第三話 刹那の追憶――1
「生きていられることに感謝するんだな」
背後から投げかけられる声は低い。そして、何かとてつもない圧力をまとっているように、彼は感じた。
殺気、というものを知らない少年はただその圧力に恐怖する。
逃げなければならないと思った。だが、身体は思うように動かない。ただただ、小刻みに震えるばかりだ。
「今この場で死にたくなければ、私についてこい。分かったな?」
投げかけられた言葉に、応とも否とも返せない。少年は何もできないまま、魔手に引きずられていき――
彼は、そこで目を覚ました。
※
飛び起きて最初に見たものは豪華な装飾が施された照明だった。明りを灯さず揺れるそれを見てようやく夢から覚めたことを自覚した彼は、深い深いため息をつく。
「なんだったんだ、今の夢」
呟いてはみたものの、当然ながら答えはない。彼――光貴はぼさぼさになっている黒髪をかくと、二度目のため息をこぼした。
「…………起きよう」
縁起の悪いことは忘れるに限る。そんなことを考えながら寝台から抜け出した少年は、のろのろと身支度を整えるのだった。
アルド・ゼーナ王宮入りしてから数日が経ったものの、光貴たち三人がこなす内容はこれまでとまったく変わりがない。すなわち、未だ精神的に不安定な『豊穣姫』のそばで彼女の話し相手をすることである。
同部屋のフレイを連れだって廊下に出て、妹と合流した光貴は、三人で昨日とまったく同じ部屋へと向かった。ミーナはいつもと変わらぬ様子で迎えてくれる。
だがこの日、彼らは少女から奇妙な話を聞くこととなったのだ。
「『呪術師』だって?」
彼女のたどたどしい言葉を反芻したのは、フレイだった。赤い瞳の先にいる守護天使は、人形のようにうなずく。
「そう。彼はそう名乗っているの」
「呪術師ねえ。胡散臭いな。――そいつ、いつから王宮に出入りしてるんだ?」
淡々と事実を伝えたミーナに対し、光貴はそう問いかける。彼女は睫毛を伏せて考え込んだ後、指折り数えながら「何週間か前から……かな?」と呟いた。しかし、直後に首を振る。
「はっきりとしたことが分からないの。なんだか妙に、記憶がぼやけていて」
「記憶? それって」
晴香がぱっと口を開いたものの、すぐにばつの悪そうな顔をして黙り込む。だが、異国の公子は言いたいことを察したのか、はっきりとうなずいた。
「もしかしたら、記憶喪失に関係しているかもしれないね」
「ここに出入りしてるってことは、ケインズ隊長も了承してるってことだろうが……一応、ラッセルたちには報告しておくか」
今はとにかく手掛かりがほしいのだ。例え瑣末な情報でも、見逃すべきではない。面倒極まりないが、やるしかないのである。
「ねえ。その呪術師って、どんな格好の人?」
頬杖をつく光貴の横で、晴香が豪華な寝台の方へ身を乗り出していた。ミーナは彼女の問いに、今度は小さくうなずく。
「顔はよく分からないわ。黒いローブを着て、頭を覆っているから。でも、ちょっと不気味なの。いつも笑いながら、『守護天使様のお力になりましょう』って言ってる。声はお爺さんみたい」
「うわあ……なんか、絵本に出てくる悪い魔導師みたいな人だなあ」
げんなりしたような晴香は一歩後ずさりする。対して、『叡智王』は冷静に腕組みをしていた。
「そんな人間が、現実に存在するとは。興味深い話だな」
「感心するところなのか、そこは?」
しかつめらしくうなずく公子の言動に、光貴は呆れを露わにする。だがそれを表に出したところで、この少年は取り合わないだろう。それを分かってきた彼は、それ以上は何も言わなかった。
「そいつは君に何をしてくれる?」
「えっと、わたしの相談に乗ってくれたり、色々なことを教えてくれたり、面白いものを見せてくれたりするわ。魔導師みたい」
「魔導師ね……変な話だな」
フレイとミーナのやり取りを耳にして、光貴は違和感に眉を寄せた。
魔導師ならばそうと名乗れば良いのだ。なぜわざわざ、「呪術師」などと馴染みのない名を騙るのか。
不快感を伴った疑念が胸を侵食する。少年は目をきつく閉じてかぶりを振った。
――それは唐突だった。ぼやけた闇の中に、小さな小さな光が灯る。
思い出深い道。いつも通りの帰路につく少年。
茂みの向こうから窺う影。怪しい光を湛えた瞳。
不気味な笑みを刻みこみ
伸ばされた細い腕
魔手へと変わり
絡みついて引きずり込む
それは――
「おい、光貴!」
真横から声がかかる。光貴ははっと目を見開き、慌てて振り返った。
幼い少年の顔が近くにある。紅玉のごとく輝く瞳はまっすぐに射ぬいてきた。光貴は弾けた驚きを押し隠して口を開く。
「よ、呼んだか?」
「呼んだよ! さっきから何度も! 何ぼうっとしてるのさ」
「あー……」
微かな怒りをはらんだ声を向けられ、少年は言葉に詰まる。引きつった相手の顔から目を逸らした。直後、小さなため息が聞こえてくる。
「まったく。本当にこんなのが『神聖王』だなんてなあ。世も末だ」
あんまりな言いようである。が、失敗したのは自分の方なので光貴はなんとも言えなかった。ただ拗ねたような顔だけを呆れている公子に向ける。
「それで、一番言いたいことは」
「うん。呪術師には、ミーナがそれとなく探りを入れてみてくれるってさ」
「え?」
光貴は目をみはって、提案の主を見た。その傍らにいる妹が不安げに表情を曇らせている。だが「彼女」の方はというと、泰然として微笑んでいた。
「大丈夫なのか? それって、意図がばれたらまずいんじゃ」
「平気よ。あの人はわたしが守護天使だということを知っているわ。それが国にとって重要な存在だというのなら、簡単に手を出してはこられないはず」
声は凛として、空気を切り裂いていく。
淡々と語る姿に、少年は『豊穣姫』の本来の様を垣間見た気がした。
彼は視線を巡らせる。晴香はすがるようにこちらを見ていた。しかし、フレイは強い意思を叩きつけるように睨みつけてくる。
相反する感情。生じる逡巡の先、しかし彼は心を決めた。ミーナに向き直り、深くうなずく。
「分かった。そちらのことはミーナに任せるよ」
「うん」
「ただし、危ないと思ったらいつでも俺たちの中の誰かに言ってくれ」
ミーナはきょとんとした。光貴は真剣な表情を崩さない。黒と金が交差する。
一瞬の静寂のあと、彼女の貌に浮かんだのは微笑みだった。
「――ありがとう、みんな」
告げる声は陽だまりのように温かい。温和な目には安らぎが見て取れた。
かくしてミーナの部屋を辞した三人は、硬い表情で廊下を歩き始めた。何人かの女官や兵士とすれ違う中、しばらくして誰からともなく話し始める。
「どう、思う?」
むなしく響く声に返る答はない。だがやがて、幼い少年の言葉がそれに応じた。
「奇妙だとは思うね。どこからかミーナの情報を仕入れた誰かが名を騙って近づいているとしか考えられないよ」
「かなり刺々しいな、フレイ」
「だっておかしいと思わないかい? 僕や君たちは数日間、この王宮にいる。たくさんの王宮に仕える人間に出会う。でもその『呪術師』とやらには一度も出会ったことがないんだよ」
ステアーズ第三公子の言葉に、兄妹は沈黙する。不信感の募った視線が、空中でぶつかった。その様子を見ていた少年がまばゆい赤瞳を細める。
「それがミーナの前にばかり現れているなんて、どういうことなんだろう」
「念のためいろんな人に話を聞いてもいいかもしれないな」
「そうだね。明日から当たって……」
「――その必要はありませんぞ」
背後から響いた声は、しわがれたものだった。三人は弾かれたように振り返る。彼らからわずかばかり距離を取ったところに、黒いローブを纏った人間が立っていた。黒布に覆われ顔は見えない。ただ、背格好からすると老人のようだ。
「何者だ?」
フレイが感情を押し殺した声で問う。晴香もたじろぐそれに、しかし老人は笑うだけ。
「何者もなにもないでしょう。あなた方が噂していた呪術師ですよ」
「噂をすれば影が差す、とでもいうのか? ずいぶん都合のいい展開じゃないか」
「私は、望むものの前に現れるのです」
フレイの怒気に満ちた言葉にも呪術師は怯まない。彼は眉間にしわが寄るほどきつく顔をしかめる。その横にいた光貴は、見かねて前へ進み出た。
「……まるで、ミーナがそれを望んでいたかのような言い方ですね」
「事実、望んでいたのでしょう。記憶を失い、自分というものを見失った彼女は、寄り添うべき相手を欲しているのですから」
彼の言葉を聞き、三人の目に不信の色が浮かびあがる。だが、老人はそれをものともせず歩きだした。
「信頼するも、疑るも、好きになさるがよろしい。ですが、あなた方はあくまで部外者です。――くれぐれも、お忘れなきよう」
老人は囁きと共に彼らの横をすり抜けていく。光貴は思わずそれを目で追おうとして、だがそれは叶わなかった。過ぎ去る呪術師に目を向けた途端、鈍痛が頭を貫いたのである。
短くうめいて頭を押さえる。ぎりぎりと締め付けてくる痛みはしかし、やがて引いていく波のようにおさまった。
「……はあ」
「お兄ちゃん? 大丈夫?」
晴香がのぞきこんでくる。揺れる黒茶の瞳を見つめ、光貴は軽くうなずいた。それから、呪術師が去った先の廊下を振り返る。
そこに、黒いローブの姿はない。それどころかいつの間にか、人っ子一人いなくなっていた。
「薄気味悪い奴だな」
フレイが吐き捨てるように呟く。怒りは未だにおさまっていないらしい。
それを聞いていた光貴は、素早く顔を上げた。あることに気付いてしまったためである。
――呪術師が向かった方向には、ミーナの部屋がある。
考えすぎかもしれない。しかしそう思えば思う程、少年の中に憂いが募るのであった。
「政務官から、軍事費の記録を入手いたしました。完璧なものです」
淀んだ空気の漂う資料室にそんな声が届いたのは、夕方のことだった。不毛な資料検索にふけっていたラッセルとノエルは、揃って声の主を振り返る。
「本当ですか? やりますね、隊長殿」
「恐縮です」
「しかし、なぜ……」
消えたはずの「完璧な軍事費の記録」があるのか。ノエルがそう口にする前に、ケインズは腕組みをしてうなずいた。
「実は、私有軍の記録が抹消されたのは、ミーナ様がご記憶を失くされる少し前のことなのだそうです。この行為により困り果てた政務官は、独自に報告書を提出させ、それを自らの手で記録していったそうです」
「す、すごい人がいるな……」
ラッセルは唖然とする。かなり根性のある政務官だ。彼の知るだらけきった政務官に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいである。
二人は、ケインズから羊皮紙の束を受け取った。世間に出まわっている小説の半分くらいの厚さの束が、ここ数週間の軍事費記録らしい。ノエルが丁寧な手つきでそれをめくっていく。
しばらくは、紙のこすれる音だけが部屋に響いた。やがて、紙をめくる細い指の動きが止まる。
「これは……」
「おかしいな」
息をのむような少年の声に、魔導師も同調した。
「政務官によって計算された予算からの支出額と、報告されている支出額の合計が合ってない」
「しかも、かなり額に差があります」
――つまり、大金を動かしておきながら報告をしていない者がいるということだ。ラッセルは顔をしかめ、岩山のような男を見やる。
「隊長は、これを御覧になったので?」
「はい」
「報告を義務付けられている者のうち、ここに記載されていないのは誰ですか?」
剣を突きさすかのように鋭い問い。ケインズは、珍しく身を竦ませた。二人の方をまっすぐに見ながらも、言いにくそうに口を動かしている。
だがやがて、目が見開かれた。決意の気配が伝わる。低い声が、青年の耳に届いた。
「……ルドニア侯爵および――王太子殿下。ともに、ラディス王のご子息でいらっしゃいます」
告白は、淀んだ空気を切り裂く。
まどろみのような平穏は、一瞬にして終わりを告げた。




