第一話 日常という名の間奏曲――1
母が行商に出て以来、晴香の目覚めは孤独だった。
そしてこの日も例外ではないと思っていた。朦朧としつつも確実に晴れていく意識の中で、ああ、どうせ目を開けたら、耳を澄ましたら、しんとしているんだろうな。などと考えていた。
――だが、予想は外れた。
視界を開かぬまま耳を澄ますと、何か一階の方から音が聞こえてきて、加えて良い匂いが鼻孔をくすぐる。
さすがに匂いまで感じたところで脳内に浮かんだ疑念が弾け、晴香はぱっと目を開いた。それから数度瞬きして起き上がる。ベッドの上でもう一度確かめると、どうやら夢の類ではないらしいということが分かった。
「……なんだろ?」
ふわふわとした声で呟いた晴香は、寝間着姿のままベッドから這い出す。敷布は後で整えることにした。
緩慢とした動作で部屋を出て、階段を下りる。五感をくすぐる要素は確かに濃くなっていた。
「台所? あれ、なんで?」
音の出所を突きとめた晴香はわりと本気で首をひねり、寝ぼけ眼のまま居間を通り抜けて台所をのぞいた。そして、しばらく何も分からなくなる。
台所には一人の人が立っていた。黒い髪に茶色の瞳の、晴香より二歳ほど年上の少年。フライパンとにらみ合っていた彼は、少女の気配に気づいたのか、視線をちらりとそちらに向けた。
「よ。晴香、おはよー」
気の抜けた声を聞いて人物の正体を悟った晴香は、ぼやけた声で呼ぶ。
「……お兄ちゃん」
「おい、なんだよその不審者を呼ぶときのような暗い声は」
呆れたように言った彼はそれから、ほっ、という掛け声とともにフライパンを揺らす。黄色い卵が軽く宙に舞った。遊びなのか真剣なのか分からない。
その様子を晴香はしばらくぼうっと眺めていたが、やがて目を見開く。
「あっ!?」
唐突に昨日までの記憶を取り戻した。
――二年前から行方不明になっていたこの少年、光貴は晴香の兄だ。それがつい先日、晴香がいろいろな事情で旅に出ることになった時期に北方の町フィロスの神殿地下で発見されたらしく、旅の中で偶然の再会を果たした。
無事旅の目的を達し、クリスタに戻ろうとしたところで彼は軽い昏睡状態に陥った。以降ずっと眠り続け、目覚めたのは昨日の昼過ぎ。あのときはひどく虚ろな様子だったが、今の様子を見るとちょっと信じられない。
「え……あの、起きていいの?」
「心配性だな、妹よ」
本気で落ち着かない妹に対し、兄は冷静に受け答えをした。それどころか余裕全開で火を止めてフライパンの中の卵の様子をうかがっている。
「もう。またぶっ倒れないでよ」
自分が、兄が戻ってきたことを忘れていたという事実を棚に上げため息をつく晴香に、しかし光貴は真顔で言った。
「さすがに俺もそこまでヤワじゃねえっつーの。それより、皿とって」
どこまでも、兄は兄だった。
その後てきぱきと朝食の準備を進める兄の傍らで晴香は雑用を手伝う。すると五分後には、色とりどりの朝食がテーブルの上にならんでいた。思わず、目を輝かせてしまう。
「……家でこんなまともな朝ごはん食べるの、いつぶりだろ」
光貴に微妙な顔をされたことには気づいていなかった。
二人で向かいあって座り、手を合わせる。母が習慣としてやっていたとおり、「いただきます」と口にしてフォークやスプーンをそれぞれ手にとって、食事にありついた。
光貴はとても料理上手だ。不器用な女子にモテるのではと考えた晴香はふと、正面でサラダとにらめっこをする兄を見た。
途端に、変な気分になる。こんなにおいしいものを食べたのが久し振りだからか、この家でだれかと食事をするのが久し振りだからか。
「あのさ、ひとつ訊いていいか」
「何?」
晴香が返すと、光貴の視線はやや湿っぽさを帯びる。
「……おまえもしかして、食事、全部買ったもので済ませたりしてなかっただろうな」
少女の肩が上下に震えた。図星をつかれた彼女はそれっきり顔を上げず、ちまちまと料理を口に運ぶ。それでも兄の視線が離れないと気付くと、抵抗として小さな声で答えた。
「しょーがないじゃん。私が料理ベタなの、知ってるでしょ?」
「それでもサラダくらい作れよ。野菜切ってつっこむだけだぞ」
だがその抵抗も、ため息とともに両断されてしまう。
すごく反論したかったが、そうするとかつてそれをやろうとして五回、思いっきり手を切ったことを暴露することになるので、結局何も言えないままだった。
こうして朝食を終えた二人は仲良く台所に立ち、皿洗いを始める。皿洗いなら大得意、と晴香が手をあげたためだった。兄に苦笑されたが何もしないよりましである。
そうしているとき、ふいに玄関の方から覚えのある音がした。それに気付いた晴香は、手を止める。
「お客さん来た。ちょっと出てくるね」
「む、そうか」
光貴のなんとも思っていないような声を背に受け、玄関に向かった晴香はそのままの勢いで戸を押しあけた。
そして、間抜けな声を上げた。
「あ、ライル」
新聞を突きさした鞄を肩にかけた来訪者は、そんな少女を見ていつものように微笑み、左手を挙げた。
「おっはよー、晴香。起きててほっとしたよ」
「失礼な! 確かに無職だけど、そこまでだらけてないよ」
いきなり喧嘩を売るような発言をする幼馴染に、晴香は唇を尖らせる。だがライルは笑うだけだった。
以前は『エール』という飲食店に勤めていた晴香だったが、国王の命で『夜空の首飾り』探しに駆り出される際に、店を辞めていた。後悔はないものの負い目を感じる彼女に対し、あえて冗談というかたちでその話を突きつけるのは、いかにもライルらしい。
ちなみにそのライルがひとしきり笑ったあと、ずうずうしくも「あがっていい?」と訊いてきたので、晴香は肩をすくめて「いいよ」と答えた。
この頃になって、台所の方から聞こえていた水音がやむ。次いで聞こえてきた足音に、晴香は思わずふりかえった。するとちょうど、少し遠くから光貴がひょっこり顔を出しているところであった。
「おーい、晴香。お客ってだれよ?」
どうやら皿洗い仕事は終わったらしい。晴香が答えを返そうと口を開きかけたが、そこで幼馴染が彼女の発言権を奪った。
「あ、あーっ!! 兄ちゃん!?」
無遠慮に指をさし、目を丸くして叫ぶ。こんなライルの姿は、ここ数年見ていなかった。
一方、光貴の方も目をみはっていた。ただし、ライルの驚き方とは少し違う。
「おまえ、ライルか!? 久し振りだなあ、でっかくなったなあ」
とても弾んだ声でそう言っていた。
晴香がその光景に微笑む一方で、ライルは幽霊でも見たかのような顔で口を開閉していた。
――クリスタに戻ってすぐ、光貴とともに帰宅したため、ライルは光貴が戻ってきたことを知らなかった。ゆえに、再会したときの驚きもひとしおだっただろう。
それは分かっている。分かっているが。
「ちょっと、晴香。いい加減笑うのやめてくれる?」
自分の向かい側で口を押さえて震える晴香に、そろそろ腹が立ってきたのだろう。ライルは目を細め、彼女をにらみつけた。
「ご、ごめん、ごめん」
幼馴染を怒らせたくないため、晴香は頑張って笑いを引っ込める。
「もう……。そりゃ、願ってたこととはいえ、二年も音沙汰なかった人がいきなりいたらびっくりするでしょうが」
不快感の抜けきらない声での呟きが聞こえてくる。今はテーブルを囲んでいるのでそのときの表情は見えづらい。
「悪いな、心配かけた」
それに対して光貴は何を思ったのか、神妙な顔で言った。するとライルが、少しばかり眉根を寄せる。
「いや、兄ちゃんは悪くないでしょ。だってその、封印とやらにかけられてたんだろ?」
「まあ、話によればそういうことらしい」
言いながらも光貴は眉をひそめ、椅子に背中を預ける。
自分が何も覚えていないことにこの兄が不満を抱いていることを知っていたので、晴香は何も言わずテーブルに視線を落とした。
うーん、というライルのうめき声が聞こえてくる。直後にその彼が、ふと話題を転換した。
「そういえばこの家って、新聞取ってないよね」
いきなりそんなことを言われ、晴香は目を瞬く。
「うん、お金ないから。なんで?」
晴香が訊くと、ライルはやや苦い顔になった。
「実は今朝の新聞に気になることが書かれていてさ……」
そこでしぼむように言葉を途切れさせた彼は、家に来たとき脇に抱えていた新聞を取り出して、テーブルの上に叩きつけるようにして放りだした。
「見てよ、一面」
そう言って指をさす。
北原兄妹は顔を見合わせてから、ライルの指を目で辿った。そして一面に踊る見出しを見た瞬間。光貴は眉をひそめ、晴香は瞠目して息をのんだ。
「何、これ」
『シオン、ヴィスターテと同盟結成か』
いきなりでかでかとそんな言葉がならべ立てられている。二の句が継げなくなった二人を見ながらライルが口を開いた。
「まだ双方ちゃんとした宣言はしてない。あくまでそういった動きがあるというだけの話だけど。さすがにちょっと、気にかかるでしょ」
「ちょっとどころじゃないよ」
呟いた晴香の脳裏には、先の旅立ちの前に受けた講義の内容と、旅の果てに戦った二人組の姿がちらついていた。
「ヴィスターテって、確かピエトロと土地の領有権でもめてた国だよな」
「今でももめてるよ。それどころか泥沼化してる」
うめくように言った光貴に、ライルがさらりと補足した。すると、この兄もまた息をのんだ。どうやら晴香と同じ結論に達したらしい。そんな彼らを見て、ライルは目を細めた。それから晴香をにらむ。
「ねえ、もしかしてだけど。晴香が駆り出されたっていう、『夜空の首飾り』の案件で何かあったの?」
二人が旅の詳細を話していなかったことに気付いたのは、このときだった。
そして再び事のあらましを晴香がライルに語った。彼は終盤に近づくにつれ、渋面を深くしていった。晴香が締めくくりの後に口を閉じると、ついに頭を抱える。
「じゃ、今回の件はピエトロに喧嘩売ってるってことかな」
「その可能性が高いが、まだ言いきれないな」
深いため息とともに光貴が天井をあおいだ。その様子を見たライルがにやりと笑ったことには気づかない。
「しかしびっくりだよ。兄ちゃんが守護天使とはねー」
「私もびっくりした……」
からからと笑いながらそう言うライルに続いて、晴香は肩を落とす。すると、光貴に不快そうな顔をされてしまった。
「いや、俺自身、実は納得してないんだがな」
何かを思いつめたような表情。晴香は胸に靄がかかったような気分に、顔をしかめる。
彼は、この二年間眠り続けていた。それが宮廷魔導師によって終わらされただけではなく、目覚めてすぐに、いきなり国の頂点に押し上げられたのだ。
今に至るまで納得がいかないというのも、無理はない。
――そして責任の一端は、彼女にある。
晴香は軽く、唇をかみしめた。
「とりあえず、その城の人たちっていうのに話を持ち出してみればいいんじゃないかな。仮に事実だとしたら、放っておける問題じゃないでしょう?」
「ま、ノエルもラッセルも、すでに情報をつかんではいるだろうけどな」
少年二人の軽い会話に、少女は顔を上げた。何食わぬ顔で政治の話をする二人に、思わず苦笑してしまう。
そうだ、今やるべきことは落ち込むことではない。晴香は表情を引き締める。
「じゃあ、久々に王城行ってみる? お兄ちゃんが目覚めたことも報告しなきゃいけないし」
すると頬杖をついていた幼馴染が微笑んだ。
「そっか、一応臣下ってことになるしね。でも明日にしたら? 一日くらい、王都で前みたいに過ごしたっていいでしょ」
ライルの言葉に、兄妹は顔を見合わせた。それからお互いに失笑する。
「ま、そうだな」
「せっかくだし、どっか行こうか?」
テンポよく言葉を交わした二人はそれから、窓の外をちらりと見る。喧騒に包まれたクリスタの様相はどこか懐かしいものであった。
和やかに会話を続ける二人に何を思ったか、いきなりライルが立ち上がる。
「楽しそうだねー。せっかくだから、俺も混ざろうかな?」
幼馴染の言葉に晴香は目を丸くしたが、やがて花のような笑顔を浮かべた。
「うん、大歓迎!」
「久し振りにみんなで遊び回るとしますか!」
光貴は言うなり、部屋の奥へと駆けていく。こうと決めたらすぐ実行、という兄のスタンスは二年前から変わっていないらしい。
「じゃ、俺は一度家に戻るよ。どっかで待ち合わせする?」
「そうだねえ。中心の時計塔とかどうかな」
問いに答えた晴香の脳裏にあったのは、昔よく三人で遊んだ場所だった。ライルも何か思い出したのか、懐かしそうな、照れくさそうな表情になる。
「うん、いいね」
返ってきた声は、弾んでいた。




