第二話 命震わす風の国――1
ふと油断していると、すぐに鋭い音を立て、熱く強い風が吹いてくる。それが顔に吹き付けるたび、晴香は「ひゃあ!」と声を上げた。今も丸太に座った状態で同じことになったばかりである。彼女は厚い布の下で乱れた髪をいじりながら、ついつい愚痴をこぼす。
「なーんか、風が強くなってきたなあ。周りの景色もだいぶ変わってきたし」
見渡せばそこも、丈の短い草が生えた草原だった。遠くには森も見えるが、本当に小さなものだ。さえぎるものが何もない空間で、風は自由に暴れ回る。
「もうジブリオ国内に入ったのかなあ。とすると、さすが『風の国』?」
晴香がそう独語したとき、視界の外側から足音が聞こえてきた。聞き慣れた歩調。ふっと微笑んで彼女が振り返ると、案の定そこに緑髪の少年が立っていた。
「ここにいらしたんですね」
彼はそう言ってふんわり微笑む。今さらだが、彼の髪の色は草原によく溶け込んでいた。そんなことを考えているうちに彼、ノエル・セネットは草原のある方角に目を向けた。
「向こうでラッセルと光貴さんが面白いことをやっていますよ。一緒に見学しませんか?」
「ラッセルさんと……お兄ちゃんが?」
好奇心ゆえに目を瞬いた晴香は、すぐさま立ち上がって、歩いていくノエルのうしろにくっついた。
晴香と光貴と、ラッセルとノエル。異色と言えば異色なこの四人が先の長い旅に出てから、一か月は経とうとしていた。ノエルの話によるとすでにジブリオ領内には入っているそうで、これでもかなり早いペースで進んでいるらしい。他の国をほとんど無視して進んできたのだから必然の結果だろう。
もう少し歩けば、ジブリオの都に入るとのことだ。
それはそうと、少年についていっていた晴香はしかし、あるものを発見して足を止めた。それは草原のただ中で取っ組み合いをしている二人の男の姿である。ただし、一方が極端に若い。そして晴香に似ていた。
「ラッセルさんとお兄ちゃん。あんなところで何を?」
「もう少し近づけば、分かりますよ」
晴香は首をひねりながらも、少年の言葉に従って近づいてみる。すると、昔近くで見た殴り合いのケンカを思い出すような風切り音とともに、こんな声が聞こえてきた。
「――で、だ。さっき話したとおり、魔法には全部で六つの属性がある」
大真面目に言うのは、赤毛を振り乱し、鳶色の瞳を光らせる青年。ピエトロ王国の宮廷魔導師、ラッセル・ベイカーだ。
「四大元素をそのままあてはめた火土風水に光と闇を足した六属性、だっけ?」
答えたのは、ラッセルから鋭く放たれた蹴りをしゃがんで避けた少年。晴香の兄、北原光貴だった。
「その通り。おまえ、よく覚えてるな」
「ふふん。これでも記憶力には自信があるんだよ」
明らかに激しい格闘戦なのだが、光貴の顔には余裕の笑みが刻まれる。
「俺としてはそれ以前の、おまえの頭の容量に関係がある気がするんだが。どうなってんだ、その脳みそは」
言い終わるが早いか、ラッセルはついで地面を蹴った。宙に浮かびあがった状態のまま、言う。
「まあいい。で、魔導師のほとんどは多くの属性を使いこなすことができるが、そのなかでも得意とする属性――主体属性がある。俺は『火』でおまえは『光』だな」
冷静にラッセルの姿を目で追っている光貴は、その短い時間の中で聞き返した。
「待て。なんで俺が『光』って分かる?」
「そりゃおまえ。『神聖王』だからだよ。『神聖王』は光をつかさどる『天使』なんだ」
瞬間に答えたラッセルは自由落下する。その中で身体を素早く回転させ、強烈な回し蹴りを放った。光貴はその攻撃を、身をひねることでかわし、少しばかり隙ができたラッセルの腹に拳を叩きこもうとした。瞬時に跳ばれてよけられたが。
「……っと。ちなみにこれから会いに行く『生命王』は風をつかさどっているんだぞ」
「ふうん、そういうことか!」
狙いを定めた瞳がぎらりと光る。次に飛び込んでいったのは、光貴だった。その後も格闘と魔法講義が同時進行で行われる。
何かがおかしい戦いを見ながら、晴香はげんなりと肩を落とした。
「なんなの、あれ……。二人ともよくあんなことができるね……えっと、すごい」
しゃべりながら戦いとか、と晴香が呟くと、いつの間にか横に立っていたノエルが苦笑した。
「ああ。ラッセルが『宮廷魔導師どもにできなくて残念だ』って嘆いてた、自称『究極の訓練法』ですね。僕が昔、体術の指南を受けたときにもあれをやりました」
「え、そうなの!?」
さらりと聞かされた衝撃の事実に、晴香は思わず振り返る。ノエルは人のいい笑顔のまま続けた。
「はい。棒術の基礎を学ぶためにどうしても必要だったので。――というか、光貴さんすごいですね。前回の旅を含めるにしても短い期間のうちにあの訓練法についていけるようになるとは」
「うーん、なんか最近、お兄ちゃんのことが分からなくなってきた」
兄を褒められたというのに微妙な心境になった晴香は、頬をかいた。そうしていると「よし、じゃあ今日はここまで!」というラッセルの声が、どこまでも広がる青空に響き渡る。再びそちらに目を落とすと、二人とも戦闘を停止していた。
「次は、前にちらっと話した魔法と神様の関連についてやろうか」
「おっ、やっとか! 気になってたんだ」
ラッセルの言葉に、光貴は明るく返した。少し息が上がっているのだが、まだまだ元気そうである。その様子に一区切りついたと判断したのか、ノエルが大声を張り上げた。
「お二人ともー! そろそろ進みませんか!」
これに振り返ったのはラッセルの方だ。ノエルの顔を認めると、悪戯を成功させた悪童のように笑う。
「おっと、そうだな。昼には都に着きたいし」
そう叫び返した彼は、光貴と一緒になって二人の方にかけよってきた。ふう、と吐息を漏らしている兄に晴香が言う。
「しばらく見ない間にお兄ちゃんがすごい人になっててびっくりした」
「なんだそりゃ?」
彼には素っ頓狂な声でそう言われた。大真面目な顔で言ったので、余計変に見えたのかもしれない。
その後四人はそれぞれに荷物を持ち、集合し、再び草原を進み始めた。ちなみに途中までは馬を乗り回す案内人がいたのだが、ここから先は安全だからと途中で別れた次第である。
「そういえば、昼には都に着きたいって言ってたけど……もうそんなに近いのか?」
意外にも柔らかい草を踏みしめながら歩いていると、隣の光貴がラッセルに問うていた。晴香としても気になる話だったので、さりげなく耳を傾けてみる。
「ああ。今の速度を崩さずにいけばそれくらいには着くぞ。……ま、この広い草原を見る限り、そうは思えんかもしれないけどな」
「だな。ピエトロとも陽国とも、ずいぶん感じが違う」
母の故郷である陽国に行ったことがあるらしい光貴が、何気ない口調でそう言った。続けて晴香も口を開く。
「ジブリオの首都か。どんなところかなー。楽しみだなー」
ずっと胸にあった思いを言葉にすると、不思議と足取りが軽くなった。さらに光貴は、まわりの城勤め二人組を交互にながめながら意気揚々と質問している。
「そういえば、あんたらの言うジブリオの守護天使ってどんな人なんだ?」
「それも気になる」
晴香が横から真剣な顔で同意すると、二人は顔を見合わせてから語り始めた。ノエルが口火を切る。
「名はアレクサンダー・フレッチャー。元はジブリオ王家に代々仕えるフレッチャー家の長男だったそうです。ですがある日、『天使』の力が現れてその地位が一気に格上げされたんですよ」
彼の言葉に光貴が目を瞬いた。晴香も驚いていた。意外と、経緯が似ている。そう思ったところにラッセルが補足を挟む。
「守護天使の誕生っていうのは、毎回そんな感じなんだよ。光貴みたいな今までごく普通の市民でしたっていうのは珍しい方だが、いないわけじゃあないし」
「へえー」
二人が相槌を打ったあと、ラッセルはこう続けた。
「あいつは今いる守護天使の中では最年長だ。つってもおまえらと大して変わらないけど……でも経験豊富だから、いろいろ頼っていいと思うぞ」
「ええっ!?」
晴香は叫んだ。三人分の視線を受けながら、訊く。
「てことは今の守護天使って、みんな若いの!?」
首肯とともに、あっさりとした返事がある。
「一番若い奴は初等学校生くらいの年齢だ。な、ノエル?」
「はい。まあ彼は立場が立場なので何も心配していませんが」
あまりにも衝撃的な内容に、兄妹はそろって口を開けて固まった。初等学校生ということは、十代に入るか入らないか、という程度だ。すべての時代がそうだというわけではないが、守護天使の力に年齢が関係しないということを改めて思い知らされる。
「なんか、すごいなあ」
頭を抱えてうめく晴香の肩を、ラッセルが陽気に叩いた。
「まあ気にするな。ほとんどがおまえらの同年代だから」
「いや逆に気にしますよ、それ」
彼の陽気な台詞にほぼ反射的に返してから、ふと不思議な思いを抱く。
気がつけばラッセルとも馴染んでいた。最初は得体が知れない人物と警戒していたが、いつの頃からかそれもなくなっていた気がする。
旅というのは不思議だ。疎遠どころかまったく縁がなかった人とひとたび共に旅をするだけで、これだけ距離が近くなるのだから。旅がそれだけ楽しく、同時に過酷なものであることを示している証拠でもあるのだろうが。
「でもなんか、こういうのも悪くないよね」
「そうだな」
晴香がにこにこしながら独語していると、思わぬところから同意の声。見ると、光貴がにんまりと笑っているところだった。わずかに眉をひそめた晴香に対し、彼はその表情のまま続ける。
「分からないか? 俺も今、同じこと考えてるよ」
「……そ、そっか」
こんなふうに言われるとなんだか照れくさくて、晴香はそれを笑顔でごまかした。
会話を続けながら歩いていると、やがて草原の中に道が現れる。その出現はいささか唐突であり、最初に見たときは晴香が腰を抜かしかけた。道と言っても草原をわずかに刈り込んだ程度の道であったが、そこを進んでいくうちに、やがて本物の街道と合流する。一人だったが、人とすれ違ったほどだ。その人は明らかにエクティア人と顔つきが違う。陽国のそれでもない。では、どこの人だろう。思っていると、ラッセルが独白というかたちで教えてくれた。
「おお、生粋のジブリオ人か。これから狩りにでも行くのかね」
言う彼の目は、通行人が抱えている弓と背負っている矢に注がれている。
ジブリオ人の特徴は浅黒い肌と癖の強い黒髪らしい。晴香は真剣にそれを覚えておくことにした。ちなみにその通行人はこの四人を見たとき、驚いたように目をむいたが、すぐ何事もなかったかのように去っていった。
そんな意外な出会いも経て、四人の旅は続いた。のちにも人との出会いは何度かあり、そのたびにジブリオの言語を耳に留めた。さらにいえばそのたびに光貴が熱心に聞き入っていたので、晴香もそれに倣うようにしていた。
しばらくこんなことをしているうちに、簡単な表現なら覚えることができた。人間の脳みそってすごいな、などと、妙なところに感動した一幕である。
そしてちょうど、太陽が真上に達しようとしていた頃。急に、道が開けた。
「着きましたね」
「そうだな。長かった」
ノエルの言葉に、ラッセルが呼応する。
「え?」
問い返したのは晴香と光貴のものだった。ラッセルが二人の方を見てにやりと笑い、空の方を指さす。
「見てみろよ。きっと驚くぜ」
言われて顔を上げてみて――恐らくラッセルの予想通りに、二人は揃って声を上げた。
そこはまさに、異国の都市だった。
まだ遠くに見える家はほとんどがレンガでできており、――ピエトロの住居にもいえることだが――窓は決して大きくない。むしろピエトロのものよりも小さいほどである。
レンガの茶色と草原の緑、道の土色という不思議な色合いの都市に、晴香はしばらく言葉を見つけることができなかった。やがて光貴が、小さく呟く。
「本当に、ジブリオに来たんだな」
その言葉をもって、晴香もようやく実感できた。改めて新鮮な都市の情景を目に焼き付ける。気付いたときにはもう、探究心と好奇心のおかげで胸が高鳴っていた。




