第6話 声の残骸
声は、井戸の向こうにある崩れた家の壁際から聞こえていた。
近づくと、老婆がいた。
石壁にもたれて座っている。膝に毛布をかけていて、目は閉じている。年齢はわからない。八十か、九十か、あるいはもっと上か。顔の皺は深く、手の甲の静脈が浮いている。呼吸は浅いが、規則的だった。
歌っていたのは、この老婆だった。
目を閉じたまま、ほとんど声にならない声で、何かを繰り返していた。音程も、拍子も、一定ではない。言葉があるのかないのかも、わからなかった。ただ、続いていた。
「……生きてる」
セナが小声で言った。
「うん」
レンはしゃがんで、老婆の顔を見た。瞼が、かすかに動いた。歌声が、少し変わった——低くなった。レンの存在に、気づいているのかもしれなかった。
「おばあさん」
声をかけた。反応はなかった。
「ここに、ひとりでいるんですか」
今度は、歌が止まった。
老婆がゆっくりと目を開けた。濁った灰色の目だった。焦点が合っているのか合っていないのか、わからない。だがしばらくレンを見てから——突然、顔をしかめた。
「……うるさい」
レンは何も言っていなかった。セナも、動いていなかった。
「お前の中が、うるさい」老婆はこめかみを押さえた。「何かが、鳴っとる」
レンは黙った。
老婆はしばらくそのままでいて、それからゆっくりと手を下ろした。目を細めて、レンを見た。
「……詠み人か」
声は、枯れていた。
「いいえ」とレンは答えた。「詠み人じゃないです」
老婆は少しの間、レンを見た。それからセナを見た。また、レンを見た。
「音外れか」
レンは黙った。
「目が、そういう目をしとる」老婆はまた目を閉じた。「詠み人の目じゃない。かといって、普通の旅人の目でもない。世界に弾かれた者の目だ」
声に、感情がなかった。責めているわけでも、哀れんでいるわけでもない。ただ、見たものを言っているだけの声だった。
「この村に、何があったんですか」
老婆はすぐには答えなかった。毛布の端を指でなぞって、何かを考えるように黙っていた。風が来て、雑草が揺れた。廃屋の屋根の残骸が、かすかに鳴った。
「詠み人が、来た」
静かな声だった。
「三十年前。若い詠み人が、この村に立ち寄った。悪い人間じゃなかった。力を持て余していただけだ。夜、酒を飲んで——歌った」
老婆の指が、止まった。
「音の筋に、乗りすぎた。制御を失って、歌い続けた。夜中じゅう。夜が明けても。止められなかった——本人も、周りも」
レンは、広場を見回した。
そう言われると、見えてくるものがあった。井戸の石組みが、ある一点だけ、焦げたように変色している。壁の亀裂の走り方が、風化によるものではなく——内側から押し広げられたような形をしている。畑の区画の一角だけ、土の色が違う。黒い。何かが、そこだけ深く焼けている。
「音の筋が、暴走したんですか」
「暴走、とは少し違う」老婆は言った。「音の筋は、正しく動いた。ただ——正しく動きすぎた。詠み人の声に応え続けた。世界が、声を聞きすぎた」
レンは黙って聞いた。
「家の壁が、振動で割れた。井戸の水が沸騰した。畑の土が、音の振動で裏返った。人間の体も——長く晒されると、おかしくなる。骨が鳴る。頭の中で音が止まらなくなる。眠れなくなる。食べられなくなる」
「村の人は」
「逃げた者は、助かった。残った者は——」
老婆は続きを言わなかった。
言わなくても、わかった。
「あなたは」とセナが言った。「なぜここに残っているんですか」
老婆はセナを見た。しばらく見てから、また目を閉じた。
「この村で生まれた。この村で死ぬ」
それだけだった。
レンは立ち上がって、もう一度広場を見た。焦げた井戸。裂けた壁。黒い土。三十年前に詠み人がここで歌い、世界が「正しく動きすぎた」痕跡が、まだ残っている。
正しく動きすぎた——という言葉が、頭の中に残った。
音の筋は正しかった。詠み人の技術も、おそらく正しかった。ただ、世界が「聞きすぎた」だけで、村が死んだ。
「音外れの子」
老婆が、呼んだ。
レンは振り向いた。
「お前の声は——音の筋に乗らんのだろう」
「……そうです」
「ならば」老婆はゆっくりと言った。「お前の声は、世界に聞かれない。世界に聞かれない声は——世界を壊さない」
意味をすぐには掴めなかった。
「それが、良いことなのか悪いことなのかは、わからん」老婆はまた歌い始めた。あの、音程のない、言葉のない歌を。「ただ——この村は、歌で死んだ。正しい歌で」
夜が来ていた。
レンとセナは廃村の端の、屋根が半分残っている家に泊まることにした。焚き火を起こして、干し肉をかじった。老婆には水と、少しの食料を置いてきた。受け取るかどうかはわからなかった。
火の向こうで、セナがじっとレンを見ていた。
「何」
「何でもない」
「何か言いたそうな顔してる」
「……正しくない声で、良かったと思った。ちょっとだけ」
レンは答えなかった。
焚き火が、静かに燃えていた。
安全、とレンは思った。世界に聞かれない声は、世界を壊さない——老婆はそう言った。だとすれば自分は安全側にいることになる。
でも、と思った。
石板は割れた。噴水は逆流した。露は揺れた。あれは全部——何かに「聞かれた」結果じゃないのか。
音の筋ではない何かに。
レンはその先を考えるのをやめた。火が落ちていくのを眺めながら、目を閉じた。
(第7話へ続く)




