第二話 学問の日々から――1
「店を辞める? 冗談で言ってるんじゃないだろうね」
いつものことながら、どこか鋭いチーフの声に縮みあがったことは言うまでもない。北原晴香は、うつむきながら、それでもがんばって返事を絞り出した。
「はい……」
「何故」
「うっ」
少しの間も置かず返ってきた理由を問う声に、晴香は今度こそ言葉を詰まらせた。どのように説明しようか迷いながら、それでもどうにか顔を上げ、支店長代理で話を聞いてくれているチーフの方をまっすぐに見た。
――これ以上、目をそらしてはいけない。
その努力の甲斐があったのか、いきなりチーフは腕組みをすると、言い当ててくれる。
「ははあ。昨日、王城に連れていかれたことと関係があるんだね?」
びくっ、と震えた晴香は、それでも負けなかった。
「その通りです。でも、悪いことをしたわけではありません!」
これだけは言っておかねばなるまい、とばかりに声を張り上げる。
あの謁見のあと、まず考えたのは今働いている『エール』の者たちにどう説明をするか、ということであった。もちろん、旅に出るからには店はやめるしかない。だが、処理に困ったのは事情の説明の部分だ。馬鹿正直に『神託の君』だの『預言者』に課せられた任務へ同行するだのと言う訳にはいかないし、そもそも言ったところで胡散臭い目で見られて終わりだろう。
それでも何も言わずに去るわけにはいかないので、結局マシな言い訳も思いつかないまま、翌日、晴香は店に赴いたわけである。
晴香の堂々たる宣言を聞いたチーフはしばし黙って仁王立ちをしていたが、やがてその表情をふっと和らげた。
「陛下のご意思なら、あたしらがどうこう言える問題じゃないね」
「え、じゃあ」
「ああ、いいよ。了承しよう。支店長にはあたしから言っておくよ――あんたを手放すのは惜しいけどね」
驚くほどあっさりと許可を出してくれたチーフに対し、晴香は素直に感謝した。知らず知らずのうちに瞳が潤む。だが、彼女は涙をこらえて立ち上がるとめいっぱい頭を下げた。
「今まで本当に……ありがとうございました!!」
不器用にもほどがある。だが、これが晴香にとって、精一杯の「お礼の言葉」であった。そんな飾り気のない言葉を聞いたチーフは、晴香が入ってから初めて見る笑顔を浮かべた。
「ああ。いってらっしゃい」
何よりもありがたく、温かい一言が、晴香の心を包み込んだ。
さて。チーフへの報告を済ませ正式に下働きを辞めた晴香は、昼の城下町をぶらついていた。王城へ勉強に行くのは明日からなので、今日はこれ以上やることがないのである。だからせめて、もうすぐ見おさめ……は大げさだが、しばらく見られない王都の様子を見ておくことにした。
平日だというのに相変わらず観光客が多いこの街は、やはりいつもと同じざわめきに満ちている。大通りには色鮮やかな屋根を持った露店が軒を連ね、その通りの中を新聞が入ったかごを手にした少年が声を上げてかけ回っている。
「ここにいる人たちは、本当に『天使』とか何とか、知らないのかなあ」
おそらく知らないであろう。知らない方がいいのだと思う。
とてつもなく強大な力を持つという『天使』の存在が万一にも公に明かされれば、人々はその力を利用しようとするだろう。そうなれば、『天使』自身が危うくなる。彼らと、国民の安全を思えば、アルバート王の判断も正しいといえるのかもしれない。
そして似たようなことが、『夜空の首飾り』にも言える。
「国宝が無くなったなんて知れれば、国民の動揺を誘う……か。当たり前だよねえ」
「『天使』と国宝が、なんだって?」
いきなり背後から聞こえてきた声に、晴香はぎょっとして振り返った。その先では、ライルがにこにこと笑って立っていた。
「やあ、こんにちは」
「び、びっくりさせないでよ!」
一昨日会ったばかりだというのに懐かしく感じる幼馴染の姿を見て、晴香は涙目で抗議した。しかしライルの方はと言えば、そんなものはどこ吹く風、という態度。
「昼間からこんな場所をうろついてるなんて珍しいね、晴香。お店はどうしたのさ?」
いきなりもっとも訊かれたくないことを訊かれた晴香は言葉につまったが、隠していても仕方がないので本当のことを明かすことにした。
「あー……それだけどね。辞めてきた」
案の定、ライルの瞳はこれでもかとばかりに見開かれる。
「は、はあ!? マジで言ってんの? おまえ、あそこの人たちにあんなに受けが良かったのに」
「いや、いろいろあってさ」
どう言うべきか迷った彼女は、便利な一言でやり過ごそうとしたのだが、さすがにこの少年に限ってはそうもいかなかった。情報命な少年の瞳が、煮え切らない返事をした幼馴染を捉えてちかりと光る。
「さては、さっき呟いてた『天使』と国宝に関係があるんだね?」
そう言われた瞬間に晴香は己の失敗を悟る。ばらしたくはなかったし、ノエルにも厳重注意を受けていたことから、最初は意地でも口を割らないつもりでいたが、どうやら逃がしてくれそうにない。
それに、『夜空の首飾り』の情報を先んじて提供してくれたことへの感謝もある。仕方がないので、晴香は彼にだけはすべてを打ち明けることを決めた。もちろん、他言無用の条件付きで。
とりあえず人気のないところに入った彼女は、昨日あったことをかいつまんで説明した。説明をしている間、ライルは一言も口を挟まなかったが、表情を見れば驚いていることがよく分かった。
そしてすべてを話し終えると、大きく息を吐きだして一言。
「うわあ、まるでおとぎ話の世界だ。俺らの知らないところで、そんなことが起こってたなんてね」
「まったくだよ」
晴香は苦笑した。正直、あの形容しがたい驚きを共有してくれる人がいてほっとしたのだ。ノエルやアルバートは、あまりにも平然としていたから。
だがそう思ったのもつかの間、ライルはすぐさま気持ちを切り替えたのか、晴香をからかいに入った。
「でも、良かったじゃん。おととい話してた緑の彼と、旅ができるんでしょ? 少なくとも最初の内は二人きりなんでしょ?」
「ふっ……!?」
体中の水分が、一瞬で沸騰した――そんな表現は決して大げさではないのかもしれない。だが実際にそんなことがあれば、人間はとても生きてはいられまい。それくらい真っ赤になった晴香である。
「な、何言ってるのよ! 別にノエルさんのこと、なんとも思ってないよ、私!?」
「さあてねえ。どうだか」
ムキになって反論したのがまずかったのか。調子に乗ったらしいライルはにやにやして、つかみかかってくる晴香をかわすと、さらにそんなことを言った。
「もう! ライル!」
「冗談だよ」
余計あつくなった彼女が声を上げると、彼はそう言って笑う。晴香はがくりと肩を落とした。願わくは、昨日聞きたかった言葉だ。
ただその直後、ライルは急に真面目な顔になる。
「せっかく王様から直々に命令を受けたんだろ。しっかりやってきなよ。ただし、死なない程度にね」
硬直してしまった晴香は、しばらくしてから居住まいを正すと、小さな声で感謝の言葉を述べた。実は、本当のことを話せる人がいてよかったと思っていた。機密すれすれの情報を聞かされるという体験も、案外悪いものではなかったかもしれない。
彼と関わり始めてから十年弱。晴香は初めて、心からそう思えた。
「あ、でも。あんまりもーもー言ってると牛になるから、気をつけなよ」
「……っ! ライル、君ねえ!!」
ただし、このことあるごとに自分をからかう癖は直してほしかった。
そのまた翌日から、晴香は城通いを始めた。その間は彼の肉料理屋によることもない、本当にひたすら勉強の日々。おもに、旅に必要となってくるという知識をひたすらに叩きこまれた。その内容は、旅の心得から魔法にまつわることまで多岐に及んだ。
働き始めた影響から幼年教育までしか受けていなかった晴香にとっては正直きついものだった。唯一の救いは、教官の役目を担ったのがノエル・セネットその人だったことだろうか。
確かにさまざまなことを一切の情け容赦なく叩きこまれたが、元々博識で教えるのも上手い彼の講義は非常に分かりやすく、このペースに慣れてくると勉強が楽しく感じられるようになってきた。
そんな調子で三週間が経ってからも、相変わらず勉強に明け暮れる晴香とノエルである。この日はおもに魔法に関係のある事柄の講義だった。とりあえず、歴史から入る。
「――こうして食料が安定的に供給され、ある程度の安全と便利さが保証されると、次第に、領土を広げ資源を得ようとする国同士の争いは激しくなっていきます。魔法という力が体系化され、その存在を人々がしっかりと認識しはじめたのはこの頃ですね。さて、ここで問題です。魔法を発見し、それを技術というレベルにまで高めた人々は、その力をいったい何に使うと思いますか?」
机の向かい側にいるセネット教官から出された問題に、晴香は首をひねった。
「ううん、この時点で食料はかなり供給されてるし……防御とか必要なさそうだし、移動……いや、違うな」
この調子でしばらく晴香が考えるものの、ノエルは一度も口出ししなかった。基本的に、晴香が「分かりません」と言うまではヒントも答えも与えない、厳しいような優しいような教官がノエルである。
やがて晴香は、自力で答えに辿り着いた。
「分かった、兵器だ!」
彼女の言葉を聞いて、ノエルも嬉しそうに目を細める。
「その通り、大正解です。別解答として『治療薬』というのもありますが、まあ治癒魔法より攻撃魔法の方が使用頻度は高かったですね。戦あふれる時代に生まれた技術は、なんでもかんでも戦に投入されてしまうようです」
「なんかそれ、悲しいなあ。せっかく日常生活にも活かせる技術なのに」
晴香は少しだけ背もたれに身をゆだね、頭の後ろで手を組んだ。
彼女の感想ももっともではある。しかし、どの国も自国の領土と資源を獲得しようと躍起になっていた時代に、突如現れた魔法という技術は“兵器”としてとても魅力的だった。どんな弓にも剣にも負けない力。そんなものがあれば、欲してしまうのも無理はない。
もっとも、大昔のそんな常識も魔法が浸透してきたこの時代においては大分変化を見せているのだが……晴香は、そんなに詳しいことまで知らなかった。
その後、魔法を巡って起こった三つの世界大戦などの話をしたところで、ノエルが唐突に切り出した。
「そういえば、僕らが探しに行こうとしている『夜空の首飾り』も、少しこの話と関係があるんですよね」
「え、そうなんですか?」
ノートを開いて羽ペンを動かしていた晴香は、思わずその手を止めて緑髪の少年を見た。彼は穏やかに笑いながら、世界史の本を開いている。
「首飾りと魔法の戦争って、ほとんど関係ないように思うんですけど……」
羽ペンをノートの横に置いた晴香が言うと、ノエルはその目を瞬いた。
「あれ、陛下が仰っていたじゃないですか。『夜空の首飾り』は魔法の道具だって。それにあれは、半分兵器みたいなものですよ」
「ええっ?」
晴香が素っ頓狂な声を上げると、ノエルは世界史の本をぱらぱらとめくって「載ってないな」と呟いて、本を閉じた。その後、歌うように話す。
「もちろん、本来はそんな目的で作られたんじゃないと思いますけどね。とても大きな力を持っているんです、あの首飾りに使われている石はね」
「へええ、どうやったら作れるんですか。そんなもの」
「分かりません」
え? と、またまた声を上げてしまう。ノエルの答えがあまりにもあっさりしすぎていたからだろうか、それとも博識な彼が「分からない」という答えを使ったからだろうか。おそらくその両方だと、晴香は我がことながら冷静に判断する。
「あれはものすごく古くから王家に伝わるもので、どうやって作られたかは未だ解明されていないらしいんですよ。まあ、解明されない方がいいとも思うんですが」
あんな代物が量産されたらたまったものじゃありません、とノエルは言った。その一言で晴香も考える。
歴史とか技術の話を聞く限り昔の人もかなり賢いから、もしかしたらそういう展開を恐れて技術を意図的に隠ぺいしたのかもしれない、と。
幼年学校の教育までしか受けていないのにこんな発想に行き着くあたり、北原晴香の頭脳は本人が思っているより常人離れしているのかもしれない。
「おや、少し話がそれてしまいましたね。この話は追々くわしくやるとして……次は各国の現在の情勢を学びましょうか」
「うわあ、難しそうだな」
再び羽ペンをにぎった晴香は、思わずうめいた。幼年学校でもさわり程度にはそのようなことをやったが、あのときは半分ついていけなくなって、兄の光貴にすがりついた記憶がある。
そういえば、彼も教えるのが上手かった。ノエルとはまた違う意味で、だが。
ふと兄のことを思い出した晴香は、沈黙してしまった。おかげで対面のノエルが訝しげな顔をする。
「どうかしましたか、晴香さん?」
呼びかけられて晴香はようやく顔を上げた。
「あっ……! ごめん、なんでもないです」
慌てて取り繕うも、ノエルの顔から憂いが消えることはない。もしかして今の自分は、そんなひどい表情をしているのだろうか。
彼女が思って慌てたちょうどそのとき、ドアが控えめに叩かれた。
「晴香様、ノエル様、お茶とお菓子をお持ちしましたよ」
聞こえてきたのは、慣れ親しんだ侍女の声。晴香とノエルは思わず顔を見合わせて、笑う。
「ちょっと休憩にしましょうか」
教官代わりの少年は、そう言ってから侍女の入室をうながした。