第1話 エラーコード:404 存在しない救世主
空が割れる音がした。
雷鳴ではない。もっと粘着質で、耳の奥の蝸牛を直接爪で引っ掻かれるような、不快なデジタルの悲鳴だ。
視界の端で、鮮やかな青色だったはずの空が、毒々しい赤紫色の雑音へと変色していく。雲は流れるのをやめ、不自然な静止画として空に張り付いている。
(……チッ。描画速度が落ちてやがる)
俺は吐き捨て、足元の泥を強く踏みしめる。
靴底から伝わる感触がおかしい。泥の「柔らかさ」と、石畳の「硬さ」が、一歩ごとに乱数に入れ替わっている。
|表面情報の読み込み失敗。
物理演算エンジンの不調。
普通のプレイヤーなら、この時点で嘔吐しているだろう。三半規管を破壊するこの揺らぎは、VR酔いという生易しい水準を超えている。脳が認識する「現実」と、網膜に映る「情報」の致命的な乖離。
だが、俺には心地よかった。
この壊れかけた世界こそが、俺の「庭」だ。
俺は虚空に指を走らせ、メニューウィンドウを呼び出す。
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[SYSTEM ALERT]
> Connection: FAILED
> Server Response: 404 Not Found
> Logout: DISABLED (Error Code: 666-Fatal)
[PLAYER STATUS]
> Name: Nagi
> Class: Novice (Banned)
> HP: ▇▇▇ / 120
> MP: ERROR
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「相変わらず、つれない返事だ」
視界に浮かぶ赤い警告を、慣れた手つきで払う。
『アカシック・クロニクル』。
世界初のフルダイブ型VRMMOとして華々しく開始されたこの神ゲーは、運営会社の夜逃げとサーバー管理AIの暴走によって、今や数万人のプレイヤーを閉じ込めた「電子の監獄」と化していた。
遠くから、悲鳴が聞こえる。
人間の声だ。
(……東の森林エリアか。あそこはまだ「マシ」なはずだが)
俺は錆びついた初期装備の短剣を腰に差し直し、走り出した。
地面の摩擦係数がバグっているせいで、氷上を走るように身体が滑る。だが、俺は重心を極端に前へ倒すことで、その滑りを推進力へと変える。
この世界では、走るだけで技術がいる。
◇
森の中は、地獄の釜の蓋が開いていた。
「う、うわああああ! なんだこいつ!? 攻撃が当たらねぇぞ!」
大柄な戦士が、腰を抜かして後ずさる。
彼の目の前にいるのは、かつて「ワイルド・ボア」と呼ばれていた低級モンスターだ。
だが、その姿は異様だった。
猪の形をした「多面体の塊」。
表面の皮が剥がれ落ち、骨組みが剥き出しになっている。
さらに最悪なのは、その挙動だ。
ブォン、という重低音と共に、ボアが数メートル手前に「瞬間移動」した。
(遅延か……いや、座標跳躍だ)
戦士が必死に剣を振るう。
刃はボアの胴体を深々と切り裂いた――はずだった。
しかし、何の手応えもなく、剣は空を切る。
「は、判定が……ない?」
戦士が呆然とした次の瞬間。
ボアの鼻先が、なんの予備動作もなく戦士の腹にめり込んだ。
ゴガッ!
鈍い音が響き、戦士の体がくの字に折れて吹き飛ぶ。
鮮血の代わりに、赤い光の粒子が傷口から噴き出した。
「が、はっ……!」
HPバーが一撃で危険域に突入する。
本来、初期エリアのボアにそんな攻撃力はない。だが、今のこの世界に「本来」など通用しない。
システムが崩壊し、攻撃力係数が桁あふれを起こしているのだ。
「誰か……助け……」
戦士が震える手を伸ばす。
その視線の先に、俺は音もなく降り立った。
「よォ。派手にやってるな」
俺の声に、戦士が希望に縋るような目を向ける。
だが、俺の装備――擦り切れた布の服と、ボロボロの剣――を見た瞬間、その瞳に絶望が戻った。
「しょ、初期装備……? なんだ、雑魚かよ……逃げろ、こいつはバグってやがる……!」
「バグってる? 当たり前だろ」
俺は鼻で笑い、ボアに向かって歩き出す。
ボアが俺を認識し、蹄で地面を削る動作に入る。
だが、俺には見えていた。
こいつの周りに漂う、無数の「赤い線」。
当たり判定の境界線だ。
今のボアは、表示されている映像と、実際の当たり判定がズレている。
本体は1メートル右だ。
「グルルルゥッ!」
ボアが突進してくる。
戦士が悲鳴を上げた。
俺は動かない。
ボアの巨大な牙が、俺の胴体を貫通する――ように見えた。
だが、痛みはない。
やはりな。グラフィックだけの幻影だ。
(さて、こっちの番だ)
俺は短剣を逆手に持ち、ボアのいない「何もない空間」に向かって踏み込んだ。
そして、剣を振るう直前、俺はメニュー画面を一瞬だけ展開し、あるアイテムを使用した。
『携帯椅子』。
戦闘中に使うようなアイテムではない。ただの休憩用オブジェクトだ。
だが、俺はそれを、ボアの「本来の座標」と「壁」の隙間にねじ込むように設置した。
ガガガガガガッ!!
凄まじい異音が森に響く。
俺が出した椅子と、ボアの座標が重なりし、物理演算エンジンが悲鳴を上げたのだ。
システムは「二つの物体が同じ座標にある」という矛盾を解消しようとして、強制的な「弾き出し」処理を行う。
ボアの巨体が、見えない力によって弾き飛ばされた。
それも、上空へ向かって。
地面の摩擦すら無視した、物理法則の彼方へ。
「ブギィィィィィィッ!?」
遙か上空へ打ち上げられたボアは、落下ダメージの計算式に捕まった。
このゲームの落下ダメージは、高さの二乗に比例する。
数秒後。
ドォォォォォン!!
隕石が落ちたような衝撃音と共に、ボアが地面に叩きつけられる。
HPバーが一瞬で消し飛び、ポリゴンの破片となって爆散した。
静寂が戻る。
残されたのは、ドロップアイテムの牙と、口をあんぐりと開けた戦士だけだ。
「な……何をしたんだ? 剣も振らずに……」
戦士が震える声で問う。
俺は地面に落ちた牙を拾い上げ、肩をすくめた。
「椅子に座らせてやっただけだ。ちょっと席が悪かったみたいだがな」
「い、椅子……? お前、一体何者なんだ?」
戦士が俺の顔を覗き込む。
俺はニヤリと笑い、自分の頭上に表示されているであろう、真っ赤なカーソルを指差した。
「俺か? 俺はナギ。運営に『世界を壊す』と恐れられて永久BANされた、ただの不正利用者さ」
俺は戦士の返答を待たず、踵を返す。
視界の端で、障害記録が滝のように流れていた。
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[SYSTEM NOTICE]
> Experience gained: ERROR
> Object collision detected.
> Reporting to Admin... [Failed]
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(報告できる管理者がいればいいんだがな)
俺は心の中で毒づきながら、さらに深く、崩壊が進む森の奥へと歩き出した。
この先には、俺がBANされる前に隠しておいた「遺産」が眠っている。
世界が壊れれば壊れるほど、俺は強くなる。
さあ、クソ運営が放置したこのゴミ溜めを、最高に面白い「ゲーム」に書き換えてやろうじゃないか。




