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毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~

家電量販店の鼻毛カッター売り場で立ち尽くす男の件

作者: kawauso2017
掲載日:2026/10/02

家電量販店の鼻毛カッター売り場で立ち尽くす男の件


 迫田は、くしゃみをした。


 一回。


 二回。


 三回。


「……またか」


 鼻の奥がむずがゆい。


 何かが入った。


 埃か。


 花粉か。


 それとも。


 迫田は考えるのをやめた。


 世の中には、知らないほうがいいこともある。


     ◇


 迫田の鼻には、鼻毛が極めて少ない。


 生まれつきである。


 本人の感覚としては、ほぼ無い。


 鼻毛とは何か。


 迫田は以前、それを調べたことがある。


 鼻腔の入り口に生える毛。


 空気中の埃や異物を絡め取り、体内への侵入を防ぐ。


 いわば、鼻の門番。


 その説明を読んだとき、迫田は静かに理解した。


 ――俺の門は、開けっぱなしだ。


 以来、迫田は空気というものを信用していない。


     ◇


 その日、迫田は駅前の家電量販店にいた。


 空気清浄機の交換フィルターを買いに来たのだ。


 自宅の空気清浄機は、二十四時間休まず稼働している。


 室内の微粒子を一つ一つ数え上げ、毎朝、端末へ報告まで送ってくる優秀な機械だった。


『昨日の除去粒子数:通常の一・八倍』


 迫田の鼻の代わりに、働いてくれているのである。


 だが、一歩外へ出れば無力だ。


 空気清浄機は、背負って歩けない。


「……三階か」


 案内板を確認し、エスカレーターを上がる。


 季節家電の売り場は、フロアの奥。


 その手前に、理美容家電のコーナーがあった。


 迫田は普段、そこを素通りする。


 自分には関係のない場所だからだ。


 だが。


 その日は、足が止まった。


 通路の真ん中に、大きな看板が立っていたのだ。


『鼻毛ケア特集』


「……」


 嫌な予感がした。


 見なければよかった。


 しかし迫田は、看板の向こうへ視線を向けてしまった。


     ◇


 壁一面。


 鼻毛カッターだった。


 回転刃式。


 往復刃式。


 水洗い対応。


 LEDライト付き。


 ペン型。


 スティック型。


 旅行用ミニサイズ。


 家族で使えるファミリーパック。


 さらに最上段には、ひときわ大きな箱が鎮座していた。


『AI鼻腔スキャン搭載 最新モデル』


『あなたの鼻腔を三秒で解析。気になる一本を逃しません』


「……こんなに」


 迫田は呟いた。


「こんなに……あるのか」


 数えた。


 二十種類を超えたところでやめた。


 メーカー違い。


 色違い。


 型落ち。


 最新型。


 棚の上段から下段まで。


 左端から右端まで。


 すべてが。


 鼻毛を切るための道具だった。


 迫田は、一歩下がって棚全体を眺めた。


 パッケージの一つ一つに、爽やかな笑顔の男女が印刷されている。


 誰もが清々しい顔で、自分の鼻を指差している。


 そして、商品ごとに添えられた宣伝文句。


『気になるあの一本、根こそぎ』


「……根こそぎ」


『鼻毛ゼロで、第一印象アップ!』


「……ゼロ」


 迫田は、ほぼゼロである。


 第一印象が良くなった覚えはない。


『もう、鼻毛に悩まない』


「悩んでるよ……」


 思わず声が漏れた。


「こっちは、悩んでるよ……」


 棚の脇では、小さなモニターが販促映像を流していた。


 若い男性が鼻毛カッターを鼻に当てる。


 ウィィィン、という軽快な音。


『スッキリ!』


 男性は満面の笑みでカメラへ親指を立てた。


 その足元へ。


 はらはらと。


 何かが落ちていく。


 迫田は目を逸らした。


 見ていられなかった。


     ◇


 そのとき。


 一人の男性客が、迫田の隣へやってきた。


 四十代くらいだろうか。


 片手に買い物かごを提げている。


 男性は棚を一瞥すると、手近な鼻毛カッターを一つ取った。


 裏返しもしない。


 説明も読まない。


「これでいいか」


 かごへ入れる。


 去っていく。


 十秒もかからなかった。


「……」


 迫田は、その背中を見送った。


 これでいいか。


 これでいいか、で。


 あの男は。


 人類が長い進化の果てに獲得した天然の超防御機構を。


 十秒で、切り捨てる道具を選んだのだ。


「……世の中は」


 迫田の手が、わずかに震えた。


「世の中は、そこまで鼻毛を消したいのか」


     ◇


 迫田は、棚の前に立ち尽くしたまま考えた。


 欲しくても、手に入らない者がいる。


 一方で。


 持っている者は、それを金を払ってまで捨てている。


 しかも、誰も疑問に思っていない。


 鼻毛は切るもの。


 鼻毛は恥ずかしいもの。


 鼻毛は、邪魔なもの。


 それが当たり前になっている。


 これはもう、個人の好みの問題ではない。


 文化だ。


 鼻毛を切る文化だ。


 そして文化とは、誰かが声を上げなければ変わらないものなのだ。


「……何か」


 迫田は拳を握った。


「何か、しなければ」


 だが、何をする。


 迫田は考えた。


 盗むか。


 ――論外だ。


 犯罪である。


 それに、盗んだところで店は補充するだけだ。


 そもそも迫田は、鼻毛カッターを所有したくない。


 壊すか。


 ――それも違う。


 鼻毛カッターに罪はない。


 製品は、作られた通りに機能しているだけだ。


 罪があるとすれば、それを当然とする文化のほうである。


 隠すか。


 ――店員さんが困る。


 店員さんは何も悪くない。


 買い占めるか。


 ――金がない。


 それに、売上に貢献してしまう。


 迫田は、さらに考えた。


 抗議とは何か。


 意思を示すことだ。


 誰も傷つけず。


 何も奪わず。


 ただ、意思を。


 迫田は、棚の鼻毛カッターを一つ手に取った。


 パッケージの表。


 清々しい笑顔の男性。


 すっきりとした鼻。


『気になるあの一本、根こそぎ』


 迫田は、それをじっと見つめた。


 そして。


 ゆっくりと。


 裏返した。


 裏面には、仕様表と注意書きとバーコードが並んでいた。


 笑顔は、なかった。


「……これでいい」


 迫田は、その鼻毛カッターを。


 裏返したまま。


 元の場所へ、そっと戻した。


     ◇


 棚の中で、一つだけ。


 白い裏面が、こちらを向いていた。


「これは抗議だ」


 迫田は小さく言った。


「鼻毛を切る文化への」


 心臓が早鐘を打っていた。


 指先が冷たい。


 膝が少し笑っている。


 生まれて初めての、抗議だった。


 迫田は棚を見上げた。


 二十種類を超える鼻毛カッター。


 数え切れない笑顔。


 その中に。


 白い裏面が、一つ。


 ……一つ。


 迫田は、しばらくそれを見つめていた。


 それから。


 黙って、隣の商品へ手を伸ばした。


     ◇


 その日。


 迫田は閉店間際まで、鼻毛カッター売り場から動かなかった。


 空気清浄機の交換フィルターは。


 買い忘れた。


残酷描写:鼻毛が無残に切り取られます。


前日譚第1話

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