第六話 ドリスの洞――1
「やあ、シルヴィア。遅かったじゃないか」
洞に入ってすぐ上方から聞こえてきた声を聞き、シルヴィアは眉をひそめた。亜麻色の髪を少しだけ手で払いのけてから、上を向く。
この洞の天井にはどういうわけか穴というか隙間がたくさんある。自然にできたものか意図的に作られたものかは分からない。声の主は、その穴の一つに腰かけていた。
「ごめんなさいね。少し、寄り道をしていたの。面白い子に会ったから、ついつい時間をくってしまった」
「そうかい、そうかい」
つっけんどんに彼女がそう言い放つと、相手は声を立てて笑った。広い洞に笑い声が反響する。
「それより……例のものは手に入れた?」
少女の問いに、相手、藍色のマントをまとった茶髪の青年は笑みをおさめて答えた。
「もちろん。ていうか、既に答えは知ってたでしょう」
そう言って彼が取り出したのは、青い石を使った首飾りである。薄暗闇の中でもしっかりと光っていて、それがシルヴィアにとってはかえって不気味だった。
「それが噂の『国宝』……。見たところ普通の首飾りみたいだけど、ちゃんと機能してくれるの?」
「そこは心配いらないさ。これは今でも、立派な魔法道具としての力を発揮してくれる」
そう、と返したシルヴィアは青年に向けて立て続けに質問をした。
「今回の儀式、本当にわたしたちだけでやっても問題ない? 成功うんぬんというよりは、立場的に」
少女の憂い顔に対し、青年の答えはあっさりとしたものだった。
「無論でしょ。というか、そうじゃなかったら奴らも『任せた』なんて言わないよ。それにこれはあくまで下準備だ。俺らがやるべきことだろ、下準備や雑用は」
ぺらぺらとよくしゃべる彼を見て、反対にシルヴィアは沈黙した。
青年の言っていることは事実である。すべてが正論そのものだ。だというのに、なぜか不安がぬぐえないでいる。何か大事なものを取り逃がしているような、そんな感覚があった。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、青年はようやく天井の穴から飛び降りてきてくれた。だがそうかと思えば、こんなことを言い出す。
「それよりシルヴィア。その、面白い子の話をもっとよく聞かせてよ」
「え? 何よいきなり?」
「いや、だってさ」
戸惑うシルヴィアを見ながら、青年は頭をかくと、これまでのおどけた様子が嘘のように目を細めた。
「その子が今、物凄い形相でこっちを見てきてるんだもん」
シルヴィアは言葉を失った。目を見開き、おそるおそる後ろを振り返る。すると――
「『儀式』とやらの話も聞きたかったですね。あそこまで喋っておきながら、どうしてそこだけ隠すんです?」
確かに、リンゲンで出会った黒髪の少女が、洞の入口に立っていた。
ドリスの洞に辿り着いたとき、あの石屋で出会った少女を目撃しても、いまさら驚きはなかった。ピエトロ王国の国家機密を知っているという時点で、何かがおかしいと自分の理性が告げていたからかもしれない。
だからショックを受けることはなかったものの、少しだけ悲しい思いがした。
その悲しみをもみ消すように、晴香は眼光鋭く少女――シルヴィア、と呼ばれていた――をねめつける。すると彼女は、微笑んだ。
「昨日ぶりですか。あまり驚かないんですね」
「ええ。『王位継承に首飾りが用いられる』ことが機密情報だなんて知ったら、そりゃあね」
すると少女はおや、と目を瞬く。
「そういえばそんなことも言いました。余計なことを喋ってしまいましたね」
余裕綽々という言葉がぴったり当てはまりそうな彼女の態度に、晴香は冷静な顔を保ちながらも、おののいた。リンゲンで出会ったときのような純粋さはもはや影をひそめるどころではなく、どこにも見当たらなくなっている。
それでもどうにか身震いをこらえ、手を前に突き出して鋭く言った。
「あなたたちの好きなようにさせてなるものですか。『夜空の首飾り』は返してもらいます」
堂々と言葉を放つ彼女を見た少女の表情が険しいものになる。そうかと思えば動き出したのはその少女の方ではなく、ずっと傍観に徹していた藍色マントの青年だった。彼は少女を押しのけて前に出ると、笑う。薄っぺらい、不気味な笑みだ。
「返せと言われて素直に返すような奴らに見えるかい? 俺たちが」
彼はそう言うやいなや、手を掲げてそれを一気に振り下ろす。
すると、その動作に合わせて空気中に突如刃のようなものが生まれ、晴香に迫ってきた。
少女が目を見開いたのを見た青年は心底楽しそうに宣言する。
「君は厄介な存在になりそうだね。今のうちに、始末しておいてあげよう!」
直後に彼の声をかき消すほどのうなりを上げ、刃は晴香のもとに達しようとした。が――
その刃は唐突に砕け散った。実際は本物の刃のような実体がなかったが、硝子のように音を立てて霧散したのだ。
「なっ!?」
青年が声を上げ、少女も目を丸くする。
その様子を見て密かに胸をなでおろした晴香は、自分への攻撃を防いでくれたものに声をかけた。ただし、お礼ではなく、憎まれ口である。
「もうっ。遅いですよ、ラッセルさん」
彼女が言うと、彼女の前に悠然と立った赤毛の宮廷魔導師は苦笑した。
「いや、ごめんごめん。予想以上に相手の手が早かったからさあ」
とそこで、どこからか分からないが、棒を携えたノエルまでひょっこりと姿を現す。
「言い訳は見苦しいですよ、ラッセル」
「うるせーやい。というか、二軍は黙ってろ」
「二軍とは失礼な。少なくともあなたよりは冷静に戦えるつもりですが?」
「お? 言ったな、このなよなよ緑君が」
こんなときでも言い合いを始める二人を見て、晴香の心の揺れは自然とおさまっていった。シルヴィアとやらのことや、相手からの容赦ない攻撃のおかげで、知らないうちに動揺してしまっていたらしい。
一方、彼らの姿を見た藍色マントの青年は飛び上がらんばかりに驚いていた。
「ら、ラッセル・ベイカー!? 首飾りのことをかぎ回ってる奴がいることは知っていたけど、まさかこいつが介入してくるなんて!」
青年の声を聞いたラッセルはようやくノエルをからかうという作業を終了し、彼らに向き直った。
「魔法道具でもある国宝の消失という一大事に、宮廷魔導師が介入してこない方がおかしいだろう? 今度からはそういうことも想定して計画を練るんだな」
彼はそう吐き捨てたあと、休む間もなく問いをぶつける。
「で? おまえらは一体なんでこんなことをしようとしているんだ? シオン帝国側の命令か」
シオン帝国の名を口にする瞬間だけ、彼の目は鋭い光を帯びた。さすがの晴香にも、何を考えているか一瞬で見当がつく。しかし相手の回答はその予想からは少々はずれていた。
「シオン帝国? はっ、あんな集団はただの傀儡にすぎないね」
青年は言って、鼻で笑ったのだ。それを見てラッセルとノエルが少しばかり顔をしかめる。
「なるほど。ということは、俺たちが想像していたのとは逆の構図か」
逆の構図。そう聞いてすぐには理解できなかった晴香だが、これまでの二人の発言を手繰ると、すぐに答えに辿り着いた。
まさか――と彼女が口にする前に、ラッセルが魔力を練り上げながら、敵に問う。
「何が目的だ。そして、シオン帝国のどこまで食い込んでいる?」
青年はしばらくつまらなさそうに三人を順繰りにながめていたが、やがてゆっくりと薄気味悪い笑みを浮かべる。
「へえ、知りたいんだ。じゃあ、俺に勝ったら教えてやってもいいよ」
「レラジェ」
シルヴィアが苦い顔で咎めるように名を呼び、青年の方を見た。青年――どうやらレラジェというらしい――は彼女の方を見向きもせず、それでもこう言った。
「分かってるよ。殺さない程度に、だろう?」
それを聞くと、ラッセルもまた笑う。
「あんた、俺たちを殺せないのか。お偉いさんに言いつけられてるのかね」
レラジェの表情が、すこし歪む。自分の欲求を満たせなかった子供のようだった。
「悪いけど、その手には引っ掛からないよ」
「ふうん、そうかい」
本人たちさえもつまらなさそうなどこか実りのない会話の後に訪れたのは、冷たく静かな沈黙だった。晴香たちが息を殺してその成り行きを見守っていると、いきなりラッセルが手を振り上げる。
「それじゃあ問答はおしまいだ。悪いけど、首飾りは返してもらう」
殺気さえ感じさせる静かな宣告と同時に、彼の周囲に火球が出現した。源を得てさかんに燃えあがる烈火をそのまま球体に閉じ込めたような魔法は、術者の小さな命令によって放たれた。
「行け」
いつもの快活さを打ち消した波のない声と同時に、火球たちがレラジェに向かって飛び始める。まるで、ひとつひとつが生き物のようだ。それを見たレラジェは再び笑顔になって、障壁を展開させる。火球のうち数個は、その障壁に当たると文字通り煙のように消えてしまった。
「あははっ! さすがはアルバートの右腕とさえ称される宮廷魔導師! これだけの魔法を同時展開なんて、並みの魔導師が成せる業じゃないよ」
無邪気に楽しむレラジェ。そんな彼を見て、ラッセルは小さく舌打ちをした。立て続けに火球を放つ。その火球は、今度はある一点に集中して飛んでいった。
途端、藍色マントの青年はつまらなさそうな顔になった。
「あれえ? 単調だなあ」
しかし、宮廷魔導師の方はというと、それを聞いて鼻を鳴らした。
「ワンパターン舐めるなよ」
それが号令となったかのように、火球は一斉に着弾し、爆発した。すると薄緑の障壁に硝子のようなひびが入る。「おろ?」というレラジェの間抜けな声が聞こえた。
ひびは一瞬にして障壁全体に広がり、二秒後にはそれらが派手な音を立てて砕け散っていっていた。
ラッセルは見計らっていたようで、ちょうどそのタイミングに地面を蹴ってかけだす。手元には、渦巻く風をまとっていた。
「大人しくしてもらうぞ、反逆者!」
「うわ、やべっ」
眼をぎらぎらさせて飛び込んでくる赤毛の青年に対し、藍色マントを翻したレラジェはそんな声を吐き出して飛び上がった。そこから始まったのは、殴り合いに等しい接近戦だ。
一連の様子を呆けて見ていた晴香は、そこでノエルが棒をかまえているのに気付く。口を開けたまま見上げると、少年の緑の瞳はひらりひらりと舞い続ける藍色を捉えていた。
彼は静かに一歩、一歩と地面を踏みしめる。鋭い目は、ずっと標的の姿を追い続けていた。
そして、ラッセルの攻撃から逃げ回り続けたレラジェが一定の距離に近づくと、その瞬間に走り出した。突き出された棒が、確かに青年の弱点を捉える。
「げっ」
蛙のような声でうめいたのは、間違いなくレラジェだろう。だが、もう遅い。傍観者になりはてていた晴香が、ノエルの攻撃的中を予感したとき。
透き通った音とともに、棒が弾かれた。
「なっ!?」
ちょうど大地を蹴って飛び上がっていたノエルは、その勢いで一回転し、どうにか後退しての着地に成功した。
晴香もノエルも、そのとき目の前に立った人物を見て、息をのむ。
「まったく。これだからあの魔法マニアはだめなんですよ。魔法のこととなると、途端に子供のようにはしゃぎ回って。そう思いませんか、晴香さん?」
呆れたような、それでいて楽しそうな声で朗々と語ったのは、細身の剣を携えて悠然と歩く少女。シルヴィアだ。
「さて、ノエル・セネットさん。あなたの相手はわたしがして差し上げましょう。そして『神託の君』――晴香さんの力、我らが手中に収めて御覧に入れます」
そう言うと、彼女は剣を構えた。白刃は、外からのわずかな光を受けて鋭く、不気味に煌めく。対するノエルも、自らの魔力をまとわせた棒を相手に向けた。
思わず後ずさりした晴香が、シルヴィアの先程の言葉を心の内で反芻し、奇妙な感覚を覚える。
「……どういうこと?」
至って平凡な少女の声と、戦闘の開始を告げる高らかな金属音が重なった。




