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第7話 追跡者

夜明けに、井戸が鳴った。


音、というより振動だった。石組みが低く唸るような、地の底から伝わってくるような、それ。レンは半分眠ったまま聞いていた。夢の中の音かと思った。だが目を開けても、まだ続いていた。


隣でセナも目を覚ましていた。


「聞こえる?」

「うん」


二人で廃村の広場に出た。夜明け前の空は薄い紺色で、星がまだいくつか残っていた。井戸は見た目には昨夜と変わらない。釣瓶が垂れて、綱の切れた端が風もないのに、かすかに揺れていた。


レンは井戸の縁に手をついて、中を覗いた。


暗かった。底は見えない。だが——水面があるはずの深さに、光があった。青白い、小さな光。揺れている。水面に映った星、とも違う。もっと内側から、発光しているような光だった。


「何あれ」


セナが隣で覗き込んだ。


「……わからない」


レンは手を伸ばした。井戸の内壁に触れた。石は冷たかった。だが、振動が指先に伝わってきた。一定のリズムではない。不規則に、強弱を繰り返している。まるで——何かが、呼吸しているような。


「老婆に訊いてみる」とセナが言った。


「待って」


レンは止めた。自分でも、なぜ止めたかわからなかった。ただ——この振動に、何か聞き覚えがある気がした。どこかで感じたことがある、この感触。


昨夜。眠れないまま目を閉じていたとき。喉の奥で、何かが応答しようとした——あの感触と、同じだった。


レンは息を吸った。


声を出すつもりはなかった。ただ、息を吐いた。吐いた息が、また声になった。昨夜と同じように、形のない、音階のない、ただ喉から漏れる声。


井戸の光が、大きくなった。


昨夜の露のように揺れるだけ——ではなかった。光が膨らんで、井戸の石の目地に沿って這い上がってきた。青白い光が、石の亀裂に入り込んで、広場全体の石畳をうっすらと照らした。三十年前の暴走の痕跡——焦げた石、割れた壁、黒い土——それぞれが、一瞬だけ光った。


セナが、後ろに一歩退いた。


「レン」


声が、緊張していた——けれど、レンが声を止めて振り向いたとき、セナの目に見えたのは恐怖ではなかった。


暗い中で、光を追うような目だった。


「きれい」と、セナは言った。声が小さかったので、独り言かもしれなかった。


レンは声を止めた。光が、ゆっくりと引いていった。井戸の中の光も、石畳の光も、消えた。広場は元の薄暗さに戻った。


静寂があった。


「今の——」とセナが言いかけた。


「わかってる」


露が揺れるのとは違った。空気が静止するのとも違った。今のは——廃村全体が、一瞬だけ、レンの声に応えた。


音の筋ではない。世界の決まった通り道ではない。でも、何かが応えた。


老婆の言葉が頭に戻ってきた。世界に聞かれない声は、世界を壊さない。


でも——今、何かが聞いた。


その何かが、音の筋ではないとしたら。


「音外れの子」


振り向くと、老婆が家の入り口に立っていた。いつから起きていたのか、わからなかった。毛布を肩にかけたまま、目は細くなっていた。


「見えとった」老婆は言った。「光が。三十年ぶりに見た」

「すみません。止めます」

「止めんでいい」


老婆の声が、少し変わった。さっきまでの枯れた声より、少しだけ——芯があった。


「あの詠み人の光は、熱かった。痛かった。でもお前の光は——冷たかった。あの光が火なら、お前の光は水だ」


それだけ言って、老婆はまた家の中に入っていった。


レンとセナは広場に残った。空が、少しずつ白くなり始めていた。


「行こう」とレンは言った。「明るくなる前に、ここを出た方がいい」


セナは頷いた。何も訊かなかった。


荷物をまとめて、村の入り口まで来たとき——老婆の声がした。


「……またうるさくなった」


振り返ると、老婆は家の中から出てきていなかった。壁の向こうから、声だけが来た。


「近づいてる。お前が近づくほど、うるさくなる——どこかにある、何かに」


それだけだった。


レンは何も答えずに、歩き始めた。


出口に向かいかけたとき、老婆の家の方から声がした。


「……またうるさくなった」


独り言のような声だった。誰かに言っているわけではない。ただ、聞こえた。


レンは足を止めなかった。


火と水、か——と思った。それが正しい喩えかどうかはわからない。でも——


自分の声が何かを「壊す」可能性を、初めて考えた。


詠み人は制御を失って村を壊した。彼には音の筋があった。筋に乗りすぎた、だから止められなかった。


では自分は——音の筋すら持たない自分は、何に乗っているのか。乗っていないなら、止め方も、誰も知らないということになる。


止められるのか、と思った。


もし止められなくなったとき、誰が止めるのか。


答えは出なかった。


そして——止められるのか、とも。


あの詠み人は、止められなかった。本人も、周りも。それが「正しい声」だったからだ。ならばレンの声は——正しくないから止められる、と言えるのか。それとも、正しくないから、誰も止め方を知らないのか。


荷物を背負って、廃村を出た。老婆は見送りに出なかった。


王都から北へ四日。エルサン・ヴォードは馬を歩かせながら、手帳を開いていた。


記号が並んでいる。人間の目には判読できない種類の記号だ。だがエルサンには読めた。読む、というより——感じる、という方が正確かもしれない。記号は文字ではなく、音の筋の状態を直接写し取ったものだからだ。


北の音の筋に、乱れがある。


大きな乱れではない。詠み人の術式が誤動作したときのような激しさはない。もっと静かな、しかし——奇妙な乱れだ。音の筋が「反応している」のに、発生源の声が音の筋に乗っていない。


ありえない、と普通なら判断する。音の筋に乗らない声は、音の筋を動かせない。それがこの世界の原則だ。


だがエルサンは、三度目の試験の日に見た少年の顔を思い出した。


手帳の記号を、一行だけ書き足した。


「記録を更新する」。


馬が、北へ進んだ。


(第8話へ続く)

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