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追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話  作者: 埴輪庭
第三章

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第64話 渡し場まで

 ◆


 翌朝のメルリンゲンは霧に沈んでいた。


 集落の石屋根から立ち上る湯気が谷間の冷気に触れて白い帳となり、二十戸ほどの建物はその中にぼんやりと輪郭だけを残している。宿の窓を開けると濡れた草と鉄錆の混じった匂いが鼻腔に流れ込んできた。温泉の鉄分が夜露と反応したのだろう。


 荷物はもうまとめてある。パン屋で買い足した黒パンの包みも荷袋の底に収まっている。


 シャールが旅装の紐を締め直していると、窓際に立ったセフィラが街道のほうを眺めたまま小さく呟いた。


「シャール」


「ああ」


「こんなにのんびりしていて、よいのでしょうか」


 声にやや翳りがあった。


「わたくし、すっかり浮かれてしまっていましたけれど……わたくしたちは追われている身ですのに。温泉に浸かって黒パンを買い足して、寄り道までして」


 シャールは紐を結ぶ手を止めなかった。


「私はむしろ、これでいいと思っている」


「え?」


「寄り道をするくらいのほうがいいと言う事だ」


 セフィラが振り返った。シャールは荷袋の口を閉じてから顔を上げる。


「軍学の教本によれば、優れた追手は逃走経路を読むのではなく、逃げる者の心を読むのだそうだ。事実、騎士団の実戦教練でもそのような事は多々あった」


「心を?」


「ラスフェルへ逃れようとした時のことを思い出してくれ。なぜああもあっさりと捕捉されたか」


 セフィラは黙った。あの夜の記憶が蘇ったのだろう。逃亡の最初の夜、闇の中を走り続けた二人に追手が迫った。間一髪で退けたが、追いつかれること自体が問題だった。


「あの時の私たちにはラスフェルしか逃げ場所がなかった。辺境の自由都市、王国の手が届きにくい場所。だがそれは追手にも自明なのだ。目的地がひとつしかない人間の足取りは容易に読める。最短経路を辿られて、あっさりと方角を割り出された」


 シャールが窓辺に歩み寄り、セフィラの隣に立った。


「だが今の私たちには目的地がない。帝都へ向かってはいるが急いではいない。温泉に寄ることも黒パンを買い足すこともする。追手が仮にこの南街道を嗅ぎつけたとしても、寄り道をする人間の足取りは読みにくい。予測ができないからだ」


「……なるほど」


 セフィラの瞳にいつもの光が戻りつつある。


「つまり、のんびりと旅をすること自体が一種の偽装になる、と」


「偽装というほど大袈裟なものではない。ただ、逃げている人間の顔をしていないということは、それだけで追手の目を掻い潜る助けになる」


 セフィラはしばらくシャールの横顔を見つめていた。それから小さく息を吐いて微笑む。


「王族教育の賜物でしょうか?」


「元、だ」


「ええ。元、ですわね」


 セフィラの声にはもう翳りがない。安堵というよりは納得の色だ。シャールが理で不安を解体してみせたことが、この女にとっては何よりの鎮静剤なのだろう。


 霧が薄くなり始めていた。谷間に朝の最初の光が差し込み、湯気の帳を金色に染めている。


 ◆


 メルリンゲンの脇道を登って南街道に戻ると、分岐点に乗合馬車が一台停まっていた。


 当たり前だが、御者は昨日セフィラたちを降ろした御者とは別の男だ。痩せた馬が二頭、鼻面を地面に突っ込んで道端の草を食んでいる。荷台はまだ空に近い。


 御者に行き先を告げて銀貨を払い、荷台の板に腰を下ろす。馬車はまだ動かない。出発の刻限まで間がある。


 しばらくすると街道の向こうから人影が二つ近づいてきた。


 老夫婦である。


 男のほうは背が高い。白髪を後ろに撫でつけ、深い藍色のローブを着込んでいる。布地の光沢と襟元の刺繍が学者か高位の官吏であることを物語っていた。顔の皺は深いが目は澄んでおり、杖代わりの長い木の棒を突きながら歩く足取りは老人のそれにしては確かだ。


 妻のほうは小柄で丸い眼鏡をかけている。こちらも仕立てのよいローブだが裾に泥が跳ねており、肩から提げた革鞄の口からは乾燥させた草の束が覗いている。採集帰りの匂いがした。


 二人は荷台に乗り込んでシャールたちの向かいに腰を据えた。


「やあ。おはよう」


 男のほうがシャールに声をかけた。しわがれた声だが底に温みがある。


「どちらへ行かれるのかな」


「帝国のほうへ。フォルカの渡し場を経て帝都まで」


「おお、帝都か。儂らもそうだよ。道連れだね」


 女のほうがセフィラに目を向けた。丸い眼鏡の奥の目がやわらかく細まる。


「冒険者さんですか? お若いのに大変ねぇ」


「ええ。わたくしたちは辺境から参りましたの。帝都の冒険者ギルドについてお詳しいですか?」


 セフィラの問いに男のほうが苦笑した。


「帝都の冒険者はね、冒険や旅をしているわけじゃないんだよ。穴掘りをしとる」


「穴掘り、ですか」


「帝国は土の魔力に満ちた土地でね。良質な鉱石がいくらでも出る。それを建築や軍備に回すのが国の根幹だよ。西のほうで諸国連合とずっと睨み合っとるし、版図も広げたがっとるから、鉱石の需要には際限がない。だから帝都の周辺には鉱山がいくつもあって、冒険者ギルドはその採掘事業に人手を出しとるわけだ」


 バーヴェラから聞いたことのある話だった。だが語り手の言葉を「知っています」で遮ることは、宮廷の教育でもっとも早くに戒められる無作法である。隣のセフィラが口を挟まないのも同じ理由だろう。


 男は長い棒を膝に渡して続けた。


「新しい坑道の先遣調査、鉱脈沿いに棲みつく魔物の駆除、採掘現場の護衛。辺境の冒険者が来ると面食らうらしいね。剣と魔法で冒険をするつもりで帝都に来たのに、蓋を開けたら最初の依頼が坑道の掘削補助だったりする。まあ、報酬は悪くないんだがね。夢のある話ではないよ」


「それはまた……想像と違いますわね」


 セフィラが少し困ったような顔をした。


「もちろん冒険者らしい依頼もありますよ」


 女のほうが補った。眼鏡を指で押し上げながら。


「採掘ばかりでもないですよ。帝都から半日も馬を走らせれば未開の森や古い遺跡がありますからね。探索や護衛の依頼は郊外の支部が扱っています。それに学院も冒険者に調査の依頼を出しますし」


「学院?」


 セフィラの声が僅かに上がった。知の気配を嗅ぎつけた時に浮かぶあの輝きが翠色の瞳に灯る。シャールは隣でそれを見て、ああ始まった、と静かに思った。


「お二方は学院の方でいらっしゃいますの?」


「ええ、まあ」


 男が頭を掻いた。


「儂はヴォルフ。皇立学院で鉱物と地質をやっとる。こっちは家内のエルザ。薬草学だよ」


「あら、あなた。自己紹介が雑ですよ」


 エルザがヴォルフの脇腹を肘で突いた。ヴォルフは痛そうに身を捩じりながらも笑っている。


 セフィラが居住まいを正した。目の色が変わっている。


「鉱物学と薬草学。……お聞きしてもよろしいですか、フランシス・セラ・アンブルームの万粒論の原典は学院にございますか」


 ヴォルフの白い眉が動いた。


「アンブルームか。ずいぶんと渋いところを突いてくるね」


「読んだことがおありで?」


「読んだも何も、儂の講義で使っとるよ。第三書庫に写本が二部ある。一部は虫食いがひどいがもう一部はかなり状態がいい。まあ異端の書だからね、棚の奥に押し込まれて埃を被っとるが」


 セフィラの目が輝きを通り越して燃えている。シャールはその横顔を見て、フォルカに着くまでにこの会話が終わる見込みはないだろうと悟った。


「キャイバーラ・ヘンケンの調和論もございますか」


「ヘンケンもか。君、いったい何者だね。随分趣味が渋いではないか」


「ただの冒険者ですわ」


 セフィラはにこりと笑った。花が咲くような笑顔だ。


 エルザが眼鏡の奥で目を細めてセフィラを見つめている。何かを値踏みするような、だが悪意のない視線だった。


「調和論もありますよ。第二書庫の医学棚ですね。ヘンケンの自筆ではないけれど、弟子のバルテルスが書き写した写本が残っています。あなた、帝都に着いたら学院の書庫に来なさいな。紹介状を書いてあげましょう」


「本当ですか」


「本当ですよ。書庫は外部の方にも開放していますしね、紹介があればすぐに入れます」


「ありがとうございます!」


 ヴォルフがエルザと目を見合わせて笑った。


「いい目をしとるね、この子は。学ぶ者の目だ」


「ええ。将来有望ですねぇ」


 馬車が動き出した。車輪が砂利を噛んで軋み、馬の蹄が石畳を打つ。メルリンゲンの脇道が後方に流れ、南街道の本線に合流すると道幅が広がった。


 ◆


 フォルカまで半日の道のりだ、とヴォルフが言った。


 街道は緩やかな下り勾配を描いて南へ延びている。丘陵地帯の尾根に沿う区間を抜けると平地に出た。視界が開ける。灰色の石壁に囲まれた畑が左右に広がり、その向こうに常緑の林が帯をなしている。空は高く晴れ渡り、昨日までの薄曇りが嘘のようだった。


 風が温い。マルディンの煤混じりの乾いた風とは明らかに質が違う。水気を含んだ柔らかい風が肌を撫でていく。


「ミルノ川が近いからねぇ。水の匂いがするでしょう」


 エルザが鼻をひくつかせて言った。セフィラも同じように顔を風に向けている。確かに土と草の匂いの底にかすかな水の気配がある。川の気配だ。


 ヴォルフはシャールと並んで荷台の縁に腰掛けている。セフィラとエルザは反対側で何やら薬草の話を始めていた。エルザの革鞄から乾燥した草の束が取り出され、セフィラがそれを手に取って匂いを嗅いでいる。


「お連れさんは学者向きだね」


 ヴォルフが低い声で言った。


「ええ。本人もそう思っているでしょう」


「なぜ冒険者を? 服装を見れば冒険者らしくもあるが、雰囲気がどうもそぐわない」


 シャールは少し間を置いた。


「まあ──色々とあるのです」


 聞いてくれるな、という感じの苦笑を浮かべるシャール。これもテクニックと言えばテクニックだ。余計な事を聞くなと言うだけでは角が立つ。そこへちょっとした苦笑を加えれば、角が丸みを帯びる。


「ふむ」


 ヴォルフはそれ以上追わなかった。代わりに街道の先を指した。


「あの丘を越えるとミルノ川が見えるよ。いい景色だ。儂はこの街道を十何度も往復しとるが、あの丘の上からの眺めだけは何度見ても飽きない。イーノ・タランタッカの『大陸記』にもここからの眺めの素晴らしさが書いてある。著者のイーノは商人でありながら知的好奇心が旺盛でね。彼は世界の広さを知りたいと考えたそうだ」


「世界の広さ──」


 シャールの声には、なにか含まれるものがあった。


「ああ。世界は広い。それは多くの者が知っている。だが、どれだけ広いのかを正確に見極めようとした者は数少ない。イーノはその一人だね」


 馬車は丘の斜面を登り始めた。道の両側に銀葉の常緑樹が並び、枝の隙間から空が覗いている。木陰を抜けるたびに光と影が交互に荷台を横切った。


 丘の頂に出た時、セフィラは「まぁ……!」と感嘆した。


 視線の先に大きな川が横たわっている。


 ミルノ川だ。幅は百メトルを優に超えている。深い翡翠色の水面がゆるやかに蛇行しながら東西に延び、両岸には枝垂れた木々が水面に向かって腕を伸ばしている。川面に陽光が散って細かい金粉を撒いたように輝いていた。対岸は平坦な沃野がどこまでも続き、地平線の際に霞んだ建物の影が見える。


 手前の岸に小さな町が張りついている。石造りの建物が河岸に沿って並び、川に突き出す形で桟橋が三本。渡し船が一艘、桟橋に繋がれて揺れているのが見えた。


「あれがフォルカだよ」


 ヴォルフが言った。


 セフィラが薬草の話を中断して立ち上がった。荷台の縁に手をかけ、風に髪を靡かせながら眼下の川を見つめている。


「綺麗ですわ……」


 シャールとしても同感だった。王国の山がちな風景とは何もかもが違う。広い。平坦で、遠くまで見渡せる。この川を渡れば帝国だ。


 馬車は丘を下り始める。フォルカの石壁が近づいてくる。渡し場の桟橋に人の姿が見え始め、対岸から船が一艘、水面に白い航跡を引きながらこちらへ向かってきていた。


下記URLはHTMLで作成した内容をクラウドフレアにデプロイしたものです。まあ雰囲気を出すために作成しました。


第64話のヴィジュアルノベル

https://hiyoku-episode64.pages.dev/


イーノ・タランタッカ著「大陸記」

https://hiyoku-tairiku-ki.pages.dev/


第63話のヴィジュアルノベル

https://hiyoku-episode63.pages.dev/


キャイバーラ・ヘンケン著「調和論」

https://chouwaron.pages.dev/


南街道の旅のしおり(マルディンから帝都)

https://hiyoku-shiori.pages.dev/


ウェザリオ王国史観

https://weatherio-historia.pages.dev/


フランシス・セラ・アンブルームによる万粒論

https://manryuuron.pages.dev/

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自作の長編と短編を宣伝。長編は大体ブクマ1000~1500くらいのやつ。短編は直近二ヶ月で書いたやつをポイント降順に。

【長編】

アステールの血を引く者は魔術に優れる事甚だしく、特にハイン・セラ・アステールはアステール史上もっとも強大な魔力を誇る麒麟児であった。
"本来の歴史" では彼は傲慢で邪悪な典型的悪役貴族であったのだが、並行世界では一味違う。
いや、二味違う。
一味目は、彼が極度のマザコンだという点だ。
平行世界のハインもまた本来の歴史のハインと同様に邪悪なのだが、母への愛が魔と邪を覆い隠す。
勇者も聖女も元婚約者も、彼にとってはどうでもいいことだ。
ハインはただ母と静かに安らかに暮らしたいだけで、それを邪魔する者全てが彼の敵である。
では二味目はといえば、それは彼が本来の歴史のハインよりも遙かに強大な魔力を有し、遙かに強大な魔術を操るという点だ。
愛する母に格好いい姿を見せたいがために努力を重ねた天才──ハインに不可能はない。
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呪いの動画を見てしまった。
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だが故人をAIで再現するサービスを知り、膨大な写真やメール、声の記録を入力して亡き妻を蘇らせる。
画面越しに再開した会話は空虚だった日常を少しずつ温かく満たしていく、が。
「電影」

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一人でいると死亡率が跳ね上がる異常事態。
国民すべての運が急激に悪化したのだ。
かつて「他人と関わるな」が常識だった社会は一変し、人々は見知らぬ者同士で命を預け合うようになった。
「運の尽き」

あるところに女の子がいました。
女の子はもう死にます。
「光り、きらきら」

「私たち四人は対等なの」──女の提案で始まったのは、三人の男が一人の女を共有する異常な日々だった。
弁護士の真司は漁師の啓二、バーテンダーの了と共に、愛する妻・莉子と暮らしている。
かつては嫉妬に狂い、互いに殺意すら抱いた男たち。
しかし奔放な妻に振り回され、同じ苦しみを共有するうちに、敵同士だったはずの三人の間には奇妙な連帯感が芽生え始める。
「オープンマリッジ」
― 新着の感想 ―
文章の格調が高く、貴種流離譚というのも頷ける重厚なファンタジーで楽しみに読んでいます。挿絵入りの出来がまた良くて、雰囲気に浸りながら読んでいましたら、「大陸記」の伊能忠敬で不意打ちをくらい、笑ってしま…
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