第三話 明と暗――2
だが、重厚な扉を潜った瞬間、不思議とその緊張が抜け落ちていった。胸の内に爽やかな風が吹き抜けていくような気さえする。何か聖なる力でこの宮殿全体が満たされているように思えて、心地いい。すべてが透明になる。そんな世界の中で、光貴は息を吸った。
「……も、もしかしてここが?」
硬い妹の声が飛び込んでくる。その瞬間、地に足がついた。光貴ははっと目を見開くと、そうと気づかれないよう辺りを確認する。
いつの間にかずいぶんと歩いてきていたらしい。扉はもう見えなくなっていて、遠くから小波に似た人のざわめきが聞こえる。そして目の前には、入口のものとは違う、細かい装飾が施された扉があった。なにかの文様に見えないこともないが、それが何かは分からない。
「お出かけ中、とかだったら一言文句を言ってやるか」
そうして周囲を観察しているうちに、アレクの取り繕った不機嫌さがにじみ出る声がした。光貴はそちらに視線を転じる。すると、緑の瞳がちらとこちらを見ていて、面白そうに細められていた。
『生命王』の意図をはかりかねて首をひねっているうちに、当人が前へ進み出る。そして二回、扉を叩いた。
「陛下、いらっしゃいますか」
アレクは彼とは思えない優しい声で扉の向こうに呼びかけた。すると、くぐもった声が返ってくる。
「いますよ。アレクですか」
凛とした女性の声。親しげな語調に光貴と晴香は顔を見合わせた。
「そうです。――ピエトロからの使者に、暗殺者阻止への協力を取り付けたのですが、いかがいたしましょうか」
ちらとラッセルが眉をひそめるのが見えた。ある種の方便だろうと分かっていても、不快なものは不快らしい。
少しの間沈黙が下りたが、やがて怪訝さを含んだ答えが返ってくる。
「分かりました。会わせてくださいな」
「了解。それでは、失礼いたします」
なぜか笑みを浮かべて恭しく頭を垂れたアレクは、扉を一気に開いた。晴香が口を一文字に引き結んで姿勢を正している。
もったいぶるように開かれた扉の向こうの部屋は、存外狭いものだった。それでも、複雑な文様の描かれた壁が押し寄せるように出迎える。その前面にずっしりと立つ茶色い大きな事務机には、書類の山とインク瓶が丁寧に置かれていた。
そして、今光貴たちが面会すべき人は、その事務机の前に立っていた。黒髪を高い位置で結いあげ、目を瞬く女性。その目鼻立ちは少しばかり北原兄妹と似た色を醸し出している。
アレクはその女性に向けて、簡素な礼の姿勢をとった。この手の出来事に慣れているらしい、ラッセルやノエルもそれに倣う。元々一般市民であった兄妹はおろおろしていた。
その様子を見ていた女性――女王が、穏やかに微笑んだ。
「客が来たと言われたので、どなたかと思えば、ラッセル様とノエル様ではありませんか。ようこそ我が国へ」
ふんわりとそう告げた彼女の目が、続けて二人の方へ向けられる。晴香はびくっとすくんだが、光貴はしっかりと相手を見つめ返し、少なくとも表面上は強い姿勢を繕った。
女王は、わずかに首をひねる。
「……この方たちは?」
だが、その目は異端者を訝るそれではない。
もちろんそれが分かっていたアレクが、女王相手に不遜ともとれる笑みで応じる。
「聡明な陛下なら、もうお分かりのはずでは?」
すると女王はむっと口をとがらせたが、直後にそれを緩めた。そうですね、と小さく言うと、膝を折って礼を示す。
「ようこそいらっしゃいました、『神聖王』様、そして『神託の君』よ。
――私、第二十七代ジブリオ国王、ナランツェツェグと申します」
恭しい自己紹介と風変りな名前に、光貴と晴香が驚き戸惑ったのは、もはや言うまでもないことだった。
どうつないだらいいものか分からないので、とりあえず名乗ることから始める二人である。
「北原光貴と申します。どうぞお見知りおきを」
妹が混乱状態に陥っている様子なので、光貴が先手を取った。すると、晴香もわたわたしながらそれに続く。
「え、あ、妹の晴香です。よろしくお願いします」
アルバートやトレヴァーといった王家の者たちと飽きるほど接しているはずの晴香なのだが、どうも他国の王ともなると話が違うらしかった。
だが、そんな張りつめた様子などものともせず、女王ナランツェツェグは楽しそうに目を瞬く。
「光貴様に晴香様ですね。もしやお二人は、陽の国に縁がおありですか」
「は、はい。母が陽国人なので。ところで、陛下……」
若干ではあるが緊張がほぐれてきたところで、光貴はおずおずと疑問を口にする。
「なぜ、俺……いや私が、ピエトロの守護天使だと?」
するとナランツェツェグは笑みを崩さないまま、実にすんなりと教えてくれた。
「ふふ、単純な話ですよ。私は『生命王』たるアレクと長く接し続けてきた身。ゆえに、守護天使の力には敏感なのです」
ナランツェツェグから微笑みかけられたアレクは、遠慮がちに視線を逸らした。それから口の中だけでぽそりと呟く。
「……メリエルといい陛下といい、なんで俺の周りはこんな女ばっかりなんだろうな……」
「いや、俺を見て訊くんじゃねえよ」
緑の目を向けられた赤毛の宮廷魔導師が肩をすくめ、女王に届かないくらいの声で抗議する。礼を崩さないままそんなやり取りができるのだから、大したものだ。
――そして女王も、その「大した」人間に含まれるらしい。穏やかな微笑みを崩さないまま、まっすぐにアレクを見て、柔らかい声で問いかけた。
「何か仰いましたか、アレク?」
顔は微笑みに彩られているのに、その気迫に好意ではない何かを感じ取った光貴はぎょっとして後ずさりかけたが、辛うじてとどまる。
一方、アレクは一瞬怯んだものの、すぐに姿勢と表情を取り繕った。
「いえ、何も。それより陛下、本題に入りましょう」
涼しい顔でさらりと言い切る。そんな『生命王』を見て女王は拗ねた子供のように唇を尖らせたが、やがてもとの真面目な表情に戻って居住まいを正す。
「まったく……まあ、いいでしょう。はるばるピエトロ王国からいらっしゃった方々の御心をわずらわせたくはありませんしね」
ナランツェツェグは皮肉な光をたたえた目でアレクを一瞥してから、これまでとは別の方向に話の舵を切った。
「この国の情勢がひどく乱れているという話は、すでにアレクからお聴きになりましたか」
「はい。故に陛下を狙う暗殺者を、私たちの手で退けてもらいたい、というお話もすでにうかがっております」
女王の問いかけに淡々と返したのは、どこか冷たい表情をしたノエルだった。女王がそれを聞き、安心したように口元をほころばせる。
「それならば、余計な説明は必要なさそうですね。あなた方の手を煩わせる結果となってしまい、心苦しくはありますが……」
「いいえ。『正当な取引』を経たうえで決めたことですので」
「取引? ……なるほど、お互いひっ迫しているのですね」
『預言者』の発言を訝った女王はしかし、すぐに理解を示して微笑んだ。だが刹那に、微笑は厳かな表情に取って代わる。
「もちろん、お望みのものはお支払いいたしますわ。それもまた、女王の義務です」
彼女があっさりと請け合ったものなので、光貴は少しばかり目を瞬いた。しかしそれも一瞬のこと。
「『彼ら』は例え思惑が筒抜けであろうとも、最大の好機に私を狙わないわけにはいかないことでしょう。だからこそ、アレクにも動いてもらったのです」
至極あっさりとそう語った女王は、穏やかな顔で言った。
「さあ、準備を始めましょう」
ナランツェツェグとアレク、そしてラッセルが計画を詰めている間、兄妹とノエルがどうしていたかというと、部屋を追いだされていた。
未だ出来事についていけていない庶民兄妹を気遣っての対応なので、語弊があるようなないような表現だが、結果として追い出されたことには変わりない。
通された別室に設えられていた高価な椅子に腰をかけ、晴香が投げやりに足をぶらぶらさせる。
「それにしても、やっぱり王族ってすごいよねー」
無造作に放たれた言葉に、ぼんやりと外を眺めていた光貴は、ノエルと一緒に目を瞬いた。二つ分の視線を一身に浴びた晴香は居心地の悪そうな顔をしながらも、言葉を続ける。
「だって、ノエル君が取引の話を持ち出しても、少しも動揺しなかったじゃない? もうちょっと嫌な顔されると思ってたんだけど」
「それはまあ――」
ノエルは気だるそうな晴香に苦笑を向けた。
「『こういう世界』では取引や交渉は日常茶飯事ですからね。女王陛下も慣れていらっしゃるのですよ。たとえそれらの事柄がどれだけ白けたものであろうと無茶苦茶であろうと、武力で脅されるよりはましでしょう」
「まあね」
政治の世界は分からんわ、とため息をつく妹を見て、兄も同様にため息をつく。立場的にはだいぶ違ってしまったが、心情はやはり妹のそれに近いところがあるのだ。
どこか鬱屈とした気分を抱えたまま外を見ていた光貴だが、それに、とノエルの言葉が割り込むと、ふと顔を上げてそちらを見た。
「ピエトロ、ジブリオ、アルド・ゼーナ、ステアーズ、アクティアラ……この五カ国は古くからの同盟国で、それはやはり持ちつ持たれつで均衡が保たれているものですからね。当然と言えば当然の流れです」
五つの国。この大陸で守護天使たちが頂点に立つ代表的な大国のうちの五つ。アレクと、まだ見ぬ守護天使たちに思いをはせ、光貴は再びため息をついた。
すると晴香が訝しげな表情をつくるのが見える。
「どうしたの、お兄ちゃん。さっきからため息ばっかり」
「別にー。守護天使になるって、ロクなもんじゃないと思ってさ」
「……ああ、なるほど」
返ってきたのは引きつった笑みと声。兄妹そろって大変だな、と視線だけで語り合う。
一方、そんな空気の中で疎外感に浸っていたノエルは、乱暴なノックの音に気付いた。光貴たちが反応するよりも早く、はい、と言いながら立ち上がる。それと同時に、無遠慮に扉があけ放たれた。
「失礼する」
暗澹とした空気の中に、突如研ぎ澄まされた剣のようにきりりとした声が割り込んでくる。三人は呆気にとられ、固まった。
遠慮もためらいもなく入ってきたのは、身体に沿う鎧を身につけた金髪の女性だった。この国の一般兵とは明らかに装いが違う。彼女を見て、ノエルが目を瞬いた。
「おや、マルギット。もしやアレクの付き添いですか?」
「久しいな、ノエル。まあそのようなものだ。会議が終わった後に、今次の作戦について問い詰めてやろうと控えているところでな。そこでおまえたちの噂を聞いたから、暇つぶしついでに寄ってやったぞ」
「それはありがたい」
尊大ともとれる物言いに、ノエルが肩をすくめる。女性、マルギットを見物しに寄ってきていた兄妹のうち、妹の晴香が彼にそっと耳打ちした。
「誰、この人」
ぶっきらぼうな問いかけにも、ノエルはそつなく答える。
「名はマルギット。アレクの専属騎士です。見て分かると思いますが、ジブリオ人ではなくエクティア人ですよ」
それを横で聞いていた光貴はふとマルギットの方を見た。彼女の鋭い目を見てしまい、一瞬慌てたが、すぐに控えめな会釈を返す。そこで彼は、ふと首をかしげた。
――彼女から漂う柑橘系の香りに、どういうわけか覚えがあったので。
「おまえは?そっちの小娘とは兄妹のようだが」
しかし、そんな感覚に浸れたのも束の間だった。すぐに厳しい声で問いかけられ、光貴は蛇に睨まれた蛙のように身をすくませる。
「え、ええと、そうです。光貴といいます。あっちは妹の晴香」
おたおたと自己紹介を終えた光貴を無感情に見つめたマルギットは、それから鼻を鳴らした。
「上層部というのは、人の名前に飽きない場所だな。エクティア、ジブリオ、と来て次は陽か」
そんな言葉を聞きながら、今日は名前に対する反応をよく耳にするなと考え、まあ陽国はここから見れば遠く離れた知らない国だから仕方ないか、などと勝手に結論付けた光貴である。
「で、今次の作戦について問い詰める――ということは、あなたも暗殺阻止に参加するということですか」
やや呆れたようにノエルが問いかけると、マルギットは左手で剣の鞘を力強く叩いた。
「当然だ。私はアレクの分身のようなものだからな。ジブリオのことであいつが加われないようなことには、私が加わる」
「相変わらず熱入れてますねえ」
ノエルはやれやれと首を振る。どうやら守護天使つながりで、彼女ともわりと親しい間柄らしい。ノエルにしろラッセルにしろ顔広すぎるだろうと光貴は密かに感嘆していた。
とここで、マルギットがいきなり鞘をもう一度叩く。
「それより。『神聖王』と『神託の君』の噂も聞いたが――まさか、この小僧と小娘がそうだというんじゃないだろうな」
敵意は感じない、しかしわずかな呆れを含む質問。ただ、そこには揺るぎない確信と、逃れようのない気迫がある。
返答に窮した三人はゆっくり視線を絡ませたあと、投げやりにうなずいた。




