チェスでワルツを、次の婚約者は騎兵の方で
一国を揺るがす婚約破棄の醜聞の発端は、ある一夜の出来事から始まった。
それはヴァルツ帝国内のバルリング伯爵とエルザ・イェーリスの婚約が、とある事情でバルリング伯爵から破棄された、というものだが——。
夜会の喧騒を離れたバルコニーで、私はバルリング伯爵と外を眺めていました。古風で簡素な白のドレスは若い私には少し似合わないかも知れません。まだ青年と言って差し支えないバルリング伯爵もそう思っているかもしれない、と思うとちょっと気になります。
今日こそ、ひょっとしてそろそろ結婚しよう、と言われるのかな。そんな乙女心がふわついて地に足が付かない有り様でしたが、何とか平静を装います。
そこへ、バルリング伯爵は咳払いをしてこう言いました。
「エルザ、君は軍略家のお父上の名にふさわしい素晴らしい才能を持っている。その才能を私ごときのもとで腐らせるには惜しい」
は?
開いた口が塞がらない、とはこのことです。
バルリング伯爵はさらに続けます。
「君とはチェスをして五十三戦五十三敗だ。読んできた戦術書は数知れず、何カ国語も操るほどの頭脳。だから僕にはもったいないと常々思っていた。だから、君には僕よりふさわしい人間がいる。そちらと結婚しないか」
はい?
私は固まりました。何を言っているのだ、この人は。
そして私の頭脳と女の勘は、状況を完璧に、正確に推測しました。
バルリング伯爵、浮気している。
その気配、この状況で婚約破棄、別の人間と付き合うことを勧める。どれを取っても、おかしい。
しかし、おかしいことをおかしいと指摘しても、この状況は何ら変わりそうにありません。みっともないことをすべきではない、ここは流れに逆らわずにおくべきだ、と私の頭はすべき行動を弾き出します。
「そうなのですか……そのお方の名前は、お教えいただけませんこと?」
私は冷静に、バルリング伯爵から情報を引き出そう、そう思いました。聞くだけ聞いて、二度と会わずに済むように、と。
そんなことはつゆ知らず、バルリング伯爵は上機嫌です。
「ああ、それなんだが、シュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスという男がいる。将来有望な軍人で、きっと君のお父上のお眼鏡にも適うだろう! 僕から手紙を出しておくから」
「いいえ、そのお手間をかけさせるわけにはまいりませんわ。あなたは婚約の解消に手をつけてください。私は、父に言ってそのお方とお会いしてみます」
「そうか、分かってくれたようで何よりだ。それでは」
バルリング伯爵はバルコニーから立ち去っていきます。
その背に、私は小さくため息を投げかけました。
即座に私は夜会から家に戻り、情報収集を始めました。
とは言っても、バルリング伯爵家で仲が良くなっていたメイドや門番とやりとりをして、最近バルリング伯爵家に貴族の令嬢が訪れていなかったか、と尋ねるだけです。私は町娘に変装して直接出向き、路地裏で会話します。
「エルザ様、ここだけの話ですよ? 伯爵のもとに、フォルトナー侯爵家ご令嬢やヴァイラント伯爵家ご令嬢がいらっしゃっているんです。それも、どちらも複数回。あれは浮気ですよ、エルザ様というものがありながら、何て馬鹿なことを」
「はあ……そうなのね……」
「長く門番をやってきましたがね、今のバルリング伯爵は……平民を毛嫌いしているんですよ。外ではおくびにも出しませんが、エルザ様と婚約となって治るかと思いきや、まだそんな嫌がっていたとは」
「そう、やっぱり嫌だったのね。はあ、それならしょうがないわ。お父様に言って、婚約を解消するわ。あなたたちには世話になったわね、これ、少ないけど餞別として受け取ってちょうだい」
私はメイドと門番へ高額紙幣を包んだ紙を渡し、バレないうちに戻るよう言いつけました。申し訳なさそうに、二人は帰っていきます。
つまり、私との婚約を破棄しようとしているバルリング伯爵の本音はこうです。
「どうして一兵卒上がりの兵法家の娘と結婚なんか! 僕はフォルトナー侯爵からもヴァイラント伯爵からも娘と結婚しないかと誘われているんだ! 平民の娘となんか結婚できるか!」
貴族たるバルリング伯爵は、皇帝のお気に入りの軍人であるイェーリスの娘エルザと結婚させられることが嫌だった、と。
そして昨日の話では——バルリング伯爵が私の押し付け先に目をつけたのが、同じ貴族で軍人であるシュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスです。
私はそのフェリクスについて何も知りません。何も知らないままではどうしようもない、情報がなくては戦はできないのです。
私は家へととんぼ返りして、父の書斎にある名簿を漁りました。
そもそもバルリング伯爵と私の婚約は、とある切迫した事情から生まれたものでもあるのですが——バルリング伯爵はそのことをどう思っていたのでしょう。そんなことよりも平民と結婚することが嫌だ、と思うほどだったのだとすれば、あまりにも幼稚すぎます。
今更、自分を振った男のことを思い返す必要はない。私は粛々と名簿を開き、ついにシュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスを見つけました。
セピア色の顔写真を見るに、なかなか精悍な顔立ちで、少年っぽさが抜けきらないところもあります。成績や軍歴は十分に出世コースに乗っているし、現在の階級は中尉。二十歳という年齢を思えば、少し早いくらいです。それは貴族の子息だから、ということも勘案されているかも知れませんが、本人の実力だって必要です。軍はそれほど甘いところではないのです。
となれば、フェリクスは有能な軍人と言えるでしょう。なるほど、私の父ドミニク・イェーリスは御年五十四歳で中将という地位にあります。その娘との結婚なら、貴族で将来有望な軍人だと十分すぎるでしょう。
バルリング伯爵、うまいことスケープゴートを見つけたものだ。そこは私も感心しました。
◆◇◆◇◆◇◆
夕食どき、私は帰ってきた父に相談をしました。
「お父様、すでにお聞き及びと思いますけれど、私、バルリング伯爵との婚約の解消を願い出られて」
それを聞いても、お髭を揺らしても父は動じません。
「ああ、聞いた。別にかまわぬよ、それで損をするのはあの男だ」
ですよね。私は率直にそう思いました。そのことを本当に気付いていれば婚約の破棄などするはずがないのですが、どうにもバルリング伯爵は呑気に構えていて、とある事情などもはや忘れてしまっているようです。
もう、そうなってはこちらもどうにも言えません。うちには特に損になることはないので、黙ってお別れしたほうが後腐れなくて済みます。
「まったく、せっかくの皇帝陛下のお慈悲を、下らぬ偏見と腹積りで台無しにするなど……貴族連中は無能にすぎる。まあいい、終わったことだ。そちらはつつがなく終わらせておく」
「それでですね」
「それでだ」
「「シュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスとの面会を」」
思わず私は父とハモってしまいました。どうやら、父もフェリクスを私の次の婚約者にと考えていたようです。
「こほん。私は、そのお方とお会いしてみたいと思っているのですけれど、いかがかしら?」
「うむ、いいんじゃないか。次の日曜日にでも呼び出しておく」
「お父様、いきなり婚約、ではなくて、結婚を前提としたお付き合い、ですから」
「分かっているとも。強制はせんよ、あちらにも都合があるかもしれんからな」
どうだか、と私は訝しみます。
さすがに上官の命令で結婚させられました、だなどと言われれば恥ずかしいわ申し訳ないわ、となってしまいますから、それだけは避けなければ。
「しかし、シュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクス、耳にしたことがあるぞ。あれはいつだったかな、訓練で騎兵隊を率いていたところを見たんだったか。堂に入ったもので、これは実家の威光で地位を得た人間ではないな、と思ったな」
「そうなのですか。それは楽しみです。今度こそ、まともなお方と出会えるなら」
「お前は少々高望みするきらいがあるからな。あまり期待しすぎないようにしておきなさい」
「お父様ったら、もう」
父の言うことはもっともです。つい先日、馬鹿なバルリング伯爵に嫌な目に遭わされたばかりなのですから、ちょっとは警戒しなければ。バルリング伯爵とだって、最初だけは上手くいっていたのですから——。
私は食後の楽しみとして、父とチェスをして過ごしました。
週の半ば、あっさりとフェリクスからのお返事が届きました。
私は部屋で急いで手紙の封を切り、中を確認します。
そこには、こう書かれていました。
「……日曜日にお伺いいたします。チェスのご用意を、って……あれ? お見合い、ではないの?」
私は首を傾げます。フェリクス、私がチェスが得意なことを知っているようです。もしかしてバルリング伯爵が余計なことを言っているのでしょうか。だとすれば大問題です。
「うぅん、どうしよう。チェスと言われたって、私、手加減は苦手だし……」
そうなのです、私、バルリング伯爵相手にも一切手加減をせず、五十三戦五十三勝を挙げています。凹ませに凹ませた自覚はあります。しかし、父からは手加減をするなと教えられてきたため、逆に手加減ができないのです。
私は悩みました。どうやって手加減しよう、と。
◆◇◆◇◆◇◆
晴れた日曜日、私は父の書斎にいました。
目の前には金髪の青年、あのシュヴァルツェンブルク侯爵の子息フェリクスがいます。初対面、お見合いです。礼儀正しいフェリクスは、軍服のままやってきて、すかさず軍帽を脱いで私へ挨拶をしました。
「お初にお目にかかります、フェリクス・フォン・シュヴァルツェンブルクです。あなたのお噂はかねがね、いつかお会いしたいと思っていました」
「そう、なのですか? 私に?」
「はい。それでは」
フェリクスは、要求通り用意されていた——テーブルの上のチェス盤へ近づきます。そしてソファに座り、私へも早く座るよう勧めてきました。
ん? これはひょっとして?
私の予感は、当たるのです。残念ながら。
フェリクスは黒の駒の側に座っています。並べられたチェスの駒は一糸乱れず、まるで私へ挑んでくる気迫をフェリクスから受け継いだようです。
「さあ、さっそく一局、お相手願います。イェーリス将軍の娘であるあなたのチェスの強さは、軍にも知れ渡っていますから!」
何だか、そうなるだろうな、とちょっとは思っていました。
フェリクス、完全にチェスをするために来ている。
お見合いという名目はどこへやら、私は仕方なくソファに座り、白の駒を手にしました。
一時間後。
すでに私の白のクイーンが、ナイトが、ルークがフェリクスの黒のキングを取り囲んでいます。フェリクスの黒の駒たちはことごとく私の手の内に、誰もキングを助けられません。
「チェックメイト」
私はそう言いました。無慈悲な宣告のようですが、致し方ありません。どうすることもできない盤上を、フェリクスは目を皿のようにして起死回生の一手を探していましたが、無理です。
「ま、まいりました」
絞り出すような声に、私はやりすぎたかな、とちょっとだけ後悔しました。
もうこれで三局目です。三戦三勝、私はあっさりと、フェリクスを赤子の手をひねるかのように打ち負かしました。そういえばバルリング伯爵とは最短で十分かかりませんでした。
はー、と感嘆の声を漏らし、フェリクスはきらきらした少年のような顔を私へ向けます。
「さすがです、エルザ嬢。私はこれでも所属する騎兵隊の中では勝っているほうだったのですが、あなたのほうが数段上です。いや、これは素晴らしい。あっという間に、流れるように駒が攻めてきて、守る暇もなく負けてしまった!」
負けたというのに、フェリクスは興奮を隠しきれていないほど喜んでいます。
何だか、それは私も経験したことがあります。幼い頃、父とのチェスで私は何度も負けて、でもなぜ負けるのかを考え始めてからというもの、試行錯誤が楽しくなってきたのです。こうすれば勝てる、こうすれば追い込める、そんなことをずっと考えて、実際にチェスで再現してみて——楽しかったことを、フェリクスを見ていると思い出します。
「フェリクス様は」
「様だなんてとんでもない! フェリクスでかまいません、私はあなたを尊敬していますから!」
「いえ、一応その……私は平民です。貴族のあなたに敬称をつけないわけにはいきません」
すると、フェリクスは、何だそんなこと、とばかりに一笑しました。
「誰が言い出したのかは知りませんが、才能の前に身分を気にするなど、負け惜しみにすぎません。あなたはあなたで、チェスの名手であり、イェーリス将軍の娘で、美しい方だ。それ以上、何を気にすることがあるというのです」
それは褒めすぎだ。私は口を挟もうとしましたが、フェリクスは駒を並べ始めました。
「さあ、もう一局、お願いします! 手加減は無用です、完膚なきまでにどうぞ!」
結局、この日は日が暮れるまでフェリクスとチェスを打っていました。
一度もフェリクスは私に勝てなかったのですけどね。
◆◇◆◇◆◇◆
フェリクスは、休暇のたびに私のもとへやってきて、チェスを所望しました。
「あなたに勝てるよう、戦術を練ってきたのです。早くやりましょう!」
いつもそう言って、こてんぱんに負けるのですが、それでもフェリクスは満足げです。
「今回は惜しかったな……一度包囲を破られれば、あなたの駒が雪崩れ込んでくる。かといって速攻しても、あなたの守備は固すぎて駒を取られすぎてしまう」
「フェリクスは素直すぎるのですわ。敵に意図を探らせないための戦術なのですから、いくつも組み合わせて、方針をちゃんと決めないと」
「いやあ、勉強になります。もうあなたとチェスを打ち始めてから、騎兵隊の誰よりも上手くなりました。上官ともチェスをして、負けなしになるほどに」
「それはよかったわ。でも、私には一度も勝てていませんけれど」
「ははは、これは手厳しい。ですが、いずれは勝ちますよ」
「ええ、ぜひ挑んできてくださいませ」
談笑は、とても男女の語るような内容ではないし、おそらくフェリクスは——私のことを恋人ではなく、チェスの相手としか見ていないでしょう。
私は、言い出せませんでした。あまりにも、フェリクスが楽しげにチェスを打ちに来るものですから、邪魔をしたくなかったのです。騎兵隊の仕事は過酷で、合間を縫って彼らはチェスを楽しんでいます。酒やタバコなど、馬に悪影響のある他の娯楽は許されていないからです。だから、チェスが上手くなることはとても嬉しいのでしょう。
でも、私はこれはこれで楽しいと思わずにはいられません。
好きなことをして、でしゃばりと言われない。才能の赴くままに能力を発揮しても、相手は腐らずもっと戦おうと言ってくれる。
それは、私にとってはとても得難い、貴重な相手なのです。
「エルザ嬢、そういえばなのですが」
「はい?」
「最近、バルリング伯爵という人物が騎兵隊の宿舎まで来て、私に妙なことを言ってくるのです」
今更、その名前を聞くとは思ってもみなかったので、私は言葉に詰まりました。
なぜバルリング伯爵がフェリクスに接触しようとしているのでしょう。フェリクスは私のことに気付かず、話を続けます。
「何でも、あなたのことを鼻持ちならない女だとか、父親の威光を利用して男を選んでいるだとか、散々なことを言ってきたので」
「……それを」
「ですので、殴っておきました」
は?
私は目を白黒させました。一瞬、フェリクスが何を言ったか、分からなかったからです。
「女性を悪く言うなど、貴族の風上にも置けません。それに事実とは思えませんでしたし、あなたを貶める意図が見え透いていました。なので、殴ってお引き取りを願ったのです。場所が騎兵隊の宿舎ですからね、部下たちが率先して外へ放り出してくれましたよ」
はっはっは、とフェリクスは笑う。
思わず、私も釣られて、笑ってしまいました。
ざまあみろです、バルリング伯爵。
さて、突然ですが、ヴァルツ帝国は東方にオクトーレ公国連合という敵国を抱えています。
ここ数年、けっこうな睨み合いが続いていて、いつ戦争の発端となる小競り合いが起きても不思議ではありません。しかし、私の父ドミニク・イェーリスは名の知れた軍略家であり、皇帝の信を得てその緊張状態を上手く操作していました。
つまりは、私の父の胸先三寸でヴァルツ帝国もオクトーレ公国連合もどうとでもできる、ということがよく知られている事実なのですが——もちろん、軍事に疎い方々には、それは理解できることではありません。軍人でも、将校くらいしか分からないでしょう。
そしてその話を私にするくらい、フェリクスは私を女性と思っていない節があります。
「帝国東方地域は現在、表面上は穏やかなものですが、その実いつ開戦してもおかしくはない状態なのです。その付近を領土とする貴族たちはそれがよく分かっていない。分かっている貴族はいても、他の貴族にまで危機感を共有させられないのです」
フェリクスは相変わらず黒の駒を動かしながら、私へ語ります。
「先日のバルリング伯爵。あの方も危機感を持っていない貴族の一人です。オクトーレ公国連合の公の一人とバルリング伯爵の姉が姻戚関係を結んでいるから、自分の領土は守られる、と勘違いされているのでしょう。馬鹿な話です。オクトーレ公国連合からしてみれば、バルリング伯爵など路傍の石程度の存在です。馬の侵入を防ぐ柵にもならない。手の内が知れているのですから、オクトーレ公国連合もあっさりと踏み潰すでしょうね」
フェリクスはポーンを慎重に一マス動かします。最初の頃はただ突撃するかのように二マス動かしてばかりだったので、少しはマシになってきています。
「はあ、あのお方も、もっと賢い方だとよかったのですけれど」
「そう思う気持ちはよく分かります。あなたとの婚約だって、皇帝陛下がバルリング伯爵の領土を守るための策の一環だったというのに」
「ええ。東方に父の——イェーリス将軍の娘がいるとなれば、そうそうに手出しはできません。何が起こるかなど、火を見るよりも明らか。父の怒りを買えば、たとえオクトーレ公国連合が望まずとも、徹底的に全面戦争をせざるを得なくなる」
「あなたが抑止力として赴くはずだったのに、それをあのバルリング伯爵は……何とも、愚かだ」
私の白のクイーンの前に、黒のナイトが飛び出してきました。その後方には、もう一つの黒のナイトがいます。
私はキャスリングののち、一気に攻め入ります。すでにビショップもルークも取られているフェリクスは、慌てて戦線を引き下げようとしますが、時すでに遅し。
「……まただ。うーん、あなたの機を見る目は、もはや才能と言っていいでしょうね」
「まだまだですわ。父とは互角ですもの」
「軍でも一、二を争うチェスの名手と互角ですか。これはもう、相手をしていただいて光栄と言うほかありませんね!」
フェリクスは嬉しそうに、顔を綻ばせます。
何だか、言ってしまっていいものか、と私はここ数日悩んでいることが喉まで出かかっていて、迷います。
と、その前に。
「チェックメイト」
「……まいりました」
ちゃんと、盤面を終わらせておきました。
そして、私はやっと、悩みを口にします。
「フェリクス、私は……ひょっとすると、最初、あなたとお見合いをする予定、だったと思うのですけれど」
それを聞いたフェリクスは「えっ」という、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしました。
あれ、何だかおかしいぞ。
私はさらに問います。
「だって、私はバルリング伯爵に婚約を破棄されて、それでシュヴァルツェンブルク侯爵のご子息であるあなたと見合いをする方向で話を進めていた、はずなのですけれど」
「……えっと、そうでしたっけ……あれ?」
どうやら、フェリクスは本気で見合いの話を忘れているようです。チェスが楽しすぎたせいでしょうか。ちょっと私も見合いをそっちのけにしてやりすぎました、初対面からもう一ヶ月は経っています。
「もしかして、私とは、見合いはお嫌でしょうか?」
「いえいえいえ! そんなことは決して! ただ、その、私でいいのですか? 私はまだただの騎兵隊隊長で、大して出世もしていません。多少は、そのうち昇進するつもりはありますが、戦争も近く軍人と付き合いをしたがる女性というのは、はっきり言って」
「別に私は気にしませんわ。だって、父が父ですから」
「……そうですね。忘れていました、ご無礼を」
私は軍人の娘です。それも父は一兵卒から身を起こし、誰よりも軍略に優れた才能を開花させて、数々の戦場を勝利に導いてきた英雄のような存在です。その無事を祈り、家で待つことの意味を、私は十分に理解しています。
フェリクスは恥ずかしそうに頭を掻いていました。ちょっと忘れっぽいというか、抜けているところがあるようです。それもまた愛嬌だ、と私は思うことにしました。
フェリクスは盤面上のチェスの駒を並べ直しています。
「あなたと結婚を前提に付き合う、という方向で行くのか、それとも婚約するのか……それに関しては、決める時間をいただけませんか」
「かまいませんけれど、どのくらい待てばよろしいのでしょう?」
「そうですね、一週間、いや、二週間くらいでしょうか。今、情勢が少々怪しいもので、もしかすると私も戦地へ出立しなければならないかもしれません」
盤上のチェスの駒は、白黒の陣地に綺麗に並びました。フェリクスは話しながら、何かを誤魔化しながら、自分の手番だとばかりにポーンを動かします。
「その前に、必ず決めます。もう一度ここへ来て、きちんとあなたへ答えを聞かせます。それまで、待っていてください」
私は、くすりと笑いました。
「いいですよ。じゃあそれまで、チェスの対局はお預けですね」
それを聞くなり、フェリクスは複雑そうな顔をしていました。
二週間後。それまで、私はチェスの勉強をしていましょう。
◆◇◆◇◆◇◆
ところ変わって、夜のバルリング伯爵邸。
バルリング伯爵は、応接間で一人の髭を生やした軍人と相対していた。その名はドミニク・イェーリス将軍、エルザの父だ。
バルリング伯爵は、情けない顔をして懇願していた。
「イェーリス将軍、どうか、我が領地だけは戦火に遭わないよう、戦場を選んでもらえれば」
イェーリス将軍は首を横に振る。
「それは無理な相談だ。バルリング伯爵、なぜ私が娘をあなたに嫁がせようと思ったか、その意図は分かっているかね。オクトーレ公国連合が攻め込むならば、何の障害もなく平地が続くバルリング伯爵領を選ぶと踏んでいたからだ。それに、あなたはオクトーレ公国連合の公の一人に姉上が嫁いでいる。バルリング伯爵領の情報は筒抜けも同然、散々私が忠告したにもかかわらずろくに兵も置かず、防備にも金をかけなかった。襲ってくれとばかりに、呑気なことをしていた。オクトーレ公国連合は、それを見逃すほど愚鈍ではない」
バルリング伯爵は慌てふためく。何もしてこなかった、それは確かなことだからだ。今更言い訳など通用しない、イェーリス将軍には。
「し、仕方ないではありませんか。まさかオクトーレ公国連合が攻め込んでくるなど夢にも思わず」
「すべての可能性を考え、最善の手を選び、勝利を掴む。言葉にすれば簡単だが、そのためにどれほどの努力を払い、虎視眈々と状況を見据え、情報を得るか。我々軍は多大な犠牲を払いつつも、国を守るために最善を希求している。そのことを、どうやらあなたは理解しておられなかったようだ。娘一人で抑止力を生み、このヴァルツ帝国を守れるなら、と私は親心を抑えて嫁がせようとしたにもかかわらず、あなたはその思いを無碍にした。これを、何というか知っているかね?」
もはや、バルリング伯爵に向けるイェーリス将軍の言葉には、感情はこもっていない。冷徹に、知らせるべきは知らせた、これ以上の言葉は必要ない、とイェーリス将軍は立ち上がり、言葉を浴びせる。
「恩知らず、と言うのだ。今すぐに領地に戻り、領民を避難させたまえ。あなたにできることは、もうそのくらいしかないのだから」
カツン、カツンと軍靴を響かせて、イェーリス将軍は振り返ることもなくバルリング伯爵邸をあとにした。
結局、バルリング伯爵は領地に使いこそ出したが——自分は、領地へは戻らなかった。戦地へ赴く度胸も、領民を思う心も、何もない男が貴族としての誇りと責任を放り出したのだ、と後ろ指を差されるようになるのは、そう遠い未来の話ではない。
◆◇◆◇◆◇◆
二週間と経たずに、フェリクスはやってきました。
「お返事の前に、一局、お願いできませんか」
「かまいませんわ。どうぞ」
私はいつもどおり、父の書斎にフェリクスを通しました。すでに盤上には駒が並んでいます。白と黒、整然と並ぶ駒に、フェリクスはソファに腰を下ろすなり、手をつけました。
「散々、悩んだのです」
「悩んだのですか。それはお付き合いで済ませるか、婚約をするか、それとも断るか?」
「最後の選択肢はあり得ません。私は、どうすればあなたが傷つかないかを考えていました」
フェリクスは黒のポーンを動かします。私もそれに応じ、二回ほど白のポーンをぶつけます。
「私は軍人です。自ら志願して、騎兵隊に入り、いくつか戦場にも出ました。いつ死んでもおかしくない状況というものも、経験したことがあります」
黒のナイトが動きます。序盤でナイトを動かすのは、フェリクスの癖です。私は白のビショップを牽制に出し、道を開けて行動を制限します。
「ですが、死にに行く、とは思ったことがありません。戦いに行くのだと、そう思ってきました。だから、迷ったのです。もし今回、私が死んでしまえば、あなたはどうなるのだろう、と」
案の定、白のビショップを警戒してフェリクスは黒のナイトたちの進軍を止めます。その隙に、私の白のポーンたちはどんどん進み、陣形を完成させました。
「どうすれば、あなたは傷つかないのでしょうか。婚約してもかまわないとお思いなら、それでもいい。しかし、帰ってきてから決めたいとお思いなら、今は結論を出さずに話を置いておく、ということも選択肢に入ります。それか、あくまで付き合い程度に留めて、もし何かあったとしてもあなたに悪影響が及ばないようにするか」
私の白のクイーンが、黒のキングを射程に収めました。あとは、じわじわ包囲するだけです。
この状況で、フェリクスは何ができるでしょうか。
「フェリクス、私はあなたを侮ったことはありません」
私は考え込むフェリクスの手を待ちます。
「全力をもって、あなたを叩き潰してきました。手加減などしません、だってあなたはそんなことを望む人ではありませんから」
フェリクスが無言で黒のルークを動かします。しかしそこは私の白のポーンが阻み、すぐに討ち取られました。
「あなたは何かをする前に、そこまで悩む人でしょうか。果敢に挑むことを止めない、努力を怠らない人だと私は思っています。そんな方が、何を悩まれる必要があるのでしょうか」
私の言葉は、白のクイーンの攻勢のごとく、強くフェリクスへ叩きつけられたようです。動きの止まったフェリクスは、一瞬私を見て、すぐに盤面へ目を落とします。
フェリクスは弱気になるかと思いきや——再度、守りに使っていた黒のナイトを動かしました。
「そうですね。あなたにそこまで評価されて、私は何を悩む必要があったのでしょうか」
フェリクスは笑っています。しょうがない自分を笑って、私に笑いかけて。
その屈託のない笑顔を、フェリクスは両手で叩いて引き締めました。
「ご無礼を、エルザ嬢。私は弱気になっていたようだ」
「お分かりいただけたならそれでいいのです。では、次の手を」
もう勝ち目はないと分かっているのに、それでもフェリクスは黒の駒を掴む手を止めません。ほんの数手で投了を迎えると分かっていても勝ち筋がないかをじっと考え、悪あがきだと分かっていてもその目は熱量を持っています。
ほんの数手は、すぐに終わります。そんなことは分かっていても、この対局には意味があった。私はそれを知っていますし、フェリクスもまた同じでしょう。
私の勝利に終わった盤面を見て、そしてソファの背もたれに思いっきり背を預けて。フェリクスは感嘆のため息を漏らしました。
「あなたはやはり、素晴らしい。もうこの国であなたに敵うチェスの指し手はいないのではありませんか?」
「それは父を倒してからの話ですわ。最近は忙しくてお相手できていませんけれど、いずれは。それに、時々あるお方と指していますから、私も退屈というわけではないのです」
「あるお方、とは? 私以外の誰かでしょうか。いや、何というか、妬けてしまうというか」
フェリクスは知りたがっているようです。
もったいぶる話でもなし。私は正直に伝えます。
「皇帝陛下です。時々、お忍びで我が家を訪れて、私とチェスをするのです」
フェリクスは目を剥いていました。
「……皇帝陛下のチェスのお相手を務めるほどの方に、私は何局も付き合わせていたのですか。ああもう、本当に、身に余る光栄だ」
フェリクスは立ち上がって、私のソファの横にやってきました。ゆっくりと片膝を突いて、私の右手にキスをします。
「エルザ嬢。どうか、私と結婚の約束をしていただけませんか」
もちろん、私の答えは決まっています。
「ええ、お約束いたします。お帰りをお待ちしておりますわ」
フェリクスは少年のような輝く顔をして、喜びのあまり私に抱きついてテーブルにぶつかり、チェス盤を落としそうになっていました。
数日後、フェリクスは戦地へ旅立ちました。父もまた、数日遅れで戦地へ、バルリング伯爵領へと向かいます。
その出立のとき、私は父とこう話をしました。
「エルザ、結局フェリクスとの話はどうなった? 見合いにしては随分と長々会っていたが」
「それでしたら、先日婚約していただけましたわ」
「そうか! それはよかった、フェリクスもなかなか見る目のある若者だな!」
「ええ、何十局負けても果敢に挑んでこられるほど立派な方ですわ」
それを聞いて、父は顔色を変えます。
「お前、フェリクスとチェスを?」
「はい。徹底的に、負かしましたわ」
「……それでよく、婚約したな?」
「どうやら、フェリクスはとても向上心のある方で、少しずつですけれど手合わせのたびに強くなられているのです。ですから、一生懸命でひたむきで、私はとてもいい方だと思いましたわ、お父様」
父は悩む様子を見せ、どう言えばいいのか、と顔に書いてありました。
ようやく、言葉を口にします。
「まあ、いい。私もお前とチェスを打ちたいのだ、帰ってきたら一局頼むぞ。それと私がいない間にまた陛下がいらっしゃるだろうが、いい加減お前も手加減を覚えなさい。陛下は落ち込むから」
「努力しますわ。陛下はせっかく棋譜をお渡ししても、勉強をサボってこられるから上達されないのですわ」
「ああ見えてお忙しいのだ。少しは労って差し上げなさい」
父はそう言って馬に乗り、部下たちを引き連れて行きました。
私はその後ろ姿を見送って、いつかはフェリクスをもこうやって見送るようになるのだろうか、と想像します。
戦が甘いものでないことは分かっています。祈りなど届かず、死は間近にあり、戦いは泥の中で命を奪い合うことなのだと知っています。
その戦いを避けるための方策を、父はいくつも取ってきました。バルリング伯爵と私の婚約だってその一つだったのに、失敗してしまいました。それが私は申し訳なくて、どうしていいか分からなかったのですが——フェリクスのおかげで、少しは自信が回復しました。それはフェリクスを何十局も打ち負かしたからかもしれませんけれど、とにかく私は落ち込まなくなったのです。
だから、また会えると信じて、私は家で待つのです。
父の書斎でチェス盤の駒を一人動かし、何の気なしに昔の棋譜を再現していると、来客がありました。
使用人に通させて、私は書斎で待ちます。するとすぐに、客人は現れました。
「やあ、エルザ。久しぶりだな」
その方は、赤毛の女帝——ヴァルツ帝国皇帝、アーデルハイト・マルガレーテ・コンラート・ライファイゼン。私がいつもチェスのお相手をしている、妙齢の女性でした。
◆◇◆◇◆◇◆
「バルリング伯爵領は戦地にはならない」
黒のポーンを持った赤毛の女帝アーデルハイト陛下はそう言いました。ソファで足を組み、赤い礼服を着こなすさまは、いつ見ても見事なものです。
「そこへ行くかのように見せかけて、別方向から攻める。イェーリス将軍が動いたとなればオクトーレ公国連合も目を離すわけにはいかないから、そちらにかかりっきりになる。その隙に、オクトーレ公国連合の領土を削りに削ってやる。やつらは慌てて引き返してきても、もう手遅れだ。せいぜい、無抵抗で得られたバルリング伯爵領を捨てていくしかできないだろうさ」
黒のポーンの斜め前に、私の白のポーンがあります。しかし、女帝は見向きもせず、牽制だとばかりに放置しました。
「エルザ、お前の元婚約者は私の気遣いにも気付かず、おまけにイェーリス将軍の気持ちをも踏みにじった。そして今回の失態だ。失地回復は許さぬ、バルリング伯爵家は取り潰しだ。やつに任せていてはこの先何度我が領土はオクトーレ公国連合の侵略を許すか、分かったものではない。無能の首を切るのは皇帝の仕事だからな、バルリング伯爵は戦が終わるまでの命だ」
私は白のルークを少し進めます。黒のビショップに狙われていると分かったからです。女帝の思惑は外れ、黒のビショップを戻しました。
「そうですか。何もかも、あの方のせいで台無しですわね」
「そうだな。お前にとっても、いいやら悪いやら。あんな無能に嫁がず済んでよかった、そう思ってもらえれば私も気が楽だ」
「もちろん、今はそう思えますわ。気の毒ですけれど、戦が迫っても何もできないお方が領地を治めるなど、領民の不幸ですから」
白のポーンが女帝の領地を襲います。すぐさま女帝は黒のナイトで応戦し、黒のキングの守りを固めます。しかし、その一方で孤立無縁となった黒のクイーンは、あっさりと私の白のビショップに奪われてしまいました。
やってしまった、と女帝は顔を歪めます。
「うーむ、お前は本当に手加減をしてくれぬなぁ」
「あら、して欲しいのですか?」
「いいや、全力で戦うことこそ相手への礼儀だ」
「であれば、遠慮なく」
「あ、いや、少しはこう、私に花を持たせてくれ」
女帝の言葉を、私は聞く耳など持ちません。
じわり、じわりと黒の駒は減っていきます。ついには隅に追い詰められた黒のキングの護衛は一つの黒のポーンとルークだけ、という状態にまでなってしまいました。
「チェックメイト」
「……無様に負けたなぁ」
はあ、と女帝はため息を吐きました。いつものことです。
私は白黒の駒をそれぞれの陣地へ戻しつつ、女帝の話に耳を傾けます。
「なあ、エルザ。聞いたぞ、お前はシュヴァルツェンブルク侯爵の息子と最近よく会っているらしいな」
なるほど、女帝はわざわざそれを探るためにやってきたのですね。
私はにっこり笑って、その事実を認めました。
「ええ、婚約いたしました」
「何? それを早く言わないか!」
「だって、数日前に父へ話したばかりですわ。そのうち陛下のお耳に入るだろうと思って、こんなに早くお会いできるとは思ってもいませんでしたもの」
なるほどそう来たか、と女帝は独り納得しています。
「フェリクスはチェスは大してお上手ではありませんけれど、何度も向かってくるその気概は目を見張るものがありますわ。いい方だと思います、あとは」
「うん、私はお前の亡き母に後見人を頼まれているからな。いいだろう、私の目に適う相手なら、許す」
女帝はそう言って、大きく頷きました。私の亡き母は、前に陛下のチェスのお相手を務めていて、母が亡きあとは私がそのお役目を継いでいました。だから、陛下は私のことを妹のように可愛がってくださっています。
その女帝の許しを得たなら、もう結婚への障害はありません。
「しかし、お前がもう結婚する年齢になるとはな。結婚式に私も出ていいだろうか?」
「父が許可を出すなら。出席される皆様が驚いてしまいますわ」
「なら、こっそり出るか。どうせ軍人ばかりだろうし、貴族は新郎側にしかいなさそうだ。そこに私が花を添えるくらい、大したことではあるまいよ」
そうは言いますが、いくら結婚相手が貴族だからと言って、平民の娘の結婚式に皇帝が出るなど前代未聞です。しかも凛々しい赤毛の女性となれば、一目で皇帝陛下だと分かってしまいます。
それはそれでおかしな話で、私は思わずふふっと笑ってしまいました。
「お前が喜ぶなら私も嬉しいぞ。花嫁衣装はどうする? 仕立て直すなら日数がかかるぞ。私の専属の仕立て人を使え、すぐに終わらせられる」
「では、遅れそうになったら、お願いしますわ。衣装のことはフェリクスと相談して決めたいと思いますから」
「おお、そうか。結婚に関して新郎を差し置いては無礼だな、許せ」
そう言って、女帝は機嫌よく笑います。
二人して、窓の外の空を見上げました。
遠い空の下で、フェリクスは戦っているのでしょうか。父は無事でしょうか。
そんな心配など、必要ないかもしれないけれど——私も陛下も、せずにはいられなかったのです。
そして、それからほんの一週間と経たず、オクトーレ公国連合領内にヴァルツ帝国軍が電光石火のごとく侵攻を開始した、という報が届くと、市井はお祭り騒ぎのように沸き立ちました。
父の采配は、ヴァルツ帝国の勝利を確信させるものでした。
◆◇◆◇◆◇◆
二ヶ月後、フェリクスが帰ってきました。父はまだ戦地で和平交渉に関わっていますので、しばらく帰りそうにありません。
フェリクスは帰ってくるなり、私がいる父の書斎へ駆け込んできました。
「エルザ! やっと帰ってきた、一局手合わせを」
そう言って、フェリクスはやっと気付いたのでしょう。
私の他に、もう一人が書斎にいることを。
私とチェス盤の載るテーブルを挟んだ向かいに、ソファに足を組んで座る女帝を見て、フェリクスは顔を引きつらせました。
「こ、ここ、皇帝陛下! ご無礼仕りました!」
「よい。目通りを許す、こちらへ来い」
「はっ!」
緊張しつつも、フェリクスはきびきびと動き、女帝の横にやってきて片膝を突きました。さすがは侯爵家の子息、礼儀作法が体に染み付いています。
「シュヴァルツェンブルク侯爵が子息、フェリクスだな。我が友エルザが世話になっていると聞いた」
「はっ、エルザ嬢にはチェスを指南していただいております。それから」
「婚約をしたそうだな? よい、無事帰ってきてエルザを悲しませることがなかったのだ。今はその幸せを噛み締めるとよい」
改めて他人に言われると、フェリクスは恥ずかしかったようです。耳まで真っ赤にして、顔を上げられなくなっていました。
「しかしだ、フェリクス。余は一つ、疑念を抱いている」
「疑念、でございますか」
「ああ。お前はシュヴァルツェンブルク侯爵の次男だ。このままならシュヴァルツェンブルク侯爵家を継ぐことはない、仮に家を出て新たな貴族として家を立てるとしても、貧乏貴族のままだろう。お前にイェーリスほどの才覚があればともかく、エルザをそれで幸せにできるのか、余は深く憂慮しておるのだ」
女帝の問いかけは意地悪くはありますが、確かにそれは考えなくてはならないことです。
フェリクスはこのまま軍人として身を立て、私を妻として迎え入れるつもりなのでしょう。しかしそれは、貴族として暮らしてきたフェリクスには、少々耐えられない生活になるかもしれません。軍人はそれほど裕福ではありませんし、何より平民になるということに抵抗を感じるのではないでしょうか。
それは私の口からは聞きづらい、しかし確かめなくてはならないことです。だから、女帝は自らその問いをフェリクスへ投げかけたのでしょう。
フェリクスは、顔を上げずに答えました。
「陛下の御宸襟を煩わせたこと、深く謝罪申し上げます。しかしながら、私は一介の軍人となることを、軍に入ったそのときから覚悟しております。シュヴァルツェンブルク侯爵家はそれを理解して、私を貴族としての責務から解放しました」
その覚悟は、並大抵のものではありません。
フェリクスは軍人です。シュヴァルツェンブルク侯爵の一員、貴族の息子であるということは消せない烙印のようなもので、しかしそれらを強引に捨ててでも軍人になると決めたのです。
「平民であろうと貴族であろうと、私はエルザ嬢を愛しています。決して、エルザ嬢に恥じることのない軍人たらんと微力を尽くしてまいる所存でございます」
しばらくの間、私たちは黙ったままでした。
フェリクスは微動だにせず、女帝の言葉を待ちます。
私は——目を閉じている女帝の様子を窺いながら、そのときを待ちました。
「ふむ。ならば、証明してみせよ。お前はイェーリスの息子になるということだ。この余が持つ帝国一の頭脳、戦略家の娘を娶り、その名に恥じぬ軍人でなければならぬのだ。それがどれほど険しい道か、分かっているのだな?」
「もちろんでございます。非才の身ながら、イェーリス将軍の背を追いかけてみせます」
その言葉に、ようやく女帝は納得したようです。
「いいだろう。このエルザは余の数少ない友人であり、大事な妹のようなものだ。もし何かあれば、エルザは余を頼るであろうな。そうならぬよう、邁進せよ」
「はっ!」
フェリクスは一層頭を下げ、女帝へ最敬礼をします。
その一方で、私はただソファに座って、その様子を眺めているだけです。盤上には先ほどまでの私と陛下の一局——陛下がボロ負けしたチェスの盤面があります。
陛下はそれをなかったかのように、駒を倒し始めました。
「うむ、それでだ、エルザ。余はこれで帰る。次もまたよろしく頼むぞ」
「はい、お待ち申し上げております。お見送りを」
「いや、いらぬ。お前はフェリクスと一局してやるといい。ではな」
女帝は颯爽と、書斎から出ていきました。
ようやくフェリクスが頭を上げ、立ち上がります。
「はあ……緊張した。まさか、ちょうど陛下がいらっしゃるとは」
「陛下にも結婚を認めていただきました。これでいつでも式を挙げられますわ」
「まいったな、そこまで話が進んでいたのか。いや、いいのです。どのみちその話をしに来たのだから、ちょうどよかったというもの」
私とフェリクスは、互いの陣地にそれぞれ駒を置きながら、笑い合います。
「改めて、エルザ嬢。私と結婚してもらえますか?」
揃った駒の上で、私はにやけを抑えきれず、こう言いました。
「はい、もちろん。これでいつでも、対局できますね」
フェリクスは意表を突かれた、とばかりに目を丸くしていました。
「ははっ、そうか。じゃあ、ご指南、よろしくお願いします」
私は白の駒を、フェリクスは黒の駒を持って、対局は始まりました。
いつまでも、いつまでも。
一度だってフェリクスは私に勝てなかったけれど、フェリクスは諦めることなんてしませんでした。
天才戦略家ドミニク・イェーリス将軍の義理の息子、フェリクス・イェーリスは、やがては将軍と呼ばれるまで出世して、騎兵隊運用に革命を起こすほどの戦術家として名を馳せるようになりますが——それはもう少し先の話です。
◆◇◆◇◆◇◆
おまけ
結婚が差し迫った、ある日のことです。
私が黒、父が白の駒を持って、今日も朝からチェスの対局です。父が暇なときは、一日中こうして書斎でチェスを打っていることもあります。
父はしみじみ、私の手番を見てこう言いました。
「お前もすっかりチェスが上手くなったなぁ」
「まだまだですわ。お父様に勝ち越せるまで、精進あるのみです」
「私に勝ち越したあとはどうするつもりだね」
勝ち越したあと、と言われると、私も考えていませんでした。今までずっと父が目標で、勝てるようになるまで勉強を続けてきたからです。その父はヴァルツ帝国一のチェスの名手と呼ばれているのですから——その先は、どうなるのでしょう?
私は父へその疑問を返します。
「どうしましょう?」
「そうだな、ライトン共和国にアンシュラーク劇場というところがある。そこで年に一回、チェスの殿堂入りをかけて大会が開かれるのだが」
「そこに出られるくらいになれば、ということですか?」
「まあ、一つの目標にしておけばいい。私も若い頃は目指したが、戦争で行けなくなってそれきりだ」
父は少し寂しそうでした。ライトン共和国は遠いところです、そう簡単に行けませんし、貧乏だった頃の父はいくらチェスの腕が立っても手が届かなかったのでしょう。今となっては立場が邪魔をして、ライトン共和国に限らず気楽に諸外国へ出かけることもままなりません。
それはとても残念なことで、父はチェスの腕前を広く披露する機会を失ってしまったままなのです。
でも、私がその夢を継ぐことができれば、父は喜ぶでしょうか。そう考えると、俄然やる気になってきました。いつかライトン共和国のアンシュラーク劇場に。私はそんな夢を、胸に抱きます。
フェリクスが書斎にやってきました。手には紅茶のカップを三つ載せたお盆を持っています。
「やあ、お義父様、エルザ。今日も対局ですか。私も混ぜてもらえませんか」
私は快諾します。
「かまいませんわ。もう一つ盤を持っていらして」
「いや、二つだ。三人で二つずつやればいい」
「えっ」
「そうですわね。暗譜でもかまいませんけれど、フェリクスは慣れていないでしょうから」
私と父は、フェリクスを加えて二面で相手をすると言っていたのですが——。
「き、今日は見学させてもらいます……お邪魔になりますので」
フェリクスは遠慮していました。そうか、と父は興味がなさそうです。
フェリクスは椅子を持ってきて、テーブルを眺められる位置に座りました。
「盤面が複雑すぎてよく分からないのですが……これはお義父様が勝っているのですか?」
「いや、優勢ではあるが、いつでもひっくり返る接戦だ」
「そうですわね。悩んでいるのですけれど、なかなかいい手が見つからなくて」
「こらこら、敵にバラすものじゃない」
「あら、これも計略のうちなら?」
「恐ろしいことを言うな。誰に似たことやら」
「お父様ですわ」
私と父は笑い合います。隣でフェリクスが苦笑いをしていました。
「そういえば、シュヴァルツェンブルク侯爵から手紙が来たよ。息子をよろしく、とのことだ。結婚式には出席しない、とも書かれていたが」
「ああ、それは大丈夫です。私は軍に入る際、あの家とは縁を切りました。もちろん世間的にはそうは見られないでしょうが、侯爵家の跡目争いや財産分与に関わらないよう、今後一切の付き合いは断つと誓約書に書いていますので」
フェリクスはそう言いますが、本当にそれでいいのでしょうか。
家族としては、心の底では結婚式に出てフェリクスを祝福をしたいのではないだろうか——そうは思いますが、シュヴァルツェンブルク侯爵家の事情が分からない私には、どうすることもできません。
「エルザ、大丈夫だよ。どうせ結婚式には出ないと言っておきながら、教会の外で偶然を装って見にくるだろうから」
「……そんなことを?」
「そういう人たちです。結婚式の日取りくらいは知らせておいてもいいですか?」
「ん、そうしておきなさい。ああいや、私が返信に書いておくよ。場所と日付でいいかね」
「はい。よろしくお願いします」
どうやら、シュヴァルツェンブルク侯爵家の人々は、かなり愉快なご様子です。
深夜、父の書斎から、明かりが漏れていました。
「フェリクス、眠れないのですか?」
いつでも開放しっぱなしの父の書斎で、フェリクスが一人、チェス盤の駒を動かしていました。手には本を開いています。
「うん、少しね。ちょうどいいから、チェスの棋譜を読んで勉強しようと思って。今までろくに本で学んだことがなかったんです」
「そうなのですか? じゃあ、実戦でそれだけの腕をつけたということですね」
「そう言えば格好は付きますが、実際のところ基礎は何もない、というところです。ちゃんと強くならないと、あなたの相手だってできません」
私はフェリクスとテーブルを挟んだところのソファに座り、フェリクスが駒を動かす様子を眺めます。
「軍では賭けチェスが流行っていて、騎兵隊ではあまり娯楽がないものだから、皆熱中していてね。私はあなたのおかげで、騎兵隊では負けなしになってしまったものだから、誰も相手にしてくれなくなってしまって」
「あら、残念ですわね」
「ええ、せっかく交流を深めるいい機会だったのに……ああ、その代わり、あなたとはそれなりに打てるのだから、良し悪しですね。まだ足元にも及びませんが」
「大丈夫ですわ。今のところフェリクスは陛下よりも少し上手くらいですもの、サボってばかりの陛下よりもすぐに上達しますわ」
「ははっ、よりによって皇帝陛下と比較されるなんて、夢にも思わなかったな」
フェリクスは何だかおかしげに、楽しそうに笑っています。そんな様子のフェリクスを見ることが、私は幸せで、何とも愛しいのです。
「エルザは今まで、誰かとチェスを? お義父様とだけですか?」
「いえ、お父様のお知り合いはしょっちゅうやってくるので、よくお相手しましたわ。でも、私が十歳になる頃にはほとんど勝ってしまっていたので、それから時々貴族の方の紹介でチェスの上手な方たちと打ったりもしていましたわね」
「なるほど、鍛えられていた、というわけですか」
「でも、最初は幼い頃に亡くなった母から教わったのですわ。母はお父様も負かすほどチェスの強い方で、皇帝陛下の指南役でしたもの。今は私がそのお役目を継いでいますけれど」
それは遠い昔、もう私は母の顔も憶えていません。憶えているのはチェスの駒の動き、その駒を操る細い指先だけです。
だからでしょうか。私と母を繋ぐものは、チェスだけなのです。チェスに触れているときだけは、朧げにでも母を思い出せるのです。
「お会いしたかったな。でも、お会いしたらきっとエルザよりも容赦なく私をチェスで負かせてくれたでしょうね」
「間違いなくそうしたと思いますわ。だって、幼い頃の私相手でも一切手を抜かなかった方ですから」
「エルザそっくりですね」
「そうかしら」
その評価には少し異論がありますけれど、とりあえず。
フェリクスは駒の動きを止めました。
「うーん、やっぱり私は、エルザと対局するのが一番楽しいな」
「あら、そうですか?」
「幾千の言葉よりも雄弁に、というくらい、一度の対局では分かり合える気がするんです」
「フェリクス、意外と詩人ですわね」
思えば、私はフェリクスのそういった面を、まったく見ていませんでした。チェスを通して気性を知っているだけで、何が好きか、どんな音楽を聴いているのか、家では何をすることが好きなのか、そういうことを聞いたことがありませんでした。
でも、それでもいいような気がします。
「そういうことなら、夜も更けましたから一局だけ。すぐに終わらせますわ」
「お手柔らかに頼むよ。前よりは時間がかかるといいんですが」
幾千の言葉よりも雄弁に。
私はフェリクスと分かり合うために、今日もチェスの駒を握ります。
(了)
四年ぐらい前に書いたやつを許せるようになってきたので再掲しました。
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