第三話 刹那の追憶――2
ミーナから呪術師の話を聞いた翌日。晴香は他の二人に先んじて彼女の部屋にやってきていた。寝台の上で微笑と共に迎えてくれた彼女は、しかし首をかしげる。
「こんなに早くからどうしたの、晴香? わたしは嬉しいけれど……」
「うん――」
晴香は言葉を出しかけて、しかしすぐに閉口する。なんと言うべきか迷ったためだ。しばらく口ごもったあと、彼女は椅子を引いて寝台の隣に寄り添った。
「ちょっと、ミーナに聞きたいことがあって。いいかな?」
「いいよ。なあに?」
少女の瞳が見つめてくる。無垢な光を湛えた金色は、異邦の少女に後ろめたさを抱かせた。だが、彼女は止まらない。勢いに任せて言葉を吐きだした。
「ノエル君のこと、どう思う?」
途端、静寂が部屋を覆う。ミーナは微動だにしなかった。やがて長い睫毛が微かに震える。晴香は、いたたまれなさのあまりに目を逸らしそうになったが、その瞬間声が響いた。
「ノエルは、優しくてとてもいい人だと思うわ。それに……彼といると、なんだかとっても落ち着くの」
「そっ、か」
答は、針のように胸を刺す。
晴香はうつむいた。黒い瞳が、赤茶の絨毯を映す。
――彼女の答えが聞きたかった。しかし、耳をふさぎたくなる自分もいた。短絡的かもしれない。けれど、心がざわめいていたのは確かなのだ。
「晴香は、ノエルが好きなの?」
声は、唐突に聞こえた。
鈴を鳴らすかのごとく澄み渡った音。晴香は弾かれたように顔を上げる。目をいっぱいに見開いて、幼子のように首を傾けるミーナを見た。
すぐには理解できない。だがややあって、言葉の意味が飲みこめてくる。すると急速に、顔面が熱を帯びるのが分かった。
「そ、そんなんじゃない! 違う違う!」
「違うの?」
「だっ……断じて! ただちょっと気になっただけ!」
勢いのあまり頭から否定してしまった晴香は、直後に落ち込んだ。しかし否定も肯定もできない現状なのは確かなのだ。だからこそ、喉元まで出かかった言葉は飲みこむ。
寝台の少女は、納得がいかなさそうな顔でうなずいていた。
晴香は再びうつむく。
「ノエル君とは長い間一緒に旅をしていたけれど……人間関係とか、あんまり知らなくて。だからミーナと仲がいいって聞いたとき、驚いてしまったの。それで、ええと、気になって……」
言い訳じみた言葉は尻すぼみに消えていった。どうしても二の句が継げない彼女は、そっとミーナを見上げる。
『豊穣姫』は慈母のように穏やかな目をしていた。
「――その気持ちは、分かるかもしれない。わたしも似たようなところがあるから。色々な人から話を聞くけれど、わたし自身は何一つ思い出せないの。だから、置いていかれたように思って、淋しくなってしまう」
そのとき、瞳に孤独の光がよぎる。晴香は、無意識のうちに息をのんでいた。背筋がまっすぐに伸ばされる。
やがて少女は、寂しげな微笑を浮かべた。
「だからわたし、嬉しかったんだ。光貴や晴香と出会えて。だってあなたたちは、今のわたしをそのまま受け入れてくれるから」
透き通る声に、純真な言葉。
迷いを抱えたままの晴香は、返事を見つけることができなかった。
鈍痛は唐突に、彼の頭を襲った。反射的に、手で強くこめかみを押さえる。
押し殺した苦悶の声は、低いうなり声に変わった。
彼が廊下で一人、頭痛に悶えていると、その肩が後ろから叩かれる。
「よう光貴。どうかしたのか?」
「……ラッセル」
光貴は手を頭から離すと、沈んだ声で肩を叩いた人物の名を呼んだ。男は少年の据わった目を見ても動じず、鷹揚に手を挙げる。
「なんだなんだ、元気ないな。具合でも悪いのか」
「――頭痛だ」
「え、本当に不調かよ。それ平気か?」
「平気。少しだけだからな」
光貴が素っ気なく答えても、ラッセルはしげしげとその顔を眺めてきた。病人のように見える少年を気遣っているつもりらしい。
しかしあまりにも鬱陶しかったので彼が顔をしかめると、ようやく視線はそこから離れた。
「気が急くのは分かるけど、あんまり根詰めるなよ。晴香とフレイに怒られるぞ」
「なんで二人の名前が出てくるんだよ……。というかそっちこそ、あんまり寝てないだろ」
するとラッセルは、目を瞬いた。なんとなくやつれている気がしたのでそう指摘してみただけなのだが、どうやら図星を突いてしまったようだ。
「調査に何か進展があったのか?」
「少しなー。ただ、まだ確かな証拠がつかめないんだけど」
光貴が身を乗り出すと、魔導師の男は苦笑する。
軍事費の記録から、私有軍のものだけが抹消されるという奇妙な現象が起きたということについては、昨日のうちに彼の口から聞いていた。そこからの進展といえば、その理由もしくは犯人の目星がついたということだ。
「でも、その様子だと俺たちに報告する気はなさそうだな」
「ああ。だって、言っちゃうと偏見が生まれるだろ? それってよくないかと思って」
「ま、確かに」
光貴は男の言いように肩を竦める。
だが、そのとき緩んだ表情は一瞬で引き締まった。
ラッセルの斜め後ろから、黒いローブを纏った男が歩いてくるのを見る。ラッセルもまた、光貴の表情を見て何かを察したらしく、素早く振りかえった。
一方、男の方も彼らの視線に気づいたらしく、ある程度まで近づくと口の端をつり上げる。
「これはこれは。ピエトロ王国からの使者殿ですな。ご機嫌はいかがですか?」
問う声は楽しげだ。しかし、それを聞くと背筋が冷たくなるのはなぜなのだろう。光貴は辛うじて、身震いを堪える。
「思わぬ騒動のせいで予定が狂っていましてね。あんまりよい気分ではありませんよ」
おどけて返したのはラッセルだった。だがその声に、厭味な響きが混じって聞こえる。彼はそれから「ところであなたは?」と相手に問い返した。
「私は……現在、この城の重役に雇われている呪術師ですよ。どうぞ、よしなに」
男はそれだけ言うと、昨日と同じように二人の脇をすり抜けていく。黒い背中は、あっという間に見えなくなった。
再び二人だけになってから、ラッセルが毒づく。
「なんだあれ。あいつが、昨日の報告にあった呪術師か?」
「うん……。なんか、変だよなあ」
「怪しすぎるだろ」
青年はさらりと言うと、眉間にしわを寄せた。そして木の人形のようなぎこちない動きで横を向くと、光貴に対して忠告を投げかけたのである。
「あんまり関わりすぎるなよ」
部屋はほとんどが闇に閉ざされていた。
窓が無いこの場所には、外からの光の一条さえも差し込まない。中央では、唯一の明りである蝋燭の火が落ち着きなく揺れていた。
扉を叩く音がする。部屋の主は顔を上げた。それでも何も言わないのは、その必要がないからだ。彼が声を上げる間もなく、扉は開く。
日ごろほとんど来客のないここに、しかし週に一度は必ず人が訪ねてくる。しかもその人物というのは決まっていた。
扉の先から姿を現した若い男。厳しい表情の彼を見て、部屋の主は低く笑う。
「これは、王太子殿下。本日はどのようなご用件で?」
「ご用件も何も、いつもの報告だ」
嘲るような声を受けた男はしかし、一切の動揺を示さない。ただそれを鼻で笑い、戸口によりかかった。
廊下から差し込む淡い白光が、部屋をぼんやりと浮き上がらせる。
そのただ中で蠢いた者は、居住まいを正す。
「聞きましょう」
彼――「呪術師」を名乗り王宮に居座る男は、しかつめらしくそう言った。
王太子は彼を一瞥する。
「おまえの働きぶりは大したものだな。王宮の者のほとんどは、おまえのことを怪しみながらも腕は認めているようだ。これでみすみす追放はできまい、と思っていた」
「もったいなきお言葉」
「だが――余計なネズミが、疑念を持っているようだな」
束の間、呪術師――魔導師は沈黙を纏った。だがやがて、薄い笑みを貼り付ける。
「いけませんな。同盟国からの正式な使者をネズミ呼ばわりとは」
「今の俺たちにとっては邪魔なネズミ以外の何物でもない」
「さようで」
魔導師の飄々たる態度に若き王子は苛立ちを募らせているようだった。目を細めて舌打ちすると、彼の方をねめつけてくる。だが彼は、楽しげに顔をゆがませるだけだ。
「私としては非常に興味深いのですがね。特に……使者の中に紛れ込んでいたあの少年は、何者なのでしょう」
しわに囲まれた目が妖しく光る。だが、経験が浅く感情に振り回されがちな青年がそれに気付くことはない。ただ訝しげに、顎に指を引っ掛けていた。
「少年? ……ああ。父上いわく、次代の『神聖王』らしいな。まったく、王を差し置いて魔法使いなどが上に立つとは、忌々しい話だ」
青年が吐き捨てる愚痴を魔導師はほとんど聞いていなかった。自分に投げかけられた答から確信を得た彼は、高笑いしたい衝動を堪えて、雇い主の前に膝をつく。
「殿下。彼らはどうも、我々の動向を嗅ぎ回っているようです。そして、かなり核心に近づいているものと思われます」
「……ああ、噂でなら聞いた」
「いかがなさいますか?」
碧眼が鋭く光る。それでも魔導師は、あくまで恭しく頭を垂れた。
相手は足を組み換え、息を吸う。
「こうなれば、もはや一刻の猶予もないだろうな。……早急にミーナを消してくれ。どんな手を使っても構わない。あのような出来そこない、突然いなくなったところで誰も困らぬだろう」
残酷な命令が淡々と放たれる。
魔導師は人間が嫌いだ。特に、このような側面を見てしまうとその感情は強くなる。自らの手を汚すのは厭う癖に、他者への命令はいくらでも冷酷非情にできてしまうのだ。調子がいいにもほどがあるというものである――と思っていた。
だが彼は、今は嫌悪を飲みこむ。無きものとして、命令を受諾した。
「――御意」
あふれ出そうになる歓喜を、押しとどめながら。
暗がりの中から魔導師が動きだそうとする頃には、太陽は西の空へと沈もうとしていた。
揺らめく黄金は姿を隠し、夜の帳が都を覆う。
アルド・ゼーナの長い夜が始まろうとしていた。




