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第3話 紙と骨

「紙と骨」は、王都の外れの、細い路地の突き当たりにある。


初めて行く者は必ず迷う。路地が複雑に折れ曲がっていて、一度入ると抜け出すのが難しい。軒が低くて空が狭く、昼間でも日が差し込みにくい。苔の生えた石畳は他の通りより古く、足音が変わる。


扉は木製で、塗料が剥げている。引き戸を開けると、重い蝶番が古い声で鳴く。


店の中は薄暗い。棚が天井まであり、古びた楽器、割れた鏡、手書きの地図、名前を知らない道具——役目を終えた何かが、ごちゃごちゃと詰め込まれている。空気はほこりっぽくて、乾いていて、時間が少しだけ遅れているような匂いがする。


店主のゴーダは、奥の棚の整理をしていた。


白髪で、小柄で、皺が深い。年齢はわからない。六十か七十か、あるいはもっと上か。動作は遅いが確実で、ものを扱う手つきが丁寧だ。


「落ちたか」


レンが扉を開けた瞬間、振り返りもせずにゴーダが言った。


「……どうしてわかるんですか」

「お前が来る理由は、それしかない」


そう言いながら、老人の肩が——ほんの少しだけ、緩んだ気がした。安堵のような、それ。


レンは気づかないふりをした。


カウンターの端に腰かけた。以前から、ここに座るのが習慣になっていた。


「三度目です」


ゴーダは何も言わなかった。


「もうやめようと思ってます。詠み人を目指すのを」


「そうか」


あっさりしていた。哀れまなかった。励ましもしなかった。老人はただ棚に向かって、ものをひとつ持ち上げ、眺め、戻す。


「……驚かないんですか」

「驚くわけがない。お前の声はおかしいが、おかしい方向が——普通じゃない。試験に落ちることと、詠み人として終わることは、別の話だ」

「でも世界がそう判定しています」

「世界の判定基準が、お前に合っていない可能性は?」


レンは答えなかった。


「広場で、何かあったか」


唐突な問いだった。


レンは少し間を置いてから、石板の亀裂のことを話した。光のこと。噴水の水が逆流したこと。広場の人間が一瞬だけ動きを止めたこと。そして——試験官の視線のことも。


ゴーダは棚に向かったまま聞いていた。途中で手が止まった。話が終わっても、しばらく動かなかった。


「……その試験官の名前は」

「わかりません。ただ、試験のときに一番最初に首を傾げた人でした。白い礼装に金の帯の」

「エルサン・ヴォードか」


老人の声が、一段低くなった。


「知ってるんですか」

「評議院の中でも、特に音の筋の管理を担う部署の人間だ。……厄介だな」


厄介、という言葉の重さが、空気に落ちた。


「どういう意味ですか」

「その部署は、音の筋に異常をきたす現象——及びその原因となり得る人間を、記録し、管理している。お前が手帳に書き付けられたなら、今日からお前の名前はそこに残る」


レンは黙っていた。


「行動を制限されるほどではない。だが、監視はされる。特に——お前がこれから何かをしようとするなら」


それ以上は言わなかった。言わないまま、棚の奥に手を伸ばした。暗い奥を探って——古びた革の筒を取り出した。


「これを、ずっと渡そうか迷っていた。渡すなら今しかない、と今日の話を聞いて思った」


筒の中から、一枚の皮紙が出てきた。薄く伸ばした動物の皮に、細い線で地図が描かれている。黄ばんでいる。端が欠けている。だが中心の線だけは鮮明で、まるで最近誰かが触れたかのように色が濃かった。


地図の中心の輪郭が、石板の亀裂と同じ形をしていた。


「……この形、知っています。石板に走ったひびと」

「知っているか」


ゴーダの目が細くなった。確かめるような目だった。


「音の筋が生まれる前の時代——声が直接、世界に触れていた頃の歌い方の源が、どこかに眠っている。始まりの歌と呼ばれるものだ。それを見つけた者は、今の音の筋を書き直すことができる——という伝説がある」

「伝説、ですよね」

「伝説だな。だが地図は本物だ。果ての地は実在する」


「なぜ、あなたはこれを持っていたんですか」


老人の目が、一瞬だけ変わった。何かが閉じた。


「昔、持っていた者から預かった」

「その人は」

「もういない」


それ以上は語らなかった。棚に飾られた古い額縁が目に入った。中に入っているのは地図ではなかった。薄れた紙に、人の名前だけが書かれていた。一つの名前。筆跡は若く、まだ子どもの手に見えた。


「行け、とは言わん。だが——エルサンが記録を取った以上、お前はもう、動かないことでは守られない」


レンは地図を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。革の感触が指に残る。乾いていて、少し温かい。


「……一つだけ聞いていいですか。あなたは——詠み人だったんですか」


ゴーダは少し笑った。深い皺がさらに深くなる。


「音外れだったよ。百年前も、今日も変わらん」


それだけ言って、老人は棚に戻った。


レンは扉を押した。重い蝶番がまた鳴いた。路地に出ると、外は昼を過ぎていた。


路地の出口で、立ち止まった。


細い路地の先、大通りとの境目のあたりに、白い上着の人間が立っているのが見えた。遠くて顔はわからない。だがその立ち方——人を探すでも、通り過ぎるでもなく、ただそこに在る立ち方が——気になった。


目が合ったかもしれなかった。


レンは反対方向へ、足を速めた。


(第4話へ続く)

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