第一話 邂逅と変動――2
「不思議なこともあるもんですねえ」
まさか下働きで通っている店に来た客と並んで歩くことになるとは思わなかった。言葉には出さなかった思いを、吐息に込めた晴香である。
「本当に。また会えるとは思いませんでした」
少年も笑ってそれに答えてくれた。少し安心した晴香も笑い返す。しかしそこで、少年の顔がこわばった。少しショックを受けていると、彼は申し訳なさそうに視線を下げる。
「あの、昼間は失礼しました。……この辺りでは見ない風貌の方だと思ったので、つい」
そう言われて、晴香は昼間の一件を思い出す。ああ、と手を打った彼女は、今度こそしっかり笑った。どうやら嫌がられたわけではないらしい。
「大丈夫です、驚かれるのも珍しい話ではないですし。父がエクティア人で母が陽国人なんですよ」
エクティアとはここ一帯の地方の名前である。かつてはひとつの大国の名前だったが、多くの国が独立したことにより地方の名前に変わっていった。
「なるほど、そういうことでしたか」
「はい。だから気にしないでください。ええと……」
念押しの意味で少年の名を呼ぼうとした晴香は、少年の名を知らないことに気付いた。相手も自分の名前が分からないのだと気付いてくれたのか、すぐに口を開く。
「ノエルです。ノエル・セネット」
「あ、ありがとうございます。ノエルさん。私は晴香って言います。北原晴香――あ、『こっち』風に言うと『ハルカ・キタハラ』になりますか」
冗談混じりにそう言うと、ノエルはやっと心からの笑顔を浮かべてくれた。それから、右手を差しだしてくる。晴香が少し首をかしげると、彼はこう言った。
「僕、この王都に住んでいるんです。もしかしたらまた会うこともあるかもしれないので……よろしくお願いします、晴香さん」
晴香はしばらく目を白黒させていたが、やがておずおずとその手をにぎりかえす。柔らかい感触と、ぬくもりが伝わってきた。
ノエルは、街の中では比較的大きいホテルの屋上にいた。服と髪をなびかせて、楽しそうに笑っている。
北原晴香。少し、変わった女の子だった。見た目がどうこうとかそういう問題ではなく、あの雰囲気が、ノエルがよく知る女性とは少し違って見えた。町娘や村娘には普通なのかもしれないが。
ちなみにあの後、晴香は嬉しそうに帰っていった。夕飯はコロッケだと言っていたが――その瞬間だけ、少し寂しげな顔をしていたのを覚えている。
「あんまり一人に肩入れしない方がいいぜ、文官見習い君?」
突然後ろから明るい声が聞こえてきた。しかし対して驚きもせず、ノエルは振り返る。そして、同じ屋上に立っている赤毛の青年を見た。
「おや、ラッセル。何か御用ですか?」
発した声は、晴香と一緒にいたときとは比べ物にならないくらい冷たかった。ラッセルと呼ばれた青年は肩をすくめる。
「相変わらず俺には悲しいほど冷たいね。せっかく帰りが遅いあんたを心配して見にきてやったのに。下っ端として」
「僕を目上の者として扱っているつもりだったんですか。てっきりずっと『文官見習い』のつもりでいるのかと」
いやはや、冷たい。ノエルの発言に対して返ってきたラッセルの声は、そのようなものだった。やってられないとばかりに息をついたノエルは眼下の街を見つめながら、言葉をこぼす。
「……晴香さんを初めて見たとき、『力』が反応しました」
ラッセルは一度だまると直後、静かに問いかけてくる。
「じゃあ、あの子が『神託の君』だっていうのか?」
「まだ、分かりません。でも確かめてみる必要があるでしょうね。とりあえず、王に報告するとしましょう」
言い終えたノエルは何かを振り払うように立ち上がると、ラッセルの方を振り返り、一言。
「で。いつからのぞき見をなさっていたんですか、宮廷魔導師殿?」
引きつった声が青年の口から吐き出され、夜空に溶けていった。
――父は、晴香が物心ついたばかりの頃に死んだ。
その理由はさっぱり分からない。仕事の関係だと聞いた記憶があるが、そもそも父がなんの仕事をしていたのかさえ知らないのだ。
母の美雪は愛する夫の死後しばらくふさぎこんでいたが、それでも立ち直りは早い方だったと思う。その要因としては、一種の開き直りと、『二人』の子供の存在があったからだろう。
晴香と、その兄・光貴。二人の子供と一人の母親は、大黒柱の存在がなくなって以降も、双方たくましく生きた。美雪は商店により力を入れ、幸い幼年学校や高等学校に通わせてもらえた子供二人は、学業も家事も、母に迷惑をかけまいとして必死でやった。
心は揺れたけれど、それなりに幸せな日々だったと思う。
だが、ようやく幸福をつかんだ家族にさらなる悲劇が襲いかかった。
長男光貴が、突如行方をくらませたのである。
休日に「図書館に行ってくる」と笑顔で言って家を出て、それっきりだった。ちょうど、彼が十四歳の誕生日を迎えた一週間後のことである。
ぶらぶらと外遊びをするたちであったが、少々遅くなるときは何らかの形で家に連絡を入れる光貴のこと。五日間音沙汰がない時点でおかしい、何かあったに違いないと確信した母と娘は、警察に行った。少々手間がかかったものの捜査はしてもらえたが……結局、クリスタ周辺のどこを探しても見つからなかった。
「あたし、行商に出たいと思ってるんだよね」
母が唐突にそう言いだしたのは、多分捜索が始まって三カ月経ったころだった。もともと夫を失って精神的ダメージを受けていたところに加え、息子の失踪。深くえぐられた傷が、昔から憧れていた『行商』で癒えるなら――と、晴香はそれを快諾し、今にいたるのだ。
「結局、二年も経っちゃったなあ」
ノエルと出会った翌日。朝食の食器を洗いながら、晴香はそう呟いた。正確には二年と半年、だろう。何もかもが消え去ったあのときから、もうそれほどになる。
あらかた食器を洗い終えた彼女は、ずっと壁に飾っている一枚の写真を見た。母と、兄と、自分。三人で撮った家族写真。
母からは定期的に連絡がくるので心配はいらない。でも、写真の中で無邪気に笑っている、兄は――どこにいるのかも、生きているのか死んでいるのかもわからない。
「ううん。絶対、生きてる」
晴香は言った。それは二年半、ずっと口にしてきた言葉。根拠を示せと言われれば困るだけだが、晴香は信じたかった。光貴がきっとどこかで生きていて、いつか帰ってきてくれると。
ひとつうなずきカレンダーに目を通し、今日が休みであることを確認した彼女は大きくひとつ背伸びをした。
そのとき、玄関の方からけたたましい音が聞こえてくる。
「ん? なんだろう」
お客様か、と思いながら晴香は玄関に向かった。こんな乱暴な叩き方をする人は知らないので、友人知人の類ではないだろう。
朝食後でよかったと思いながら扉を開けた晴香は――
「はい、どちらさまで、しょ……!?」
来訪者の姿を見て、固まった。
「北原 晴香殿ですな?」
自分の名前を言いにくそうに言うその人は、その人を囲む数人の男性は、いかめしい鎧に身を包んでいた。鎧の意匠を見るに、どう考えても王国騎士団の人々である。この国の国章である、一対の剣と天使の羽根が彫りこまれた盾の紋章があるのだから、間違いはない。
「王城までご同行願いたい」
晴香が呆然としている間に先程の男性はそう言うと、晴香の手を取ってきた。そこでようやく彼女も我に返る。
「ちょ……ちょっと待ってください! 私、何かしましたか!?」
彼女の脳裏によぎるのは、昨日ライルから聞いた、国宝消失の話。
『もちろん、事実なら王家が何もせずにただ静観というわけにはいかない。きっと、犯人および実物捜索に躍起になっているだろうね、裏で』
もしもそれに関していわれのない罪を着せられているのだとしたら、だまってはいられまい。しかし騎士の男は振り返ると、こう告げた。
「いきなり牢屋にぶちこむようなことはしないので、ご安心を」
まったく安心できない。
だが、相手が「国」である以上、逆らうという選択肢は、晴香にはなかった。
騎士団に連れられた晴香は、そのまま大通りを通って王城に連れていかれた。道中感じた、市民の視線が痛かった。
「でか」
小声ながらそう漏らしてしまったのは、城の正門前でのこと。王城は、彼女が想像しているより遥かに大きかった。もちろん、王都住まいなので日々王が住まうところは遠目から見ていたわけだが、それとは比べ物にならない威圧感だ。
正門を守る門番らしき人たちが、晴香を引きつれて来た男性諸君に敬礼する。本当に騎士団の者らしいという現実を認識させられた晴香であった。
そのままぞろぞろと中に入ったところで――何者かが、一団の前に立った。
「……本当に、アルバート王は兵を派遣なされたのか」
「え?」
呆れを含んだ声は、最初の印象とは違うものの、晴香にとって非常に覚えがあるものだった。そんなまさかと思いつつも顔を上げ、予想通りの結果に目をみはり、呆然としてしまう。
目の前に立っていたのは、ノエルだったのだ。しかも、騎士たちは彼を見た瞬間居住まいを正した。かなり地位に違いがあることが分かる。
「こ、これはノエル様!」
「あの……外部の者がいる前では文官見習い扱いだったはずですが……まあ、もう遅いか」
真っ先に叫んだ先頭の男に目を向けて言ったノエルはしかし呆れたようにため息をつくと、騎士たちに向けて言い放つ。
「晴香さん……いえ、この方には、後で僕から説明をしますし面倒も見ます。皆さんは王に報告を行ってください」
「は? いえ、し、しかし」
「アルバート王には今言った通りのことを説明してもらえればよろしいでしょう。それに、彼女が何も分からないままここに連れてこられたことには、僕に責任がある。どうか任せていただけませんか」
毅然とした態度で言葉を並べ立てるノエル。何を知っているのか、騎士たちはその中でも特に「僕に責任がある」という部分に過剰な反応を示した。しばらく悩んでいたが、結果、大人しく引き下がる。
晴香を取り囲むように配置についていた騎士たちは間もなくどこかへ散っていった。直前にリーダー格らしきあの先頭の騎士が指示を出していたところを見ると、それぞれに役割分担をしたようだった。
そして残された晴香はというと、ノエルに無言のまま手を取られて、再び訳が分からないまま連れ回される羽目になった。だが、抗議も抵抗も今度はしなかった。ただ、呆然自失の状態だったのである。細い廊下に差し掛かるまで、両者とも無言だった。
「あの……」
朝の光が窓から差し込んでくる廊下で、ついに晴香は声を上げる。町で会ったときとはまるで別人のようで、冷淡な雰囲気すらまとう彼に話しかけるのは気が引けたが、それでも、『別人』ではないという確信はあった。
先程、彼が自分のことを「晴香さん」と呼ぼうとしていたから。
「これは、どういうことですか?」
何をさすのかは言えなかった。すべてに対して「どういうことだ」と思っていたからそう言うしかなかった。今まで一度たりとも立ち止まろうとしなかったノエルが、ここで初めて足を止め、振り返る。そのときの彼の表情は、街で見た優しげな雰囲気を持つ少年そのものだった。
「本当に、申し訳ありません」
安堵感を覚えていた晴香に投げかけられたのは、謝罪の言葉。彼女が目を瞬いていると、少年はこうも続けた。
「しかし、すべてをお話しするのはしかるべき場所に辿り着いてからにしたいのです。それまでどうか、ついてきてくださいませんか?」
彼の悲痛そうな顔を見て、晴香は首を縦に振った。それを見届けたノエルが向き直り、また歩きだす。今度は晴香も、だまってその背中を追った。
非常に長い廊下だったのだろう。随分と長い時間歩いたと思う。思っているだけかもしれないが、それほど消耗したのは確かだ。その時間経過のすえ、ノエルは磨き上げられた木製扉の前で立ち止まる。それからためらいなく把手をにぎると、扉を開き、晴香を先に部屋へと入れた。
「うっ……わあ!」
晴香は思わず声を上げる。その部屋は一言でいえば豪華、だった。赤色の絨毯が敷かれ、その上に大きなテーブルがあり、そのテーブルに向かい合うようにして二脚のソファがある。ただそれだけなのだが、その家具ひとつひとつがどれも高級品だと、素人目で見てもすぐに分かったのだった。
「ここは、いわゆる応接室のようなものですよ」
「応接室!? ここが!?」
後ろ手に扉を閉めるノエルを振りかえり、晴香が声を上げる。
なんの冗談だと思った。同時に、王城は恐ろしいところだとも感じた。
「とりあえず、座って話しましょう。お茶のひとつも用意できないのが心苦しいですが」
「いえ、十分です」
少年の言葉に即答した晴香は、おそるおそるソファに向かい、そっと腰かけた。腰とお尻がほどよく沈みこんで、たいへん座り心地のよろしいソファであった。
顔を上げると、そこにはいつのまにかノエルの姿があった。
「さて……それでは、お話しましょうか」
真剣な面持ちで切り出した彼に向かって、晴香も真剣な顔で言った。
「はい。お願いします」
彼女の言葉のあと、しばらくの静寂が場を包む。静寂に終止符を打ったのは、少年の柔らかな、しかしながらどこか固い声だった。
「まず、晴香さんがここに連れてこられた理由は――あなたが、『神託の君』である可能性があるからです」