第三話 明と暗――4
「……おや、もう終わりか」
光が消えてしばらく、現実と夢想のはざまをさまよっていた少年は、不機嫌な声で我に返った。
闇が戻った世界の中に映ったのは、倒れた暗殺者集団とあの一味違う黒装束の者くらいである。改めて見るとその者は、身長が光貴と同じほどしかない。そんな者――彼か彼女か判別がつかない――はやれやれといったふうに首を振る。
「『彼女』はいつから、私より偉くなったのか。まあ、気にするだけ無駄というもの」
そう淡々とひとりごちる。それから黒装束は、生き残っていた三十人弱の暗殺者を振りかえり「戻るぞ」と告げた。すると彼らは目にもとまらぬ速さで、その場から去っていく。物音ひとつ立てなかった。
まるで嵐が過ぎ去ったあとのような静寂が、宮殿のバルコニーに訪れる。その沈黙を破ったのは、光貴の方に歩いてきたラッセルだった。
「なんだってんだよ、まったく。おい光貴、無事か」
ぼろぼろになった柵をさすりながら訊いてくるラッセルに、光貴はとりあえずうなずいた。だが、あの奇妙な手を思い出すだけで、歯の根が合わなくなりそうなほどの震えが襲ってくる。
怖い、とかそういう次元ではない。まさしく異質な物に出会ってしまったというのがふさわしいだろうか。
乱れそうになる気持ちを光貴は深呼吸で落ち着ける。夜の冷たい空気が、頭をじんわりと冷やしてくれた。ひとつため息をこぼした光貴は、ようやく声を発する。
「やれやれだな……。守護天使になってからろくなことが起きない」
「そう悲観するなよ。そのうち慣れる」
光貴が元の調子を取り戻す努力をしていると早々に勘付いたのか、ラッセルがからからと笑いながら言う。慣れたくない、と光貴は頬をふくらませて吐き捨てた。
「それにしても、あの不気味な手はなんだったんだろうな。どうにか魔法で叩きつぶしたから良かったものの」
「おお、あれはわざとだったのか。俺はてっきり無意識かと」
「首都に着くまでずっと特訓漬けだったんだから、さすがにそれくらいはできるようになってるよ」
光貴は大仰に驚いている宮廷魔導師の言葉に、肩をすくめた。
それからしばらく無言の時が流れる。が、ややあってラッセルが鳶色の瞳を夜空に向けた。そういえば、と口火を切る。
「あの奇妙な黒いのを出した奴……ほかの暗殺者どもとちょっと雰囲気が違ったような」
魔導師の言葉に、少年ははっとした。
今思えば、あいつが彼を『神聖王』と見抜いている時点でおかしいのである。『神聖王』は元々その存在自体、公に示されていないし、光貴は正式にその座を受け継いですらいないのだから。
「ああもう、なんなんだよ」
耐えきれず上げた声は、自身でも情けないと思ってしまうほどのか細いものだった。
異質の暗殺者が率いる集団が撤退する少し前、宮殿の中は悲惨な有様だった。装飾の施された壁は砕け、扉はへこみ、茶色く染まった血があちらこちらにこびりついている。だがそれでも、宮殿内部の人間たちは落ち着いていた。
戦えない召使いや下働きは早々に避難させたし、それを除けばこの場にいるのは高い戦闘能力を有した女官や騎士なのだ。彼らは迅速に敵への対応をしているところである。多少の犠牲者は出たものの彼らの働きぶりは凄まじいものがあった。実は、壁が壊れていたり血がついていたりするのは、その勇猛と言うのさえ生ぬるいような働きぶりにあったりする。
そして何より、彼らを安心させている要因というのが――
「ほいっと」
謎の黒装束を前に、小規模の竜巻を、石を弾くのと同じ感覚で撃ちだす『生命王』ことアレク・フレッチャーの存在だろう。
竜巻は目にもとまらぬ速さで周囲の礫などを巻き込みながら、その威力で声ひとつ上げない不気味な集団を切り裂いていく。それを目にも留めずにアレクはため息をついた。
「人海戦術とか、勘弁してほしいよな。ただでさえ俺はほかの守護天使に比べて魔力ないのに」
ぼやきながらも進んでいく彼の足取りに迷いはない。
淡々と歩きながらも、彼は黒装束たちが襲ってくるのを見るやいなや身体をひねって蹴りを入れたり、武器を弾き飛ばしてから鳩尾やら顎やらにきつい拳をお見舞いしたり、時には風の魔法で蹴散らしたりしていく。
その鮮やかともいえる戦いぶりは、周りにいた戦闘員たちがしばし呆然とするほどだ。
だが実際、アレクもけっこう頑張っていた。ナランツェツェグやここで働く人々のことを思うと、なるべく建物を壊さないようにしたい、と思っていたのだ。となると自然、気を遣う戦いになる。
敵の姿がない区画に差し掛かり、彼が肩をぐりぐりと回しながら歩いていると、突如舞い降りた鳥のように、目の前に黒が現れた。ふわり、と黒は微かに揺れる。
むろんアレクとて警戒していなかったわけではない。すぐさま謎の存在に対して身構えたが、瞳に怪しむ色が浮かぶ。
「誰だ……?」
思わずアレクは呟いた。それほどに目の前の人物は、ここでは異質だった。
身体に沿うような黒装束をまとっている敵の連中と違い、青年の目の前に現れたのは布をたっぷりと使ったローブをまとった女である。柔らかい目もとと厚い唇がわずかに見える。そんな中で、赤紫色の瞳は宝石のように輝き、その存在を主張していた。
女は、その瞳を細める。
「こんばんは、『生命王』アレク・フレッチャー。あなたを探していたわ」
一瞬だけ緑髪の少年を思い出さないでもない柔らかい笑みを浮かべた女。対するアレクは、相手を鋭くにらんだ。
「探していた? どういうことだ」
低い声で問いかけると、女は声を立てて笑う。だがそれもほんのかすかなものだ。
「そう警戒しないでちょうだい。別にいきなりあなたの身に刃を突きたてようなんてつもりはないのよ」
そう諭す声もやはり穏やかだ。高くもなく低すぎずもなく、それでいてどこかつやっぽい声音。だがあいにく、アレクはそういった色気についてはほとんど無関心と言うか、疎いのである。
周りがあんな女ばっかりだからだろうなと自分の境遇を密かに呪ったアレクは、表面上では厳しい態度で続きを促した。
「まどろっこしいのは嫌いなんだ。お話しに来たんならさっさと用件だけ言え」
「釣れないわねえ」
女は肩をすくめ、だがすぐに手を差し出してくる。
「ねえ、『生命王』。私たち、王弟派につく気はない?」
無造作に放たれた言葉はしばらく宙を漂い、それからアレクの中にじわじわと浸透した。それにつれて、彼の表情は険しさを増していく。
「――なんだと?」
怒気をはらんだ問いかけ。しかし、女に動揺の色はない。
「私たちの仲間にならない? と訊いているのよ。別に、いつまでも一段下の階級の女王様にくっついて肩身の狭い思いをする理由、ないでしょう?」
少しの笑いを含んだ台詞を、しかしアレクは悪戯っぽい笑みで受け流す。
「俺は少し前、王弟派からの襲撃を受けたぞ。こちらを殺そうとしてきた人間の味方なんて、誰がするか」
「あら?」
吐き捨てるように青年が言うと、女は目を瞬いた。そこに嘘いつわりの気配はない。
「それは知らなかったわ。仲間が失礼なことをしていたのね――ごめんなさい」
どこかしらじらしくそう言った女は深く頭を下げ、それから、でもね、と前置きして真剣な顔で言葉を紡ぐ。
「私は、いえ私たちは、真剣にあなたを欲しいと思っているの。ねえ、悪くないでしょ?」
女はにこりと笑った。子供の笑みのように無邪気で美しい表情にアレクは少しだけ困惑するも、突き動かされるまでには至らない。
「残念だが、その申し出を受けることはできないな。俺はこの宮殿や城にいる人間のことも、陛下のことも、気に入ってるんでね。忠誠とか義務とか義理とかそんなんじゃない、もっと個人的な感情さ」
女と相対するアレクも笑った。だがその笑みはぎらつく刃のような禍々しささえ感じるものであり、元々の不良のような風体と相まって、気の弱い者が見たら逃げだしそうな迫力を放っているものだ。
だが女の方はそよ風が吹いたときほどの反応も見せない。ただローブの端を少しいじると、細いため息をこぼす。
「ふうん。あっさりしていてつまらないわ」
などと呟いてから、思案する表情を作った。それからぱちりと目を瞬く。そして両手を打ち合わせた。
「あなたがそう言うのなら仕方ないわね。でも、代案があるの。それならどうかしら?」
「代案?」
アレクは女の言葉を反芻する。女はそれに対しうなずくことをしなかったものの、楽しそうに告げてくる。そう――愉しそうな悪女のように。
「噂の『神聖王』様を、こちらに引き渡してちょうだい」
アレクの目が瞬時に見開かれる。彼は無意識のうちに床を蹴って、女と距離をとっていた。
女の顔からも声からも、先程までの屈託ない様子は消え去っている。だが笑顔は消えない。見た瞬間、全身に寒気が走るような笑顔は。
「それがだめならあなたが私と共に来ればいい。
――どちらがあなたにとって得かは、一目瞭然ではなくて? だって、その『少年』は他国の人間じゃない。どうなろうと関係ないわよ、ねえ」
それを崩さぬまま平然と言ってのけた女を見て、アレクは舌打ちしたくなった。ラッセルから昨日の昼間に聞いた話が、耳の奥によみがえる。彼は我知らずうめいていた。
「要は守護天使の力が欲しいわけか。そしてそれが――どういう訳かは知らんが――『神聖王』だとなおよい、と」
女に聞かれない程度の声で呟いてから、アレクは、今度は女に向かって問いを投げかけた。
「おいあんた、本当は王弟派の人間じゃねえだろ。何者だ」
鋭い質問に女は目を瞬く。それからまた、幼い子供のような表情を広げた。
「あらら。手札を切るのが早すぎたみたいね。私としたことが、駆け引きに失敗するなんて」
アレクの『王弟派ではない』という推測を実質肯定する物言いに、その青年の眉がつり上がる。手元にはすでに風の刃が作られていた。
だが女はひらひらと手を振るだけだ。
「嫌だわ、勘違いしないでちょうだい。今の私にあなたと交戦する意思はないわ。ただちょっと、引っ掛けたらついてきてくれるかと思って試してみただけ」
あっさりそう答えると、女はローブの端に申し訳程度にくっついているポケットから金色の鈴をとりだすと、ちりりん、と鳴らした。大して大きい音ではなかったはずなのに、それは洞窟で音が反響するのと同じ響きを伴って、波紋のように広がっていく。
うわん、と襲ってきた不快感にアレクが顔をしかめていると、女がローブをさばいた。
「それじゃあね、アレク・フレッチャー。また会いましょう」
彼女は簡潔に別れの言葉を述べると、煙のように消えてしまう。本当に一瞬の出来事を見届けたあと、アレクは数歩を踏み出して女のいたところを隅々まで確認するも、どこにもその女がいたという痕跡は残されていなかった。
それどころか、宮殿全体が静かになったような気さえする。
アレクが思い浮かべた感想は、間もなく事実として彼の前に突きつけられた。騎士のがちゃがちゃという甲冑の音が聞こえたかと思えば、覚えのある勇ましい命令が飛ぶのを聞いたのだ。
「襲撃者は去ったようだ。皆、ただちに次の行動に移れ!」
アレクは呆然と立ち尽くしたあと、自分の黒髪をくしゃりとつかんだ。耳に馴染んだ別の人物の柔らかい呼び声が聞こえた気がしたが、無視する。
「なんなんだ」
吐息のような情けない呟きが『神聖王』の少年が漏らしたそれとほぼ同じであることは、もちろん知らなかった。




