第五話 交わる道、去りゆく風――1
晴香の一言。
それだけで、場に再び静寂が訪れた。それを打ち破ったのもまた、晴香本人である。
「お兄ちゃん……だよね」
顔を向けてきた少年の方をしっかり見て、晴香は言った。相手も、彼女が彼女だと気付いたようで、じわじわと驚きをその顔に広げ、確かめるように声を出す。
「お、おまえ――晴香か。晴香なのか」
ああ、懐かしい声だ。
聞いた瞬間、晴香の胸の中に熱いものがこみあげてきた。抑えきれそうにもない感情の渦。それらは瞬く間に少女の全身を駆け巡る。
その間にも、二人の「同行人」の戸惑う声が耳に入ってくる。
「あ? どういうことだ、光貴。確かに妹がいるっていう話は聞いたが」
「確か、晴香さんのお兄さんって……」
光貴。その名を聞いたとき、心の堤防が決壊するのを感じた。気がついたときには、晴香は彼に、光貴に詰め寄っていた。
「どうして、どうして……いったい今まで、どこにいたの!?」
この旅の中で初めて発した怒声は、甲高く、大きかった。
光貴含め、まわりにいた人間はみな、飛び上がらんばかりに驚いていた。しかし晴香の目に、もうそれらは映っていない。
「私も母さんも、ずっと、ずっと心配してたんだよ! 図書館に行くって言ったきり帰ってこないし、なんの連絡も入れないし!」
「あ……えと、その」
光貴の茶色い瞳は、傍から見れば気の毒なほど揺れていた。それでも晴香は感情に任せて問い詰めていた。だから彼女は気付かない。彼女の言葉を聞いたラッセルが、焦ったような、咎めるような目を向けてきたことに。
「二年間も何してたの……っ」
「やめろ、嬢ちゃん!!」
ついに、別の声が割って入った。ラッセルだ。彼の大声はしばらく響くと、余韻を残して消えていった。
そこでようやく熱くなっていたことに気付いた晴香は、目を見開いて、それから押し黙る。そうして再び顔を上げ、驚いた。対面の光貴が、生気のない表情で震えていたのだ。多分、本人も知らないうちにそうなっていたのだろう。
慌てて駆け寄ったラッセルは、その背中をさすった。
「おい、おい。大丈夫か」
すると光貴にようやく生気が戻る。彼は一度震えると、うつむいた。
「あ、ああ。ごめん」
か細い声を受けたラッセルは、晴香の方をまっすぐに見てきた。そして、言った。
「勘弁してやってくれよ。こいつ、事件当日のこと、何も覚えていないらしいんだ」
晴香の思考が、停止しかける。
「はっ――?」
辛うじて出たのが裏返った声。
信じられない言葉を聞いた気がした。覚えてないってなんだ。それに「事件」って。いくつもの疑問が、十四歳の少女の脳では処理できないほどの疑問が、ぐるぐると回る。その様子を見かねたらしいノエルがそこで、幸いにも話を進めてくれた。
「どういうことですか、ラッセル」
ラッセルは肩をすくめる。
「俺にも分からん。光貴にも分からないだろうな。何しろ覚えてないんだから」
疲れたような笑みを浮かべた彼は、ようやく落ち着いたらしい光貴の肩をぽんぽんと叩く。何を思ったのか、光貴は少し顔をしかめた。
「ふむ……そういうことなら」
兄と弟のようにも見える二人を見ていたノエルが、ゆっくりとその視線を移動させてゆく。
「どこかで腰を落ち着けてから、ゆっくり情報交換といきましょうか。たぶん、この二人はお互いにひどく混乱していますから。僕にも言えますがね」
「うん、そうだな。それがいい」
ラッセルがもっともらしくうなずいてから、近くにある喫茶店を適当に指さす。時間帯が時間帯だからか、それなりに人は入っていた。喧騒で話し声をごまかすにはちょうどいい。
「あそこで話すとしよう。どうせおまえら、まだメシ食ってないんだろ?」
「……どうしてそんなことが言えるんです?」
「おまえの顔にでかでかと書いてあるからだよ、緑君」
「前から言ってますけど、そのあだ名やめてください」
「えー、やだ」
テンポよく会話を続ける同業者――いちおう――を晴香はただ、突っ立ったまま眺めていた。が、やがてゆっくりと兄の方に目をやった。
視線と視線が交差すると、彼は気まずそうに顔を背けた。
こんなやり取りがあった後に四人が入った喫茶店は、晴香が思っているよりは平凡だった。人が多いのは単にお昼時だからということらしい。
ここにはランチメニューもあるようなので、四人が座れる席を適当に探した後、晴香とノエルが注文をする。光貴とラッセルの二人は、すでに昼食を終えているようだった。
料理待ちのあいだに、といわんばかりにラッセルが口を開く。
「さて、と。さっきは色々あったせいでうやむやになっちまったから、自己紹介しとかないとな。俺はラッセル・ベイカー。宮廷魔導師だ。ここにいる事情は追々説明するよ」
自分に向けられた言葉を聞いた瞬間、晴香はうろたえた。それでもどうにか同じように自己紹介を返す。
「はっ、はい! 北原晴香、です。いろいろあってノエルさんと旅をしています。よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
無難と言えば無難な自己紹介を彼女が終えると、ラッセルは手を差し出してきた。晴香もその手をにぎりかえす。混沌としていた心の中が、わずかだが落ち着いた気がした。
握手を交わしてからは、簡単な情報交換に入る。とりあえずはノエルが、今回の一件について概略の説明をラッセルに行った。アルバートからの手紙で知っているとは言っていたものの、念のため――ということで。
「ふむふむ、そういうことか。陛下も嘘をつくのが下手なお方だよな。『神託の君』の力を試そうっていう魂胆が見え見えだ」
「まったくです。まさかこんなことになるとは」
ノエルが眉をひそめてラッセルに同調する。主君の意図をはかりかねたことを気にしていたようだ。
「お待たせしました」
そんな会話をしているうちに、料理が運ばれてくる。晴香が頼んだのはオムライス。ノエルが頼んだのはパンとミートローフとサラダのセットだ。いただきます、と言って晴香が食べ始めると、ラッセルに怪訝そうな顔をされる。そこで晴香は、そういえばピエトロにはこの習慣がないんだったと思い出した。そして、これを見ても不思議そうな顔をしない対面の彼は、まごうことなき自分の兄だと思いなおした。
正直なところ、未だ兄と再会を果たしたという実感が薄いのだ。あれから彼がずっと黙りこくっていて、晴香の方からも話しかけていなからかもしれない。そんなことをぐるぐると考えながら卵がふわふわしていてそれなりに美味しいオムライスをほおばっていると、ついに逃れられない話に入る。
口火を切ったのは、ミートローフをナイフで分割していたノエルだ。
「さて。それでは、今度はラッセルにうかがうとしましょうか。なぜ、そこの――晴香さんのお兄さんだという彼と、一緒にいるんです?」
ラッセルは、嫌な質問が来た、という内心を隠そうともせずちらりと光貴を見た。そして彼がその視線を投げ返すと、一度うなずいて重い口を開く。
「俺が、フィロスから検知された謎の魔力の調査に向かっていた、というのはおまえも知っているだろう? 俺は民間人の情報をもとに、魔力の根源があると思われる神殿に潜入したんだ」
「なるほど、そこまでは分かります」
晴香にも分かった。ラッセルがそのような仕事を請け負っていたことは知らなかったが、状況はなんとなく分かった。
「で、辿り着いたのが、おそらく関係者以外立ち入り禁止だったと思われる地下室だ。多分、昔は儀式なんかが行われていたんだと思う。それらしき道具が散乱していたからな。その部屋の奥にひとつの魔法円があった。おそらく、封印魔法を施すためのものだと思われる」
最後の一言を聞いた瞬間、背筋が寒くなる。魔法に疎い晴香でも、そこまで聞けば見当はついた。それ以上聞きたくなかった。しかし、ラッセルは容赦ない。
「俺は奇妙な魔力の根源がその円だと確信し、封印魔法を解除させてもらったんだ。強力なものだったが、解除はさほど難しくなかった。そうしたらな――封印されていたのは、こいつだったんだよ」
言って彼は、隣の、ただ黙って話を聞いている光貴の肩に手を置いた。晴香はビクリと震える。あっちこっちへ泳いでいたその視線は、見つめてくるノエルの顔を捉えた。
「確か……晴香さんは、お兄さんが行方不明になったのは二年前だと、仰っていましたよね?」
晴香が首を縦に振ると、ラッセルはため息をつく。
「確定、だな。質問したときにこいつが答えたのも、二年前の年号だった。クリスタの出身だと言っていたし、何より名前が二人とも星語だろ? ピエトロの住人で星語の名を持つ人間は、そう多くいるわけじゃない」
淡々と述べられる事実に晴香は今度こそ震える。まさか、二年半も自分と母を悩ませ続けた行方不明事件の真相がそんなことだとは思わなかった。その上光貴本人は、事件当時のことを何も覚えていないというのだ。だれがやったのか知らないが、たちが悪すぎる。
だが、晴香の動揺をよそに話は進行していく。
「しかし、妙ですね。今の話が確かだとすると、二年間その魔法円は神殿地下で発動しつづけていたことになります。だというのに、なぜ今さらそのことで騒がれなければならなかったんでしょう」
「うーん。実は俺も、そこが腑に落ちなくてな。本人に聞けば何か分かるかとも思ったんだが、この調子なんで。いや、今まではもっと調子良かったんだけどな?」
ラッセルが赤毛をかきむしると、ノエルははたと黙り込んだ。それから、お互いに気まずい雰囲気を漂わせる兄妹を交互に見つめる。そうかと思えば唐突に席を立つ。
「すみません。お手洗いに行ってきます」
それだけ告げると、彼はさっさとどこかへ逃げていった。驚くべきことに食事をすでに終えていた。そんなノエルの姿を見送ったラッセルも、最初訝しげにしていたが、少ししてから立ち上がる。
「ごめんけど、俺も外に出てくるわ」
「あ。はい」
彼までそんなことを言って立ち去ってしまう。
呆然と見届けた晴香はそれから前方に視線を戻し、そして気付いた。スプーンを持つ手に力が入る。
あいつらっ! と罵りたくなったが、代わりに別の言葉を吐こうとする。
「仲のよろしいことで」
しかし先手を打たれた。驚いて見てみると、対面でため息をついた光貴が、目を細めて店の出入り口を睨み据えているところだった。
「奇遇ですね」
店の外に出たラッセルは、いきなり横合いから声をかけられた。目を丸くしてから、苦笑する。
「よく言うぜ。もともと、こうして誘いだすつもりだったくせによ」
すると、建物の壁に寄りかかって立っているノエルは口元をつり上げた。こいつの笑顔を見たのは久し振りかもしれないな、と思いながら、ラッセルもその横に並ぶ。それからそっと、空を仰ぎ見た。ずいぶんと青い空だった。
「あーあ。あいつら、怒ってるかもしんねえな」
「最初から、怒られようがなんだろうがこうするつもりだったんじゃないですか」
いきなりノエルはにべもなく言う。ラッセルは口をへの字に曲げて彼を睨んだが、やがてはその視線を虚空に戻して息を吐き出した。どこかむなしい音が喧騒に消えていく。
「まあな。おかしい、とは思ったから」
「……何がです?」
「喋らなく、なったんだよ」
質問には答えた。しかしノエルは未だ納得がいかなさそうに首をひねっていたので、仕方なくラッセルはすべてを暴露した。
「あいつ、光貴が。俺と二人だったときは楽しそうにいろいろ喋ってたんだ。妹とか、ダチの話とか、特にな。それがどうだ、おまえらと合流してからはだんまりだろ。まあ、パニックになってるだけだろうけど」
複雑だよ。彼がそう言うと、ノエルはようやく得心したようにうなずく。
「もともと無口な方なのかと思いましたが、そうじゃないんですね」
「いや全然。というか、おまえも思ったんだろう。あの、晴香の様子がおかしいってさ」
ラッセルはふと、自分ばかりが喋っていることに気付き、ノエルにそう話を振ってみた。すると緑髪の少年はしばらく考え込み、それから言葉を紡ぐ。
「まあ、それもないとは言い切れません。気まずい雰囲気を感じ取ったのは確かでしたし。でもそれ以上に、嫌だと思ったんですよ」
「嫌……って、何が」
問い返すとノエルは、緑の瞳をラッセルの方に向けてはっきりと言った。
「せっかく二年ぶりに再会した家族がいつまでもぎすぎすしているということが」
「ああ……なるほどね」
家族がもういないから、余計にそう感じるんだろう。
咄嗟にこう考えたが、ラッセルは特にそれらしいことも言わなかった。ここでそれを口にするのは不謹慎だろう。その代わり近くの窓から店の中を見やり、こう言った。
「ま。これからどうなるかは、あの二人次第さ。赤の他人である俺たちは、見守ることしかできない」
てっきり何も言ってこないかと思ったが、意外にもノエルは小さく、そうですね、と言い返した。




