第二話 揺らぎ――1
「どういうことだ?」
そう、うめくように口にしたのは果たして誰だっただろうか。少なくとも、暗い瞳を呆然と見ていた光貴には分からなかった。もう一度少女を見る。彼女は、首をかしげた。
「わたしはミーナというのでしょう。あなたたちも、わたしのことを知っているの?」
ミーナは先程と同じようで違う問いを投げかけてきた。光貴はラッセルを見る。ラッセルはというと、しばらく逡巡したように視線を彷徨わせてからわざとらしく咳払いをし、そして膝をついた。
「失礼しました。私、ピエトロ王国の宮廷魔導師、ラッセル・ベイカーと申します。貴女のことは幼き頃より存じ上げております」
普段からは想像もつかないほど恭しい態度に、光貴はぎょっとして半歩後ずさりした。アレクが「気味悪い」と評した理由がよく分かる。
「そうなの? ピエトロ王国……わたしも知っているはずの国、ね。フレイから聞いたわ」
ミーナはどこかぼんやりとした声でそう返す。ラッセルと光貴は顔を見合わせた。どうやらフレイも、このミーナを既に見ていたらしい。だから「目的は達成できない」などと言ったのか、と光貴は納得した。
しかし――これはどう考えても記憶喪失というやつである。話し合いができないどころか、それ以前に厄介な状態なのではなかろうか。きっと今の彼女は、光貴以上に自分が守護天使だという自覚が無いに違いない。
「あなたは?」
深刻な表情で思考していた光貴は、唐突に呼びかけられて飛び上がらんばかりに驚いた。だが、どうにかそんな内心を取り繕って胸に手を当てる。「守護天使同士の立場は対等」なのだから、これくらいがちょうど良い。
「俺は初対面です。北原光貴と申します。ピエトロ王国の、次代の守護天使、ということらしいです」
ラッセルよりは砕けた口調で挨拶する。すると、金色に塗りつぶされた瞳が興味深げにその顔を見上げた。
「光貴さん。なんだか懐かしい人」
「……え?」
懐かしい、という単語が反響して届く。彼女の声と、少し前に出会った少年の声が重なって聞こえた気がした。一体、自分になんの面影を見いだしているというのだろうか。
だが『豊穣姫』は答えをくれず、代わりに儚く微笑んだ。
「わたしよりお兄さんなのだから、敬語はなしでいいよ。お友達になってくれない?」
暗い美貌を、暖色の光が淡く照らす。
晴香は、ふと窓の外を見た。茶色と鮮やかな赤や緑を基調とした街並みが、どこまでも続いているのではと錯覚するほどに遠く、広がっていた。
「お兄ちゃんたち、どうしてるんだろう」
彼女はぽつりと呟く。心配しているわけではないが、なんとなく彼らが今見ているであろうもののことが気になった。すると、隣の椅子に座って本を読んでいたノエルが顔を上げて微笑む。
「今頃はミーナ様と面会なさっているでしょう。気になるのは、彼女の身に何が起こったかということですが……」
そう言ったあと、彼は緑色の目を伏せる。それを見た晴香は、なぜか鋭い胸の痛みを感じてうつむいた。先程からさまざまな人にミーナと呼ばれる、アルド・ゼーナの守護天使、『豊穣姫』。どんな人かは分からないが、王宮の人々にはずいぶんと慕われているように思える。
意図せず嘆息が漏れる。すると、それを聞いていたらしいノエルが、本に栞を挟んでテーブルに置いた。そして隣に置いてある鞄をあさり始める。
「そういえば、皆さんと合流したあと、晴香さんに渡そうと思っていたものがあったんです」
「え、何?」
鞄の中身をごそごそとかき回しながら言ったノエルを見て、晴香は目を瞬いた。ノエルはすぐには答えず、しばらく手を動かしてから、鞄の中で何かをつかんだ。そして、それを取り出す。
彼の手元にあったのは、小さな箱。縦長でクリーム色の箱で、飾り気はいっさいない。ノエルは柔らかく微笑んで、それを晴香に手渡した。
「何、これ?」
「開けてみてください」
ノエルはただ一言そう言った。晴香は首をかしげつつも、箱のふたを開ける。そして、感嘆の声を漏らした。
中にあったのは、首飾りだった。何かの花を模した文様が刻みこまれた透明な石が、鎖によってつながっている。石は光が当たると、わずかに虹色を滲ませた。晴香は思わずノエルを見る。
「ここへ最初に来る途中、偶然見つけたので買ってみました。それはただの宝飾品ではなく、ある程度の魔法からなら所有者の身を守ってくれる特別な施しがしてあるようです。あと、腕の良い魔導師なら外からそれを強化することも可能だと、売っている人が説明してくれました」
ノエルがこれを贈ってくれた理由は、説明を聞いたおかげですぐに分かった。これから訪れるであろう、数多の魔導師との戦いに備えてつけておけ、というわけだ。晴香自身の力が不明な今、確かに「守り」は最重要かもしれない。
首飾りを手に取る。きらりと光る銀の鎖をつまんで眺めた晴香は、そっと口元をほころばせる。それから、大切な贈り物を首にかけて、花のように笑った。
「ありがとう、ノエル君。大切にするね」
ノエルは少女の言葉を受けて、穏やかに目を細めた。
それからしばらくは二人で他愛もない話をした。兄との再会以降、ゆっくりする時間がなかったせいか、昔話が内容の大半を占めた。久々の和やかな空気に晴香は安心感を覚える。
だが、数分後。それは唐突に破られた。
部屋の扉が数回叩かれる。晴香は「なんだろう?」と言ったが、ノエルの方はというとさして動揺するような素振りを見せることもなく「どうぞ」と言った。
扉が開いて、入ってきたのは――光貴とラッセルだった。二人揃ってやや硬い表情をしている。何かあったのかと、晴香は椅子からわずかに腰を浮かせる。だが彼女が何か問う前に、ノエルが言葉を発していた。
「どうでしたか?」
やや張りつめた質問が、空間をたゆたう。それを受けたラッセルが、自分の赤毛をかきむしって一言。
「非常にやっかいなことになった」
どう考えてもおどけた様子ではない。晴香はますます疑問を感じて、思わず自らの兄を見た。彼は妹の視線を感じると、ばつが悪そうな顔をして一瞬だけ目を逸らしたが、やがてまっすぐに二人の方を見てきた。それから、肩をすくめる。――「これから説明する」と言いたげな様子で苦笑した。そして、続きをラッセルが引きとり、あまりにも衝撃的な言葉を発する。
「ミーナが、記憶喪失になったらしい」
隣でノエルが瞠目するのを、確かに見た。彼は雷に打たれたように硬直し、唇もわなないたままである。同じく混乱していた、しかし彼よりはいくぶんか冷静だった晴香が、代わって問いかけた。
「どういうこと?」
「詳しいことは俺たちも分からないんだよ。ただ、警備にあたっている兵士によると、『ステアーズ公国からの使者がいらっしゃる二週間ほど前からこのようになった』って」
そこで、疑問符を頭に浮かべた晴香の横でノエルがようやく声を上げる。
「待ってください。『ステアーズ公国からの使者』って」
「ああ」
ラッセルがあっさりとうなずき、そしてなぜか、指でこめかみを叩いた。
「ステアーズ公国の守護天使、『叡智王』フレイ・エル・ステアーズとその従者たちだ」
思わぬところから飛び出た守護天使の名前に、今度は晴香が驚いた。声は上げなかったが椅子を蹴倒して立ち上がってしまった。
一方、『預言者』の少年は頭を抱える。ラッセルもやれやれと言わんばかりに首を振る。
「そうですか。部外者の中で最初に彼女の事態を知ったのが、フレイ、ですか」
「ああ。かなり荒れてたぞ。危うく光貴を焼き殺すところだった」
「まあ、彼はミーナ様にかなり懐いてますからね……」
おまえがそれを言うべきじゃない――というラッセルの言葉は、おそらく晴香と光貴しか聴いていないだろう。それはともかく、彼女は城勤め二人の会話の内容に驚いて、我知らず光貴の方を見る。彼は、引きつった笑みを浮かべていた。
いったい何があったのか、非常に気になるところではあるが、詮索しない方がいいだろう。晴香はため息をついて目を逸らした。そうこうしているうちに話が進む。
「そうなると確かに厄介ですね。記憶が無いのでは、話が進まない」
「ああ。フレイにとりあえず託すという手段もないではないが、今の不安定な状態で、どこまでこちらの話を吟味してくれるかが問題だよなあ」
「彼もなんだかんだで、十歳ちょっとの子供ですしね」
「アレクほど大人の対応は期待できないよな」
ラッセルとノエルの二人は一通り言葉を交わし合うと、がっくりと項垂れる。重々しい沈黙が漂って、光貴がそーっと晴香の方に歩いてきた。彼女は、関わりたくないと目で訴えている兄に耳打ちをした。
「なんかさっきから、フレイっていう子の評価がひどいんだけど、そんなにひどいの?」
兄はそれに対して、どこか歯切れの悪い言葉で返す。
「うーん。多分普段は、すごく大人びていていい守護天使なんだろうと思うけど……今はその、なあ、友達の緊急事態ってこともあってこう、かなりとがってるというか。俺が『神聖王』だって言ったらすごい罵倒されたし」
彼の話の内容に、晴香はまた驚いた。『神聖王』であるというだけで罵倒されるなどとは、想像もつかない。彼女はつい、横の少年の顔をまじまじと見る。彼は淋しげに微笑んで、呟いた。
「多分、今のあの子にとって俺は、『先代』の代わりでしかないんだろうな」
初めて見る、深い悲しみをたたえた瞳。晴香はもはや何も言えず、ただ息をのんだ。
それからしばらく、何度か議論が行われたが、それはすべて平行線をたどった。結局『豊穣姫』の記憶を取り戻さないことには何も始まらないのだ。それをおぼろげながらに悟った晴香は、何度目かの議論の終わりにおずおずと手を挙げる。
「結局、その、この王宮で起きている『豊穣姫』さんの記憶喪失騒ぎに関わるの? どうするの?」
光貴が静かに瞑目し、ラッセルとノエルが顔を見合わせる。予想外の反応に晴香はおろおろとして辺りを見回したが、言葉を変えることはしなかった。そうしているうちに光貴が口を開く。
「俺は、向こうが拒まなければ協力はするべきだと思う。どのみち、この問題が解決しない限りミーナともフレイとも話し合いなんてできやしないんだからさ」
彼がそう言うと、先程顔を見合わせた二人が驚いたような表情になり、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「俺も『神聖王』様の考えに賛成だな」
「僕もです。個人的にも、この状況を放っておくのは胸が痛むので」
あっさりと手を挙げた二人を見て、晴香はふっと肩の力を抜いた。すると、まるで止まっていたものがすべて動き出したかのように空気が弛緩した。ラッセルが立ち上がる。
「さてと。そうと決まれば、国王やら近衛兵やらと話をつけにいかないとな」
場の雰囲気を変えるかのようにことさら明るい声で言った男は、大きく伸びをする。それを見ていたノエルも、やや呆れた様子で立ち上がった。晴香と光貴はこっそりと笑いあう。
すると、また部屋の扉が叩かれた。今度は誰ひとりとして覚えのない調子だったせいか、みんなして首をひねる。その後、代表してラッセルが扉を開けた。
「どちら様でしょうか?」
そんなことを言って客人の顔を見たラッセルが、意外そうな様子でその名を呼んだ。
「ケインズ隊長……!?」
そこに立っていたのは確かに、近衛兵長のケインズだった。彼は四人を順繰りに見ると、恭しく礼をする。
「お話中のところ、失礼いたします。今回の件について皆さまと話をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
瞑目し低頭している近衛兵を見下ろしたラッセルは、一度こちらを振り返ってきた。その視線の意味するところを知り、晴香をはじめとした三人は一様にうなずく。すると宮廷魔導師はにやりと笑い、ケインズへと声をかけた。
「ぜひお願いします。私どもも、いろいろと訊きたいことがありますので」
すると、なぜかケインズの方も不敵な笑みを浮かべて応じた。




