第二話 揺らぎ――4
「おかしいな」
ラッセルは、そう呟きながら手元の資料をめくった。膨大な文字を鳶色の瞳が追う。だが、そこにもまた、彼が求めている情報はなかった。青年の口から重々しいため息がこぼれる。
「おかしいですね」
隣からそんな声がしたので、ラッセルは振り返った。同じように資料をあさっている『預言者』の少年が、国家予算の使用記録のうちの一冊を脇にどけているところである。彼はそのまま流れるような動作で次の一冊を手に取り、めくり始めた。
細い指が紙をなでる。そしてその瞬間、優しい目は書の方を向いていなかった。
「どういうことだか分かりますか、ラッセル」
「分からねえよ。むしろこっちが教えてもらいたいくらいだ。――なんで、ここまで調べても、今年の私有軍の記録が出てこないんだ?」
太い眉が寄る。彼は不機嫌な空気をにじませながら、資料をさらにめくった。ノエルもとりあえずは黙って文字を追い、数ページの間はそれを繰り返した。
しかし、やがて「だめですね」と呟きをこぼすと、また手を止める。
「軍事費の記録の中から私有軍のものがすっぱりと無くなっています。まるで抹消されたみたいに」
ノエルの言葉に打たれ、部屋の空気が凍りつく。ラッセルは顔に動揺の色をのぞかせ、それをごまかすようにページをめくった。
「…………まさかな」
呟かれた言葉が机の上に落ちて、音もなく跳ね返る。
その瞬間、部屋の扉が開いた。隙間からたくましい男の顔がのぞく。彼は二人分の視線を受けながら、そのまま部屋に入ってきた。
「いかがですか?」
「芳しくありませんね。どういうわけか、私有軍の記録がきれいさっぱり抜け落ちていまして」
ラッセルが眉をひそめて答えると、近衛隊長の表情も険しくなる。
「軍の所有者が、意図的に記録を消したということですかな」
老獪なところのある彼は、若い二人が無意識のうちに避けて通っていた可能性を、あっさりと口にする。二人が顔を見合わせたあと、ノエルがため息をついた。
「考えたくありませんが……そうとしか、考えられないでしょう」
「だとしたら犯人は――貴族か、王族か」
軍を持てるのは、国内の領地を任されている者たちだけだ。だからこそこぼれ出た推測にしかし、ラッセルは身震いしそうになる。
――この国は、末端から崩壊しかけているのだろうか。
「今の時点では確証はありませんがね」
「もう少し詳しく探ってみる必要がありそうですな。ミーナ様に害が及ぶ前に、真実をつきとめねば」
三人の中で、もっともこの国をよく知る人間の言葉。それはやはり、この国に入ってから聞いたもので一番重い言葉でもあった。
それから間もなく、この日の調査は打ち切りとなった。ケインズは王宮の関係者に詳しく話を聞いてみるらしい。あまり派手に動くと危険ではないか、とノエルが忠告したが、彼はそれに対しほとんど聞く耳を持たなかった。
「それだけミーナのことが大切なんだろうなあ」
ラッセルは歩きながらひとりごつ。先程からすれ違う女官や騎士が物珍しげな視線を向けてくるが、適当に受け流しているところであった。
細長い廊下をしばらく歩くと、地平線に見慣れた影を見つける。こちらに向かってくる気配を察し、彼は足を止めた。
「よう! 兄妹にフレイ! お話は終わりか」
少し声を張って呼びかけると、間もなく反応があった。ややあって、光貴、晴香、フレイの三人が駆けてくる。
「ラッセルも調査は終わりか」
「途中経過はどんな感じなの?」
「あー……それは追々」
いきなり詰め寄ってくる公子の言葉を、青年は苦笑とともに受けとめた。彼も人の往来が激しい場所で話してはまずいと思ったのか、あっさりと引き下がる。ラッセルはその隙をついた。
「おまえたちの方だどうだったんだ?」
「ミーナといろんな話ができたぞ。会話そのものは問題ないみたいだ」
「お料理と裁縫が好きなんだって」
光貴と晴香はとても楽しそうだ。特に晴香は、黒茶の瞳がきらきらと輝いている。興奮が隠しきれない二人の報告は、フレイによって引きとられる。
「記憶が戻る兆候はないけど、精神的にはすごく安定しているよ。僕たちにも少しずつ、心を開いてくれているみたいだ」
「――そうか」
ラッセルは頬を緩める。
記憶が戻らず不安に駆られているはずの少女に今最も必要なのは、心のよりどころだろう。まだまだ未熟ながらまっすぐなこの三人が、その役目を果たしてくれるというのであれば、事態はいい方向に転がってくれるはずだ。
彼はなぜか、そのように確信していたのである。
にこにこと笑うラッセルは、そのままフレイの頭を優しく撫でる。少年は、虚を突かれたような顔をして彼を見上げた。
「良かったな。おまえ、すごく気にしてたもんな」
「そ、そりゃそうだろ! なんだよその含みのある態度!」
あからさまに嫌そうな顔をしてそっぽを向くフレイ。だが彼の様子に構わず、青年は頭を名で続けた。するととうとう「と言うか、子供扱いするな!」と一喝された。
おかげで四人は、通行人の視線を一身に浴びることとなったのである。
若者三人と愉快なやり取りをしたラッセルは、その足でミーナの部屋の辺りへと向かった。
理由はない。ただ、なんとなく気になったというだけだ。
簡易の敬礼を示す衛兵に目配せしながら、さりげなく扉の前を通り過ぎようとする。だがそのとき、彼は部屋の内側から響く話し声を聞いた。つい足を止める。
「なあ。誰かいるのか」
「あ、はい。ノエル様が先刻」
「――ノエルが?」
直立不動の衛兵の顔に、困惑と慈愛が入り混じる。一方、ラッセルは目をみはった。
しばらく思案したあと、何も言わずに衛兵の横に並ぶ。
「あの、ラッセル様?」
「しっ。ちょっとだけでいいから静かにしてろ」
戸惑いがちに声をかけてくる相手を、ラッセルは見向きもせず制止する。そのまま扉越しの会話に耳をそばだてた。
「すごい。私のこと、たくさん知っているのね」
「もちろんです。幼少のころから会わせていただいていたので」
嬉しそうなミーナの声に、優しいノエルの言葉が続く。
「あなたの知っている私は、どんな感じ?」
「――明るくて、向こう見ずで、いつも危険なことをしてはお父様やお母様に叱られている感じでしょうか」
「ええ……」
「でも、優しいんです。怪我をした小鳥を放っておけないくらい」
穏やかな笑い声が響いた。
ラッセルはそこで、硬直が解けたように歩き出す。対応に悩む衛兵に対し視線でわびてから、前を向き直した。
確かに、ミーナにとってノエルは非常に大きな存在だった。昔から今まで、ずっと。だからきっと記憶を取り戻す重要な鍵を握っているのもまた、ノエルである可能性は高い。
彼とミーナが深く関わることは、悪いことではないはずだ。
「ま、二人だけの関係で完結していれば、の話だけどな」
誰の姿も見えなくなったところで、ラッセルは近くの太い柱を一瞥する。だがそうして何も言わないまま、その場を立ち去った。
※
途中まで一緒に歩いていた光貴やフレイと別れたあと、晴香はあてがわれた客間へと入った。逃げるようにして駆けこんだ彼女は、その扉を後ろ手で閉めてからため息をつく。
「聞いちゃった」
こぼれた呟きはひどく弱々しい。
今にもへたり込みそうな少女の頭に、扉越しに聞いた声が過る。そしてそれは鎖となって、ぎりぎりと彼女の頭を締め付けた。
『預言者』の少年と『豊穣』の名を冠する少女。二人が、ただそれだけの関係でないことには、とうに気づいていたというのに。
晴香は重い気分を引きずったまま寝台の前まで歩き、そして糸が切れた人形のように倒れ込んだ。質の良い寝台の中に、華奢な身体が沈みこむ。
「なんなんだろう……」
くぐもった呟きは誰にも届かない。――それは、自分がどんなに想っている相手でも変わらない事実だ。
晴香は緩慢な動作で手を伸ばす。何かをつかむように曲げられた指はしかし、虚空を切り裂くだけだった。腕は力なく白布の上に落ちる。
きっとミーナは、ノエルを想っていたのだ。記憶を失くす前に。
そしてそれを喪失したからといって、感情が消えるわけではない。だからこそあんなにも安らいだ声で、彼に問いかけることができるのだ。彼の微笑みを引き出すことができるのだ。
自分に、その力はない。
動悸が激しくなる。体中に力がこもる。それを押さえつけるかのように、食いしばった歯の隙間から声をこぼした。少女は初めて、堪えようのない激情というものを噛みつぶしたのである。
表現できない感情に押しつぶされた晴香は、結局日が傾くまで寝台でうつ伏せになっていた。その後催された晩餐会には出席したが、意識はずっと、そこではないどこかをたゆたうばかりである。
やがて心配する皆をよそにふらふらと部屋に引き揚げると――たった一人、暗闇の中でうずくまっていたのだった。そのとき、少しだけ泣いた。




