序文 青年と従者の一幕
きらびやかな宮殿はこのジブリオ王国の自慢のひとつだろうが、そんな宮殿の中にも静かな場所があり、そこがアレクのお気に入りの場所だった。せまく、静かで、小さな窓から適度な光が入りこみ、誰にも邪魔されず、いつでも都を一望できる。彼にとっては最高の空間といえる。
華々しい地位にいるものにはいささか似つかわしくないと評価されることもある幸福にひたった彼は、今日も営々と繰り返される人々の生活を目で追っていた。
そんなとき、珍しく扉が叩かれる。実に控えめなその音を聞き、アレクは来訪者に当たりをつけた。
「入れ」
彼が低い声で言うと、「失礼します」という一言のあとに若く気弱そうな男が一人入ってきた。細身で女のようなか弱い部分ものぞかせることがあるその様は、この部屋の主とは好対照である。そしてその主は、相手を見て少し肩をすくめた。
「どうした。おまえから入ってくるなんて珍しいこともあるものだな」
「ええ、そりゃ、いつもなら入りませんよ。しかし今日は緊急のお知らせがふたつございますので」
慇懃さと適当さが入り混じった若者の口調は、二人の関係をおのずと暗示させる。
アレクは「お知らせ?」と反芻して眉をひそめた。一方若者は、妙に恭しい態度であるじに問う。
「良い知らせと悪い知らせ、どちらを先にお聞きになりたいですか?」
彼のおどけた物言いに、アレクの眉間のしわが深くなった。彼の言い方に不快感を示したわけではなく、ただ単に嫌な予感がしただけだ。しかしいつまでも逃げていては事態が進展しないので、腹を決める。
「じゃ、悪い知らせの方を先に頼む」
「了解しました」
ふんわりと笑った男は、ひざまずいて頭を垂れる。
「例の勢力が、本格的に動き出した模様です」
ぴく、と青年の太い眉が跳ねた。彼は窓枠にもたれていた身体を起こすと、従者をまっすぐに見やる。
「いよいよ王家を潰しにかかる気か。あのバカは」
「おそらく」
返事は簡潔そのもの。それを聞いたアレクはため息をつき、「そろそろ動きだす時か」と独語した。従者はそれにわざわざ釘を刺す。
「周囲に気を配る必要があるのは王家の方々だけではありませんよ。この国を守護する者は、むしろもっとも狙われやすい。お気をつけください、アレクサンダー様」
するとアレクはやや言葉に詰まった後、辛うじて切り返す。
「分かってるよ。あと、その呼び方やめろ。略名でいい」
「かしこまりました、アレク様」
「おまえ、わざとやってるだろ……」
いよいよげんなりしたアレクは近くにあった白い椅子を引いてそれに腰かけた。それから腕を組み、若者に続きを促す。
「で、良い知らせの方はなんだ?」
これで大したことがなかったら、今すぐこの部屋から蹴り出してやる。剣呑な声音は、暗に若者に向けてそんな言葉を発していた。しかし次に相手の口から発されたのは、きわめて重大な内容だった。
「――次代の『神聖王』様がお目覚めになられたという情報が入りました」
聞いた瞬間、アレクは息をのみ、そうかと思えば椅子を蹴って立ち上がっていた。今まで一切の動揺がなかった彼の瞳が、揺れている。
「おい、それは本当か!?」
焦るような声でアレクは問う。対する若者も、わずかながら落ち着かない様子で答えた。
「ピエトロ王国からの情報ですので、まず間違いないかと。継承の儀がまだなので正式な守護天使ではないようですが、近いうちにその座を継ぐことにはなりましょう」
「そうか……」
答えを得て落ち着きを取り戻したアレクは、椅子に座り直す。その表情は先程とは打って変わって、非常に楽しそうなものであった。
「さて、どれほどの力と器をもつ者か……。近いうちに確かめさせてもらおうか」
凄絶な笑みを浮かべて言うあるじに、若者は恭しく頭を下げ、退出した。
彼はその『天使』が元は一市民だったことを知っていたが、あえて言わなかった。そしてアレク自身も、本人と対面するまでその事実を知らないままだったのである。




