わたしを見捨てたのは、そちらでしょう? 〜婚約破棄を言い渡したあと、随分と困った事態に陥っているようなので見に行くことにした〜
昼休み。
数刻前まで商人たちで慌ただしかった商会ギルドに、ようやく平穏が訪れた頃。
背後から聞こえてきた声に、レミリアは手を止めた。
「……アステル家はもう終わりかもしれんな」
「あ、聞いた聞いた。財政危機だって?」
「それもあるらしいが、身内内で横領を隠そうとしたのが致命的だったとか」
「まじ!? 身内って?」
「噂じゃ、横領したのは次男らしいぜ」
アステル家。
かつて、彼女が未来を預けるはずだった名。
彼らの会話に、レミリアは小さな笑みを浮かべて誰にも聞こえない声で呟いた。
「ふふ、ついにバレてしまったのですね」
——いつかはそうなるだろうと思っていた。
数年前、彼女はアステル家三男、ヴァン・アステルの婚約者だった。
婚約が決まり、屋敷に迎えられたその日から、彼女はアステル家にとって『役に立つ存在』であることを求められた。
彼女にできることは多くなかった。
ただ一つ、数字の流れだけは誰よりも正確に見えていた。
その才覚はアステル家の日々でさらに磨かれることとなった。
赤字を生む取引を洗い出し、資金の流動性を回復させ、数字の裏付けのない支出を容赦なく切り捨てる。
アステル家から感謝されることは少なかったが、それで構わなかった。
金と物と信用が、途切れずに循環すること。
それが、家の安定につながるのだから。
異変にいち早く気付いたのはもちろんレミリアだった。
次男の横領が発覚したのだ。
だが、それをヴァンに報告すると生活は良くない方向へと転がり始めた。
そんなはずはない、彼女は嘘をついている、と次男は言った。
アステル家の名前に傷がつくことを恐れた彼らは、濡れ衣を着せる相手として。
商会の数字を全て管理していた彼女を選んだ。
そこからの流れは早かった。
婚約破棄に解雇、そのまま屋敷からの追放された。
あれから何年経ったのだろうか。
レミリアは天井を眺めて考えた。
(……よく数年持ったものですね、さすがは王都一のアステル家と言うべきでしょうか)
だからこそ、レミリアは思ったのだ。
——最後に一度、自分の目で落ちていく姿を見てみようと。
そして次の休日、レミリアはアステル家の屋敷へと向かった。
アステル家の屋敷は記憶の中の姿よりもずっと小さく見えた。
門は軋み、庭は荒れ、噴水は干上がっている。
人が住んでいるはずなのに、どこか空気が澱んでいた。
心に余裕がないと生活も廃れるというが、ここまでなのか、とレミリアは内心苦笑した。
哀れでも、喜びでもない。
ただ胸の奥に、言葉にできない何かが沈んでいた。
屋敷を外から眺めていると、背後で慌てた足音がした。
「……レミリア?レミリアなのか!?」
振り返ると、ヴァン・アステルが立っていた。
かつての余裕はなく、顔色も冴えない。
だが、その目が彼女を捉えた瞬間——
一気に光が宿った。
「戻ってきてくれたんだな……!」
その声音に、切実な期待が滲んでいた。
彼は本気で信じたのだ。
彼女が、この家を救いに来たのだと。
レミリアは、その視線を正面から受け止め、静かに首を横に振った。
「違います、ヴァン様」
「は、え……?」
声は落ち着いている。
感情を挟む余地はなかった。
「私は、見に来ただけです」
ヴァンの表情が、一瞬で揺らぐ。
「ヴァン様はなにか勘違いしているようですね。そもそも追い出したのはそちらですよ? 私の判断で戻ってこれるはずもないでしょう?」
「そ、そうだな!では、私から父上に!」
「ヴァン様は相変わらずお馬鹿のようで安心しました」
「何を言ってるんだ」
「ふふ、それはこちらのセリフですよ」
きっぱりと告げると、彼の顔から血の気が引いた。
「冗談はよしてくれ、今は……今は状況が違うんだ」
「ええ。知っています」
レミリアは屋敷に視線を向けた。
荒れた庭、閉ざされた窓、減った使用人。
「取引先が離れ、支払いが滞り、信用が失われている。今のアステル家は、商会としても、公爵家としても、非常に危ういみたいですね」
「なら尚更だ!」
ヴァンは声を張り上げた。
「君なら立て直せる!以前だってそうだっただろう!」
その言葉に、レミリアの胸がわずかに軋んだ。
——彼は、何も分かっていない。
「以前は、私の判断を受け入れる土台がありました」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「今はありません。都合が悪くなれば、また誰かを切り捨てるでしょう」
「そんなことは……!」
「本当に?」
「ほ、本当だ!もう君を捨てることはしない。あの時は仕方なかったんだ!家を守るためには、誰かが犠牲になるしかなかった!」
「ようやく私を捨てたことを認めてくれましたね、はっきり自覚してくれたようで何よりです」
その一言で、ヴァンは言葉を失った。
沈黙が、重く落ちる。
やがて彼は、苛立ちを隠そうともせず叫んだ。
「結局、君だって見捨てるんじゃないか!家が苦しい時に!本当に昔から君は冷たい女だ!」
その叫びを聞いても、レミリアの表情は変わらなかった。
ただ、心の奥で、最後の迷いが静かに消えた。
「冷たい、ですか」
穏やかな声だった。
「私が罪を押し付けられた時、あなたは私を守ってくれましたか?」
ヴァンは口を噤んで、目を逸らした。
「屋敷を追い出された時、私の行き先を少しでも考えてくれましたか?」
沈黙。
「仕事を奪われた私が、どう生きていくのか、今の今まで想像しましたか」
彼は、俯いたまま動かない。
「……それが、すべてです」
レミリアは、もう彼を見ていなかった。
踵を返し、歩き出す。
背後から、何か言いたげな気配はしたが気には止めない。
数歩進んだところで、足を止めて振り返る。
そして、ヴァンを見て淡々と告げた。
「——最初に見捨てたのは、そちらでしょう?」
それは責めでも、怒りでもなかった。
ただ、否定しようのない事実の確認だった。
レミリアは再び歩き出す。
背後で崩れていくものの気配を感じながらも、レミリアは振り返らない。
これから先の人生、もうここへ訪れることはないだろう。
彼女の歩みは、もう迷うことなく、前へと続いていた。




