第一話 邂逅と変動――1
今日は休日、現在の時刻は昼の一時。いわゆる「お昼時」と呼ばれる時。明るく、日が高い所にあり、人々がもっとも活気づく時間帯であることに間違いはない。しかし、飲食店の従業員にとってこの日時は地獄以外の何物でもないのだ。それは雑用も同じことである。
「いらっしゃいませ!」と「ありがとうございました!」の声を聞きながら、客が去ったばかりのテーブルを拭いていた東洋系の少女、北原晴香は勝手にそう思った。だが、間違ってはいない。休日の昼下がりはもっとも人が多く入る時分であり、この店の従業員は密かに「魔の時間帯」と呼んでいるのだ。実際、晴香の背後では数人の従業員たちが営業スマイルを崩さず対応にあたっている。もっとはっきりいえば、走り回っている。大したものだと思った。
「雑用で良かった」
他人に聞こえない程度の小声で呟いた晴香は、雑巾を持ってきれいになったテーブルとおさらばした。
世界最大の大陸の西北に位置するピエトロ王国。その首都、クリスタにある小さな飲食店での下働きを晴香が始めたのは、十二歳のころである。商店を営んでいた母が、昔から憧れていた行商に出かけてしまったために、金稼ぎの手段としてやっているのだ。幸い、それまでのところで、日常生活に必要な知識と知恵は家と学校で身に付けたので、働きながらの一人暮らしもあまり苦ではない。その日暮らしの状態でも、とりあえず生きていけることに満足している。
一仕事終えて手を洗っていた晴香はしかし、直後に先輩に呼ばれた。と、同時にオムライスと付け合わせの野菜を持った皿を突き出された。
「晴香、八番テーブルにこれ運んでくれない?」
「うぇ!? ……わ、わかりました」
あまりにも唐突な頼みごとで腰を抜かしかけたが、大盛況の地獄絵図な現在の状況を見るに、断ることはできなかった。皿を受け取り、かけるようにして八番テーブルを目指す。そして目的のテーブルと客の姿が見えたところで、彼女は一瞬ほど足を止めた。
オムライスを頼んだらしい客は、少年だった。くすんだ緑色の髪。瞳もよく似た緑色。中性的な顔立ちで、女性と勘違いしかけたほどだ。そして美形だった。
いくつかの要素――特に最後のひとつ――のせいで緊張しながらも、晴香は店員の任務をまっとうしようとした。
「お待たせしました」
激しい動悸を感じながらもどうにか言葉をひねりだすと、こちらに気付いたらしい少年はにっこりとほほ笑んだ。
「ああ。ありがとうございます」
特別でもなんでもない一言。その一言で、晴香は危うく陥落されるところだった。下働きでも一応店員、というプライドがその事態を避けさせたものの、どきりとしたことに間違いはない。
「ど、どうぞごゆっくり」
決まり文句をややつっけんどんに口にした彼女は逃げるようにして去ろうとした。しかし、
「あ、待ってください」
と呼びとめられてしまう。晴香は「まだ何かあるのぉっ!」と叫びたくなったが、かろうじて堪えた。
「なんでしょう?」
少年はすぐには答えなかった。ただ、じいっと晴香の顔を凝視している。その静かな光をたたえる緑の瞳を見たとき、少女の身体は硬直した。
なぜかは分からないが、目を、顔を、そらしてはいけない気がしたのだ。
張り詰めたような緊張感。それがしばらくの間続いた。しかし、その時間が終わったとき――少年は、さっきまでの少年に戻っていた。
「……いえ、なんでもありません。呼びとめてすみませんでした」
苦笑してそう言う彼を見て、晴香は首をかしげながらも返す。
「そ、そうですか。何かありましたら、すぐにどなたか呼びつけてくださいね」
「はい」
柔らかい声の返答を聞いた晴香は、妙な心境でその場を後にした。
「十四歳の小娘なんて普通は雇わないんだけどね。あんたは仕事ぶりがものすごいから、特例さ」
“能力主義のクリスタ支店”チーフが、初日に言い放った言葉がこれである。ただしそのときは「十四歳」の部分が「十二歳」だったが。その言葉が再び背後から聞こえてきたものだから、晴香は驚いて振り返った。そこには金髪碧眼、さらに巨躯を持つ女傑が立っていた。
「いきなりどうしたんですか、チーフ」
「別に。ただの独り言さ。それよりハル、代わりの人員が来たからあんたはもう上がっていいよ」
あだ名で呼ばれた晴香はそこで、ほっとしたような驚いたような顔をチーフに向けた。
「いいんですか? ありがとうございます」
内心では「大丈夫かなあ」と思いつつも、女傑のどこか豪胆な笑顔に後押しされ、彼女は言った。
その後裏口から店を出た晴香は表の通りに足を運び、そこで思いっきり息を吸った。春のやわらかい空気が、少女の全身を包みこんだ。
「さーて、買い物でもしてから帰るか」
呟いた彼女はてくてくと通りを歩いて行きつけの店に向かう。ときおり、晴香に気付いた通行人が好奇の目を向けてくるが、いつものことなので気にしない。
黒い髪と茶色の目、さらに東洋系の顔はピエトロ王国内ではかなり目立つ。晴香はもともとピエトロの父と、東の小国・陽国の母を持っていて、容姿は完全に母譲りだ。
そしてなぜか母方の姓を名乗ることになっている。何か理由があるらしいのだが、もう昔から続けていることなので今更気にしてはいなかった。
意気揚々と歩いていた彼女は、通りの中に見覚えのある屋根を見つけてその足を速めた。そして、屋根が、正確には露店が近づいてきたところで叫んだ。
「おーい、今日も買わせて!」
別に叫ばなくても届く距離だったのだが。
声に反応した店主らしきふくよかな女性が、晴香の姿を見て目を輝かせる。
「ああ、ハルちゃんいらっしゃい。今日はコロッケ売ってるよ」
「ほんと!? おっしゃ、夕飯決定!」
ようやく店の前に来た晴香が、その場で拳をにぎった。
この小さな露店は、目の前のふくよかな女性が自分の家のすぐ横で経営する肉料理屋である。そのメニューは日ごとに代わり、バリエーションが豊富で、何より安くて味もいい。そのため、一人暮らしとなる前から母と一緒によく利用していた店だ。
もっとも、つながりはそれだけではないのだが。
「そうだ。うちの息子がハルちゃんと話したいって言ってたよ」
「ライルが?」
店主はてきぱきとコロッケを紙袋に詰めながら、そう切り出す。彼女の口から出てきた名前に、晴香は目をまたたいた。
この店主の一人息子、ライルは、晴香のいわゆる幼馴染のようなものである。という認識を彼女はしている。小さい頃は泣き虫で頼りない男の子だったが、ある程度成長した今はどうやら情報収集を趣味にしているらしい。こうして晴香が店に訪れたときは、その情報を話のタネにしてくる。
「何かな?」
今回もその類だろうと当たりをつけつつも、一応問いかけてみる。しかし、肝っ玉母ちゃんの答えは煮え切らないものだった。
「さあねえ。なんだかものすごく楽しそうにしてたけど――」
「おっ、晴香じゃないか。ちょうどよかった」
店主の言葉を途中でさえぎり、割り込んできた声があった。その声の方に目を走らせて、晴香は思わず「げっ」と声を漏らす。
噂をすれば影が差す、とはまさにこのこと。呆れたような店主と今にも逃げだしそうな晴香の視線の先には、茶髪をなびかせてにこにこ笑う少年、ライルの姿があった。
コロッケを買ったらすぐに帰るつもりが、いつの間にか彼らの家に寄ることになってしまった晴香は、居間にお茶を持ってきたライルと向かい合って座ると切り出した。
「で、今回はどんなお話?」
「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃん」
ライルはしかめっ面の少女を見て苦笑していた。だが、その少女は表情を崩さない。
「だって、あんたの集める情報って五割くらいは機密すれすれなんだもん。聞いてるこっちは怖くてしゃーないよ」
「ああ、そういうこと。……じゃあ、今回はますます晴香の渋面が深くなるかもしれないね」
晴香はふたたび、げ、と言うと、自分の前にあったティーカップを口に運んだ。今日の飲み物は紅茶らしい、というのがその独特の甘さで分かった。
そんなことをしているうちにライルの話は始まった。衝撃的な一言で。
「あくまで噂なんだけどねえ、『夜空の首飾り』が盗まれたらしいよ」
おっとりとした口調とは裏腹にとんでもない内容。晴香はその瞬間、紅茶を吹き出しかけた。そしてそれをこらえようとした結果、むせた。しばらく咳きこんだ後、ようやく言葉を発する。
「そ、それって、国宝に、指定、されてなかったっけ?」
「うん。そうだよ。とりあえず落ち着け」
「無理だよ、落ち着くとか」
内容が内容であるため、声を潜めてはいるものの、晴香の心中は穏やかではなかった。
『夜空の首飾り』と言うお宝がどういうものなのか、詳しいことを晴香は知らない。しかし、『夜空』を模した色の宝石を加工して首飾りにしたものだということと、それが非常に歴史ある代物だということ、さらに現在は王城の宝物庫に保管されているということくらいは知っていた。
「それが盗まれるだなんて……なんで」
「さあね、さっきも言ったけどあくまで噂だし。だいたい盗まれたかどうかは定かじゃないし」
ライルはさらりと言ってのけ、自分のティーカップに手をつけた。こうして見ると、幼少期の姿からは想像できないほど優雅だ。だが、今そんなことはどうでもいい。
「盗まれたかどうか『は』定かじゃないって」
「おっ、鋭い」
身を乗り出さんばかりの勢いで晴香が詰め寄ると、ライルは不敵に笑ってカップをソーサーに置いた。それから居住まいを正して、今度ばかりは真剣な顔で言う。
「あのお宝が消失したことは確実らしいんだよ。王家、ひいては政府も黙秘を貫いているけど、間違いない」
この人の情報網はいったいどこまで広がっているんだろう、などと冷静に考える一方で、晴香は息をのんだ。
それって、ものすごくまずい事態じゃないんだろうか。国宝の消失だなんて、放っておける問題じゃあない。
彼女のそんな心の叫びを読み取ったのか、ライルはなおも淡々と続けた。
「もちろん、事実なら王家が何もせずにただ静観というわけにはいかない。きっと、犯人および実物捜索に躍起になっているだろうね、裏で」
「うわあ、やだなあ。そんなことが起きてるなんて、全然知らなかった」
苦い顔で晴香が呟くと、ライルは笑って「まあ、俺ら庶民には関係ないことでしょ」などとうそぶいた。
余談だが、ライルがなぜかこんな情報を平気で手に入れているのに、母である肉料理屋の店主は何も言わないし動揺する素振りもない。昔からそれが不思議でならなかったが、どうやら夫、ライルの父親がそのような機密情報に関わる仕事をしているかららしい、というのを一年ほど前に知った。
つまり目の前の彼は、完全に父の気質を受け継いでいるというわけだ。
それからしばらく世間話に花を咲かせたあと、今度は晴香の方から話を切り出した。それは、昼間に職場――『エール』で見かけた少年のこと。意外にも、ライルは大いに食いついた。
「緑色の髪に緑色の瞳……。王国の人じゃないね」
え、と晴香は目を見開く。ライルはすぐさまフォローを入れた。
「ああ、血統的に、って意味だよ。『北原家』みたいな事情でここに住んでいるのかもしれないし」
「別に、誰もかれもが、親が愛する人のいる地に移り住んだってわけじゃないでしょうが。母さんみたいな人達ばかりじゃないんだから」
晴香の切り返しにライルは「当たり前だよ」と笑った。
この話が終わると、晴香はすぐに帰り支度を整えた。ご丁寧に玄関まで見送ってくれたライルが「付き合ってくれてありがとう」と言ってきたので、いつものように気にするなと言って帰ろうとした晴香だが、直後呼びとめられた。
「――兄ちゃんに関することは、何か分かったの?」
晴香の足が、止まった。一度小さく震えた彼女は、しかし唇をかんで心を鎮めると、弱々しい笑顔で振り返る。
「何も。……でも、ライルも信じてくれるんだね。ありがと」
「そりゃあ、逆に『あっち』の方が信じたくないよ。いろいろ世話してもらった立場としては、さ」
うん、と返した晴香は今度こそ家に向かって歩きだした。
ライルの家と肉料理屋が見えなくなると、晴香はまだ青い空を仰いだ。春風が吹き抜ける街はいつも通りの活気に満ち、それでもどこか不穏な雰囲気をはらんでいるように思えた。
国宝が消失した、などという話を聞いたからだろうか。
まるで幼子が「イヤイヤ」をするように首を振った晴香は気合を入れ直して歩きだす。何があろうと、ここは自分が住んでいるピエトロ王国の首都クリスタだ。その事実に変わりはない。
やや強引に迷いを断ち切り勢いづいた晴香だったが、その直後に誰かとぶつかった。
「ぎゃっ!」
女の子らしからぬ声を上げて後方に少し飛びながらも、頭とコロッケは死守する。なんだ、と思いながら顔を上げた彼女は、生まれて初めて運命を感じた。
「す、すみません! 大丈夫です……か……」
向こうもそれに気付いたようで、慌てた声は尻すぼみに消えた。向かい合った二人は、どちらも目をみはる。
「君は、昼間の」
「店員さん?」
通りの中に立っていたのは、まぎれもない昼間の客――緑髪に緑眼の少年だった。