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第2話 名前のない場所

ア行、カ行、サ行——ハ行。ハ、ヒ、フ……ファ、ファル、ファルク……。

なかった。


指でなぞった。深呼吸して、もう一度、端から端まで読んだ。横に並ぶ名前が視界に入る——知らない名前。知っている名前もある。去年の模擬試験で隣に座っていた少年の名前があった。緊張しながら何度も咳払いをしていたあの子が、合格している。


レンの名前は、なかった。


「……そうか」


声に出してみたら、思ったより平坦な音が喉から出た。


冷静だった——と、あとで自分に言い聞かせることになる。


実際には、何かが崩れた。音もなく、一瞬で、内側から。


崩れた場所には、記憶が雪崩れ込んできた。十一歳の試験——「声変わり前は難しい」。十四歳の試験——「技術が追いついていない」。そして今年、何ヶ月もかけて磨いた音程と型。試験前夜に一人で練習した、誰もいない中庭の冷たい空気。声を出すたびに白い息が立って、それがきれいだと思いながら、ずっと歌い続けた夜。


あの夜は、うまくいっていた気がした。


確かに、手応えがあった。声が空気を震わせていた。何かに触れていた——気がした。


違ったのか。


レンは石板を見た。自分の名前がない場所を見た。名前がないということは、手応えは幻だったということだ。触れていた気がしたものは、何もなかったということだ。十七年間、ずっとそうだった。それでいい。それだけのことだ——


噴水の水音が、急に大きく聞こえた。


広場の歓声が、急に遠くなった。


レンは奥歯を噛んだ。目の奥が熱くなるのを感じた。泣くものか、と思った。三回落ちて今更泣くか、と思った。それでも奥歯を噛んでいないと、何かが顔に出そうだった。


そのとき——石板の端の方に、ほんの細い亀裂が走った。


誰も気づかなかった。石板は古いものだから、ひびのひとつやふたつある——


そう思いかけて、レンは止まった。


亀裂の縁が、青白く光っていた。


詠み人の術式が刻まれるときの光と、同じ色で。


次の瞬間、広場のあちこちで小さな声が上がった。


「あれ」と誰かが言った。「石板が」と別の誰かが言った。噴水の水が一瞬だけ逆流した——水柱が短く上がって、すぐに収まった。それだけのことだった。数秒のことだった。だが広場の端から端まで、人々が動きを止めた。何かを感じたが何かわからない、という顔をして、互いを見た。


レンだけが、石板を見続けていた。


亀裂はもう光っていなかった。ただの石のひびだった。だがその形は——古い書物で一度だけ見たことがある、果ての地への地図の輪郭に、そっくりだった。


「おい」


低い声がした。


振り向くと、試験官のひとりがこちらを見ていた。白い上着に金の帯、評議院の紋章——正式な礼装をした中年の男だ。試験中にレンの声を聞いて、最初に首を傾げた男だった。今は礼装のままで、人込みの少し離れた場所に立って、石板ではなくレンを見ていた。


目が合った。


おかしい、とレンは思った。


視線が——人を見ていなかった。好奇心でも警戒でも敵意でもない。地図の上の一点を確認するような、それだけの目だった。感情が見えなかった。驚きも、疑問も、何もなかった。ただ、記録していた。


手元の手帳に、男は何かを書き付けていた。文字ではなかった——一瞬だけ見えたそれは、細い線が組み合わさった記号のような何かだった。音の筋の図式に似ていたが、もっと複雑で、見ているだけで目が滑る形をしていた。読もうとすると、読む前に形が変わる。そういう何かだった。人間が意味を持たせるために作った記号ではなく——意味そのものが、記号の形をしているような。


レンは視線を切った。


「ファルク!」


人込みをかき分けて、セナが走ってきた。


幼馴染のセナ・ブリューは、小柄で動作が速い。短い黒髪が駆けるたびに揺れる。目が大きくて、感情がそのまま顔に出る。今は眉が下がっていて目が赤い。


「わたしも、ダメだった」


息を切らしながら、レンの袖を掴む。


「そうか」

「……怒らないの。悔しくないの」


問い方が、普段と少し違った。怒れ、と言っているのか。崩れろ、と言っているのか。セナはレンが崩れるのを、時々待っている気がする——レンがそれに気づいたのは、最近のことだ。


「怒っても、声は変わらないから」


それだけ言ったら、セナが一瞬、傷ついた顔をした。


二人でしばらく、何も言わなかった。広場は少しずつ、さっきの奇妙な一瞬を忘れていく。歓声が戻って、話し声が広がっていく。


「ねえ」と、セナが言う。声が、少し低かった。「あなたが歌うとき——わたし、変な感じがするんだよね。ずっと。最初に気づいたの、何年前か忘れたくらい前から」

「変な感じ?」

「音の筋が来るときとは、違う。でも何かが——動くの。空気が、形を変えようとするような感じ」


レンは少し考えてから、首を振った。


「気のせいだと思う。世界がそう判定してるんだから、そうなんだろう」


「世界が間違ってることもある」


今度はセナが平坦な声で言った。感情が抜けた、強い言い方だった。


レンは返事ができなかった。


石板を、もう一度見た。自分の名前がない場所を、ずっと見た。


背中に、視線があった。


振り向かなかった。試験官の目が、まだこちらに向いているのがわかった。


(第3話へ続く)

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