第七話 純潔と神聖の光――4
「ええっ!? 彼が晴香様のお兄様で守護天使!?」
馬車が道をひた走る中、女官の声は風を切る鳥のごとく空へと響いていく。
「ちょっと、ルナ。声大きいって」
呆れたような焦ったような声で、晴香は彼女をとがめた。しかし当の本人は完全に興奮しっており、晴香の声など耳に入っていないらしい。
やはりぼうっとしていた光貴が、ふわふわした声音で言う。
「まあ、いいんじゃないのか? 周りに誰もいないし」
「おい光貴、おまえぜったい参ってるだろ」
ラッセルに横合からそう言われたが、少年の耳には入っていなかった。ただぼんやりとその目だけが流れる景色を追う。そんな光貴を視界に入れた晴香が、軽くその肩を小突いた。
彼がそこに気付いたのは、実際に何度か叩かれてからであった。
「おう、なんだ」
問い返してみると、妹は少し悲しげに目を伏せる。
「……ごめんね」
「うん?」
いきなり言われたので光貴が思わずもう一度訊くと、彼女は興奮する女官の横で、かき消されそうな声を発した。
「私が勝手に突っ走らなければ、ううん、私たちがもっときちんと捜してあげれば……こんなことにはならなかったはずだよね。苦しい思いをさせて、ごめん」
ともすれば埋もれてしまいそうな声だったが、どういうわけか光貴の耳にはしっかりと届いていた。苦笑した少年はしばらく迷ってから、言う。
「おまえが気にすることじゃねーよ」
「でも」
「俺の方こそ、ごめんな。余計な気、遣わせちまって」
彼が晴香の何か言いたげな声と視線を黙殺し、苦笑とともに返すと、妹は今度こそ押し黙った。不服そうに唇を尖らせはしたが、それ以上何も言ってこないのであえて追及しないことにする。息を吐いた彼は向き直ろうとした。
――だが、そのとき急に世界が揺らいだ気がした。たとえるならばいきなり目の前に水の膜が現れたかのように風景が歪み、それは次第にぼやけていく。
「お、おい光貴!?」
ラッセルの焦った声は不思議と遠かった。彼と二人の旅の最中にも似たようなことがあったとぼんやり考えているうちに、その思考にも靄がかかってくる。
やがて、光貴の意識は鈍い闇にのみこまれていった。
――これが、魔力の使用過多による軽い昏睡状態であると気付いたまわりの人間は大いに慌てることになる。だが、少なくとも光貴自身はこのとき、心地よい眠りにいざなわれるのとまったく同じ感覚に包まれていたのだった。
「なあ、そろそろその面どうにかしろよ」
「うるさいわね。誰のせいだと思ってるの」
レラジェはふてくされるシルヴィアに対し、疲れ切った声を投げかける。
残念ながら、青年の声に対する返事はこれ以上なくきついものであった。人を殺しそうな視線を受けて、しかし藍色マントの青年は呆れたように呟くのみである。
「絶対、ある種の二重人格だよな。この小娘」
二人が今いるのは、王国のどこかにある深い森の中である。昼夜問わず妙に薄暗いこの森は、ときおり木のざわめきとカラスの鳴き声が人の恐怖を駆り立てる場所として、悪い意味で有名だった。しかしこの青年と少女にとって、そんなものは瑣末な要素でしかない。
それならむしろ、今のシルヴィアの方が怖いくらいだった。
「そんなに、復讐の機会を奪われたのが気に入らなかったか?」
しかし既に慣れきったレラジェは、一切のためらいもなくそう訊いた。すると少女の肩が勢いよくはね上がる。ただ、その後の返事は一言もなかった。
不気味な沈黙の中レラジェは今度こそあきれ果てて、わざとらしいため息をつくとつま先で軽く地面を蹴った。すると体がふわりと宙に舞う。夜色の中に不思議と存在感を示す藍色のマントが揺れた。
飛び上がったレラジェはそのまま手ごろな木の枝に腰かけ、唐突に言う。
「あのな、やめるのなら今のうちだぞ」
彼の声が飛んだあと、やっとのことでシルヴィアは顔を上げた。まだ怒気に満ちたその表情の中には困惑が見え隠れする。
「どういう意味よ?」
少女は険悪な声ではっきりと問うた。対する青年はさも大したことではないというように軽い調子で答える。
「あとで急に情がわいて、戦いたくないって喚いても遅いってことだよ。俺たちについてくる限りは奴らとの戦いからは逃れられないんだからな」
因縁浅からぬ関係、などという状態はとうに通り越している。もはや質の悪い執着の域に達しているのだ。『両者』の関係は。
だがシルヴィアはそれに対し、肩をすくめるだけだった。さらに冷笑を浮かべる。
「あなた、私のこと見くびってない?」
冷たい瞳がレラジェの怪訝そうな顔を映し出す。
「私の中からあの感情が消えて失せることはない。強くなることはあってもね。――情? そんなものは、とっくの昔に棄て去ってきたわよ」
言い捨てた彼女は、さらに小さく息を吸う。次に吐きだされたのはやけに強い台詞だった。
「あなたたちと『彼ら』の因縁の深さはよく知っているわ。だからこそ私は、あなたたちについていくことを選んだのよ」
レラジェが口を挟まないのを良いことにひとしきり言いたいことを言い終えると、シルヴィアは亜麻色の髪を揺らしてすくっと立ち上がった。そうして木の上で不快そうにしている青年を見やる。
「ほら、早く帰りましょう。彼に報告しなければならないって言ったのはあなたよ、レラジェ」
最後にそう言い捨てて、彼女はとっとと歩いていってしまった。常人であれば一瞬で方向を見失いそうな暗い森の中なのに、少女は慣れた様子で歩いていく。
小さくなる背中を見ながら、レラジェはそんなことにわずかな感心を抱いた。だがやがて、まったく別の言葉が吐き出される。
「ご立派な覚悟だな。あそこまでいくと尊敬するわ」
呟きながらもレラジェの目はちっとも尊敬の光を帯びていない。あるのはむしろ軽蔑の目だ。
「だがあいつは本当のところ、何も分かっていない」
自分たちと彼らとの因縁が何百年、あるいは何千年も前からずっと続くものだということを、あの少女は本当の意味で分かってはいない。頭での理解と真の理解は違う。
だが、だからと言ってレラジェはそのことに文句をつけようなどという気にはならなかった。知らないのも無理はないのだ。真の理解をするには、彼女の立場は当事者から遠すぎる。
「ま、いーや。せいぜい自分の目的のためにあがいてもらうことにしよう」
そうしていつか敵対するときが来るのなら、そのときは容赦なく潰せばいいだけの話だ。元々、情など持ち合わせてはいない。自分が、ではなくこの組織が。
「しかし、まいったなあ。あの未熟な『神聖王』は厄介なことになりそうだ」
レラジェの脳裏に、ドリスの洞で自分に向かって突撃してくる少年の姿が浮かんだ。あの目は、ただ自分の持つ『夜空の首飾り』だけを鋭く射抜いていた。それ以外のものを見るときに、あの鋭さは、なかった。
きっとやりにくくなるだろう。そう思いながらレラジェは身を起こし、木から飛び降りた。
「まあ、なるようになれだな」
適当な結論をつけた青年は暗闇の中を歩きだす。とりあえずはあの娘の機嫌でもとることにした。
――私が仕えた二人の『天使』の目は、いずれも優しいものだった。歴代守護天使に見られるような使命感の輝きは欠片も無く、ただどこまでも気楽で穏やかだったように思う。だがその裏に確固たる意思と強さを持ちあわせていたことも知っている。それはおそらく、これまでの者たちとはまた別種の覚悟だろうと、私は思っていた。自分の周りの、小さな、それでいてかけがえのない大切なものを守るため、身を捧げてやるという強い意思のようなものだろう。
特に、今まさに守護天使の座を持っている若者に関しては、その穏やかさと意思の強さがどこまでも拮抗している。彼がどのような経緯でこの座についたのかは分からないが、彼は常々、「自分は『王』だけど一般人だよ」と言っている。
その意味が知りたくて、私は最近、彼の王の履歴を調査している。彼に近しい者への訊きこみを、既にいくつか終えていた。褒められた行為でないことは重々承知だが、このときばかりは好奇心が勝っていた。
結果、分かったことがある。彼は歴代の『王』の中でも特に熱狂的な支持を受けている。その、支持の裏に隠された理由だ。それが、おぼろげながら理解できた気がした。
そうして同時に思った。
二年ぶりに辿り着いた新鮮な世界での彼の苦労は、その頃から今にいたるまで絶えないのだろうなと。そう言ったら若き『神聖王』は苦笑した。
「まったくだ。つくづく俺には似合わない役職だと思うよ」
困ったような笑みを見て、少し親近感がわいたというのは、ここだけの話である。
――統一歴二三六五年、とある騎士の手記より
【第一章 END】




