第四話 賭けの一手――4
朝の薄い空気が尾を引く中、人々が動きだす。いつもなら倦怠感を伴うそれは、しかしこの日は活気を伴っていた。ある者は期待を胸に、ある者は不安を胸に、そしてある者は怒りを胸に――シンフィル市民は王城前を目指して駆けていく。
セルジブデはその様子を、路地裏からねめつけていた。うなるような音に舌打ちをひとつすると、葉巻を指先で弄ぶ。それからふいに、口を開いた。
「アスタロト、本当に上手くいくのだろうな」
重々しく響く言葉に呼応するかのように、路地裏の薄暗闇が揺れる。その中から、一人の女が幽鬼のように姿を現した。ローブをまとった女は艶然と微笑む。
「ええ、もちろん。演説など好きにやらせておけば良いのです。この作戦が成功すれば、ナランツェツェグはたちまち無力になる……。あなたは堂々としていてくださいな」
確かな色気を放つ声音に、セルジブデは鼻を鳴らした。女の笑みから顔を逸らすと、大きく息を吸う。シンフィルの空気はどこまでも乾いていた。
女がいつまでそこにいたのかは分からない。だが、気付けば気配がなくなっていた。相変わらずの気味悪さに悪態をつきたくなる。
――「あなたがた王弟派に勝利を招いてみせましょう」
そんな文句と共に突然現れた女の影響で、女王対王弟の争いは表面化した。そう言って差支えなかろう。そして彼らは、少なくとも女王の一派に競り負けはしなかった。
セルジブデもその周りにいる者たちも決して無能ではないのだが、アスタロトの助言にかなり救われたことは否定できない。だが、この国に奇妙な異邦人がやってきてからは少し調子が狂ってきていた。女の手で、狂わされているようにしか思えなかった。
特に、彼女が『生命王』に対し『神聖王』がどうのと吹っ掛けたと知った時には、彼にしては珍しく怒気を前面に押し出して苦言を呈したものである。
あいつを徒に挑発するな、と。
だがアスタロトはこう言ったのだ。
「挑発などではありませんわ、殿下。『神聖王』は確かに戻ってきたのです」
いつもの微笑みの裏にあるのが嘘か真実か、少なくともセルジブデには判断できなかった。よくある薄気味悪さを覚えただけである。
その時微かに、「忌々しい光を纏った王が……」と聞こえた気がしたが、考えすぎだと思っておくことにしていた。
風に乗って、凛とした声が聞こえてくる。
懐かしい姉の声。だが今は、それすら憎い。
セルジブデは立ち上がって、演説が行われているであろうその場所へ向かう。
ナランツェツェグが女王になってから振りかざすようになったきれいごとが、セルジブデは好きではなかった。どんなに言葉で飾っても、結局は愚かな先王と同じことをやろうとしているのではないか――そんなふうに思えてならないのである。
彼女の言葉ひとつひとつが、風と共に民衆の前にさらされている。皆、内心は様々なれど熱心に聞き入っていた。しきりにうなずいているのは、女王派だろう。
民家の壁にもたれたセルジブデは密かに、くだらない、と呟く。その声は誰にも届かない。
演説は続く。
女王として、この国を正したいのだと訴える声が。
先王の二の舞になるつもりはないという決意の響が。
国民に一丸になってもらいたいのだという懇願が。
姉の真摯な声音が都に浸透していくのを、弟として感じている自分に、あるとき気付いた。
――ばかばかしい、と彼が首を振ったその刹那。事態は大きく動きだす。
「私の政権に盤石さが無いこと、先王の考えを継ぐ者に対しての信用が薄いこと、それを臣民たる皆さんが不安に思っていることは承知しております。しかし私は、この国を立て直すために努力をしていくつもりです」
繰り返しとも取れる言に民はざわめく。女王が続けた。
「私一人では及ばぬところがある、という意見もあるでしょう。
私の無力さは、私自身もよく分かっています。ですから私は、決意いたしました。私が女王として力をつけられるよう――古き盟友、ピエトロ王国の力を借りることを」
王城前は、水を打ったように静まり返った。そして次の瞬間、大きなどよめきに包まれる。
感嘆もある。怒号もある。うめきもある。歓喜もある。
それを傍観していたセルジブデは、思わず毒づいていた。
「やりおったな、アレクめ……アスタロトめ!」
考えてみればおかしい事だらけだったのだ。『神聖王』が復活したというのなら、どうしてすぐに引き込むなり殺すなりしなかったのか。即位もしていない『王』ほど弱々しいものはないというのに。
男は、遥か高みにいる女王を、その先にいるであろう二人の『王』を、鋭く睨み据えた。
「始まったな」
ぽつりと漏らされたアレクの声に、光貴は振り向いた。
静かで、それでいてどこか楽しそうな青年の瞳は、いつもより穏やかに揺れている。光貴は再び遠く映る王城に視線を戻す。ナランツェツェグの後ろ姿が強い物に見えた。
「今頃、都は大混乱だろうな」
「ああ。大同盟ではない、二国間の契約――そんな展開になると予想していた者は少ないだろうから」
恐らくこの場がおさまったとしても、賛否両論あるだろう。上層部の会議は紛糾するに違いない。それを見て不敵に笑うアレクの姿が想像できてしまい、光貴は思わず噴き出した。
「それにしても、今思うと大胆な賭けに出たよな、おまえ」
政治に疎い光貴でも、今回のやり方が強引だということくらい分かる。呆れて半眼になる少年に、青年は笑いかける。
「なあに。時には思い切りも必要だよ。これ以上ブデと争っても良いことないしなあ」
彼が親しみを込めて呼ぶのは、おそらく王弟――セルジブデだろう。そうかい、と投げやりな返事をした光貴は改めて王城の方を見た。
そして、寒気を覚えた。
王城のさらに向こうの広場。今民が集まっているであろう場所。光貴の目には捉えられるはずのないその場所に、禍々しい気配が渦巻いている。
それは、記憶に新しいものだ。
「やはりいたか」
隣で、アレクが忌々しげに呟く。それがどこに向けられたものなのかも分からぬまま、光貴は首を縦に振った。
都の狂乱をよそに、バルコニーには気まずい沈黙が下りる。光を取り戻しつつあるはずのこの国に、しみのように残る闇。暗いそれは、確かに触手を広げていた。
さて、というアレクの声が沈黙を破る。
「これからのジブリオを――あの厄介な闇も含めて――どうにかするのは俺たちの仕事だ。おまえたちの仕事は、これで本当に終わった。だから」
息をのむ光貴の前で、アレクはそれこそ不敵に笑う。
「今度は俺が、おまえたちの頼みを聞く番、だろ?」
光貴はすぐには答えなかった。ただ、ふっと微笑むとアレクに背を向けて歩き出す。それから、彼を振りかえった。
「始めるか」
「――ああ」
ほどなくして、なぜか自信に満ちた答えが返ってきた。
二人が足を踏み入れたのは、円卓がある会議室である。そこには既に、三人の人物が集まっていた。
「よう。都はすごいことになってたか?」
気さくに手を挙げているのは、ラッセル。
「これから大変そうですね。アレク」
やんわりと微笑みつつも苦々しさを露わにするノエル。そして、
「あ……あの~……これって私、参加しなきゃいけないの?」
所在なさげにうつむく、晴香。隣でノエルが苦笑しながら肩を叩いている。
三人にそれぞれ答えを寄越した二人の守護天使は、円卓の一角に腰かけた。
瞬間、部屋の空気は電撃が走ったかのように張りつめた。アレクが、指先で白い円卓をこつこつと叩く。そうして全員の視線を集めると、言った。
「さてと。それじゃあ、具体的な報告をしてもらおう。報告が終わったら、今後の方針について話し合う」
「報告は僕の方からさせていただきます」
そう言って深く頭を垂れたのは、ノエルだった。揺れる緑の髪を見つめながら、アレクは無表情で言い放った。
「それじゃあ、ノエル・セネット。頼む」
青年の顔は、国の象徴の顔そのものだった。
ノエルが短く返事をして立ち上がる。それから朗々と語り始めた。ラッセルがあの日、話さなかった――話すことができなかった部分まで事細かく、事実を全員に伝えていく。ラッセルとアレクは食い入るように聞き、晴香はかたずを飲んで見守り、光貴は瞑目してひとつひとつを耳に刻みこんでいく。
誰もが重い沈黙を保っていた。その中で最も堂々としていたのは、守護天使たちだった。
複数の国の行方を左右する、いくつかの会議のうち最初のひとつ。だがそれは、後の記録、歴史書に記されることのないものだった。本人たちがそれを希望したためであり、また彼ら以外にその場に居合わせた者が一人としていなかったためでもある。
ただ、国事でありながら女王が居合わせなかった会議として、ジブリオの上層部では何かと話題になることが多い。時にはそれを使ってナランツェツェグが揶揄されることもあった。
だが、ひとつ断っておくとするならば、以降の会議でも王族が同席することはほとんどなかったという事実が存在するのである。
それはひとえに、この会議が守護天使とそれに関わるものでなければ到底進めることのできないものであったからであり、王族が低く見られていたわけではない。彼らにも後からしっかり詳細が伝えられ、その上で国防のためにその手腕が振るわれた。
暗黒魔法の使い手――正体の分からぬ彼らはこのとき、そういった会議を開かせるだけの脅威を持っていたのだ。
そして、光貴たちが彼らの正体を知るのは――この日から、およそ半年後に訪れるとある邂逅のときになる。




