りって、いい店があったっけな」

 ぼやきながら、光貴は辺りを見回した。良い食事処は、記憶と店の看板を頼りに探しだすしかない。こんなとき、すぐに調べられればいいのにと思う。散策は嫌いではないので、それはそれでいいのだが。

 ふらふらと歩く少年の横を、小さな子供が通り過ぎていく。

 ひとしきり辺りを見回した光貴は、ふとひとつの看板に目を留めた。細い路地の中にある、喫茶店と思しき店である。

 行くだけ行ってみようと即決した彼は、つま先をそちらに向けた。身体を半回転して路地に入っていく。

 すると、途端に人気がなくなった。

 光貴はいきなり訪れた不穏な空気に眉をひそめるが、それ以上は気にするわけでもなく、店の戸口をくぐった。

 その喫茶店は、営業はしているものの人っ子一人いない。店自体小ぢんまりとしていて、どこか冷やかな空気が流れている。

 適当な席を選んだ光貴は、パンに肉と野菜を挟んだ軽食を頼んで、あっという間に平らげた。それからふと、時計を見る。

「ずいぶんと早く終わっちまったな」

 母に迷惑をかけないためにも昼食は宣言通り外で摂ったのだが、これ以上やることがない。しばらく腕組みをして悩んだ彼はしかし、やがてぽん、と手を打った。

「仕方がない。帰るか。そんで晴香の課題を見るか」

 家に戻って勉強でも教えてやれば、少しはあの妹も機嫌を直すだろう。

 そう考えた光貴はさっさと席を立ち、手早くお金を払って店を出た。

 昼下がりの街は静寂をよしとしない。それでもこの路地は喧騒からは遠いところにあった。行きに通った道を確かめながらゆっくりと歩いていく。だが途中、ふと足を止めた。

「……ん?」

 振り返った。だが、細い道の先には誰もおらず、何もない。光貴は頭をがりがりとかきむしりながらも、正面に向き直った。

「見られていた気がしたんだけど……気のせいかね」

 呟いた光貴は、しかし先程よりも足早に歩き出す。狭くて薄暗い場所は早く抜け出してしまうに限る、と考えながら。

――しかし刹那、背中を冷たく鋭い何かが貫いた。

 見られている。気のせいではない。一瞬のうちに悟った彼は、振り返ろうとした。

 だが、後ろから伸びてきた手がそれを阻止する。手はがっちりと、光貴の口をふさいだ。

「……っ!」

「やれやれ、勘の良い小僧だ。この老体に手間をかけさせてくれおって」

 耳元で囁きが聞こえる。しわがれた声。だが、無形の圧力を伴っていた。

「おい小僧。普通だったらすぐに殺しているところだったぞ。――生きていられることに感謝するんだな」

 声は愉悦の気配を帯びる。だが光貴には、ただ楽しんでいるように思えなかった。身体がこわばって凍りつき、ぴくりとも動かない。

「今この場で死にたくなければ、私についてこい。分かったな?」

 何も答えられない。当たり前だ、口をふさがれているのだから。

 だが、その者は答えなど欲していないようだった。ただ鼻で笑うと、少年の体を引きずって歩き出す。

 その瞬間だけ、硬直が解ける。光貴は咄嗟に鞄を放り投げた。重いせいでほとんど飛ばなかったが、浮き上がったそれを勢いよく蹴り上げると、路地をまっすぐに抜けていく。

 それを見た先程の声の主は、彼の口元から手を放し、膝を腹に叩きこんできた。

「かっ――ごほっ!」

「ただの子供かと思っていたが……なかなか肝が据わっているじゃないか。これ以上抵抗されても面倒だな」

 そんな呟きが聞こえたかと思えば、膝を突いて咳きこんだ光貴の頭に、いきなり靄がかかった。まどろみに似た感覚は、あっという間に少年を飲みこんでいく。

「眠っておれ。そのまま一生、な」

 男の声が遠くで聞こえた。刹那、眠気と激痛が同時に身体を駆け巡る。

 それが何かを知らぬまま――彼は、長い眠りについた。


 叫び声と同時に目を覚ます。

 紺色の天井が、視界いっぱいに飛び込んできた。

 彼は何も考えられないまま息を吸う。空気はからからに乾いた喉をなで、痛みを誘って肺へと流れた。

 同時に、すぐそばから声が聞こえる。

「うう、なんだよ。寝言にしたってやりすぎじゃないか。もう少し自重してほしいもんだ……」

 はっとして上半身を起こすと、隣の寝台で赤髪の少年が目をこすっていた。寝ぼけ眼が、きつく彼を睨んでくる。

「ああなんだ、起きてたの? まったく、どんな夢を見たのさ。すごい声だったよ」

「ゆ、め――?」

 無意識のうちに反芻した光貴は深呼吸をした。だが直後、頭の中に先程まで見ていた映像のすべてが、どっと流れ込んでくる。

 彼は震える体を反射的に抱え込み、うずくまった。生々しい恐怖がつま先から脳天までを駆け巡る。

 隣のフレイが動いた。相手の様子がおかしいことに気付いたのだろうか、赤い眉をひそめる。

「……どうかしたの? 具合でも悪いのかい」

「ち、がう……夢じゃない……これは夢じゃない……!」

「はい?」

 光貴の顔をのぞきこんんできたフレイは目を丸くする。だが当人はというと、相手のそんな表情になど構わず、右手で顔を覆った。

「記憶……全部、全部思い出したんだ」

 途端、フレイの表情が冷え切る。夜の光に照らされた貌が、さらに色を失った。

「記憶ってまさか――」

 光貴が二年前に行方をくらまし、封印魔法で神殿の地下に眠らされていたことはフレイも知っている。ほかならぬ当事者である兄妹二人が、その口から語ったからだ。

 光貴はうなずくことも首を振ることもしなかった。ただ、今はこの言いようのないおぞましい感覚を抑えるのに必死だったからだ。

 そうして数分が経過する。光貴はようやく顔を上げ、再び深呼吸した。フレイが、そっと彼の方をのぞき見てくる。

「……落ち着いたかい?」

「ああ、うん。取り乱して悪かった」

「いや。――」

 フレイは何かを言おうとしたようだが、結局ばつが悪そうな顔をして黙り込んだ。反対に、今度は光貴が改めて口を開こうとする。

 だがそのとき、低い地響きが聞こえた。そして二人が疑問を呈する暇もないまま、凄まじい轟音が王宮全体を揺るがしたのだ。


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