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第4話 形なき、翼

夕方になっても、レンは荷物をまとめられないでいた。


革の筒を机の上に置いて、ずっと見ていた。日が傾いて、部屋の中に橙色の光が差し込んで、それが赤くなって、最後に薄暗くなった。


荷物は少なかった。替えの服が二着。硬いパンと干し肉、水筒。小さなナイフ。火打ち石。厚手の革のコート。それから、革の筒。全部まとめると、肩掛け鞄一つに収まった。


セナが来たのは、レンが扉を開けた瞬間だった。路地の角で、腕を組んで壁にもたれていた。


「やっぱり行くんだ」

「……うん」

「一緒に行く」


レンは止まった。


「来なくていい」

「知ってる。行くって言ってるの」

「危ないかもしれない。今日、試験官に記録された。監視されてるかもしれない」

「知ってる」


セナは壁から背を離した。


「七歳のとき、覚えてる?」


唐突な問いだった。


「川で溺れかけた。あのとき——わたし、声が聞こえた気がしたの。水の中で。岸から誰かが歌ってるような、そういう声。それで上を向けた。それで助かった」


レンは黙っていた。


「あのとき、岸にいたのはあなただけだった。あなたは歌ってなかった——って言った。でもわたしには聞こえた。その声を、わたしはずっと覚えてる」


「……それは」

「気のせいじゃないと思う」


セナの目が、まっすぐだった。怒っているわけでも、懇願しているわけでもない。ただ事実を言っている、という顔だった。


「あなたの声が何かだって、わたしだけはずっと知ってた。誰にも言わなかった。あなたにも言わなかった。でも今日、石板が光って——広場の噴水が逆流して——わたしはもう待てないと思った。あなたが自分で気づくのを待ってたら、誰かに先に連れて行かれる」


最後の言葉に、重さがあった。


「だから、一緒に行く」


レンは返事ができなかった。七歳のあの日のことは、覚えている。川の岸に立っていたこと。セナが溺れていたこと。何もできなかったこと——できなかったはずだった。


「……考えておく」


そう言ったら、セナが半歩うしろについてきた。


城門を出ると、道が広くなった。星が、増えていた。


レンは一度だけ足を止めて、空を見上げた。王都の中にいると明かりが邪魔をして、いくつかしか見えない。だが城門を出た途端、空が広がる。


声が出た。何の気なしに——吐いた息が声になっただけだ。形のない声。


その瞬間、あたりの空気が変わった。音が——消えた。虫の声も、遠い王都の物音も、自分たちの息遣いも。世界が一度だけ息を止めたような静けさが、瞬いて消えた。


セナが、レンの袖を掴んだ。強く。


「今、なんか——」

「わかってる」


草の上の露が、一粒だけ、ゆれていた。風はなかった。


レンはその一粒を、しばらく見ていた。


偶然じゃない、と思いかけた。思いかけて——止めた。止めようとしたが、止まらなかった。


音の筋ではない。世界の決まった通り道を使ったわけでもない。型もなく、音階もなく、それでも何かに届いた。鳥が翼の形を知らなくても空に出られるように——そういう何かが、自分の喉の奥にある気がした。ずっと前から。名前のない、形のない、それでも確かにある何かが。


形なき、翼。


その言葉が浮かんだ瞬間、レンは自分の声を初めて怖いと思った。力を持てなかった声ではなく——力の向き先を、まだ誰も知らない声として。そういうものが自分の中にあるとしたら、それは可能性ではなく、まず危険だ。エルサンが記録したのは、そういうことだ。


レンはそれ以上考えるのをやめた。


果ての地へ。音の筋が届かない場所へ。正しい音階を持たないまま——それでも、声を持って。


背中の方角に、王都の明かりが広がっていた。その中のどこかに、白い礼装の男がいる。手帳に、レンの名前が残っている。


振り返らなかった。


(第5話へ続く)

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