第62話 風と轍
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南街道二日目の朝は薄曇りの空に始まった。
昨夜の宿場を発った乗合馬車は顔ぶれが変わっている。修道服の老女と若い母親は宿場で降りた。老女は街道沿いの修道院へ身を寄せるのだと言い、若い母親は実家へ帰るのだという。
代わりに乗った客が二人いた。測量の道具箱を膝に載せた痩せた若者と、背負い箱から薬草の匂いを漂わせる白髯の老人である。どちらも寡黙というよりは、朝の冷気に辟易して口を閉ざしているといった所だろうか。
唯一の古顔である行商人フェルディスはしかし、朝から好調であった。まあべらべらと喋る。昨日は御者との世間話に終始していたこの太った男だが、今朝はシャールとセフィラを話し相手に選んだらしい。
「あんたたち帝都に行くんだって? 冒険者かい?」
干し肉を齧りながらの問いかけにシャールが短く肯いた。
「帝都は初めてかね」
「ああ」
「そりゃ楽しみだ。あの街は何もかもでかい。門だけで首が痛くなるよ」
フェルディスは二十年余りこの南街道を往来してきた商人だ。マルディンで仕入れた金属加工品を帝国の市で捌き、帝国の布地や香辛料を王国側へ持ち帰る。街道が商いの血管であり荷馬車がそこを流れる血液であるなら、フェルディスはその血球の一粒として二十年間休まず循環し続けてきた男ということになる。こういう人間の話は百の学術書より正確に世の中の手触りを教えてくれることがある。
「お聞きしてもよろしいでしょうか」
セフィラの翠色の瞳がきらりと光った。知の気配を嗅ぎつけた瞬間に浮かぶあの輝きである。シャールは隣でそれを見て小さく息を吐いた。始まった、とでも言いたげな吐息だが、止める気は毛頭ない。むしろ情報収集という意味では自分には出来ない踏み込み方をしてくれるので助かってすらいる。ただ、まあ興が乗るとやたらと話が長くなり、相手が怒りだしてしまう事もある。シャールが心配しているのはその辺の事だ。
「帝国ではお金は王国と同じものが通用しますの?」
「いんや、違うよ。帝国はロートっていう銀貨でね。王国の銀貨より気持ち重い。純度も帝国のほうが上さ。だから両替すると目減りする。十枚出して九枚戻ってくる計算だ」
「一割も目減りするのですか。ではマルディンのような街では」
「マルディンは自治都市だからどっちの銀貨でも通る。ただ帝国寄りの店はロートで値段をつけてるから王国銀貨で払うと嫌な顔をされるね。両替屋は街道沿いの宿場にだいたいある。渡し場のあるフォルカの町がいちばん率がいい」
「フォルカ。南街道の中継地ですわね」
「ああ。ミルノ川の渡し場がある。あそこを越えると帝国の舗装街道に入るから道がぐんと良くなるよ。馬車も楽になる」
セフィラは頷きながら一つ一つを記憶に刻んでいる。問いの矢は尽きる気配がない。
「帝国と王国の間に国境の関所はあるのですか」
「ないよ。そもそもこの辺りに国境線なんてものは引かれていない」
フェルディスが干し肉を飲み込んで指で街道の前方を示した。
「王国と帝国の間には自治都市が六つ七つ連なっていてね。ラスフェルもそのひとつだ。どこまでが王国でどこからが帝国かはまったく曖昧なもんさ。名目上は条約で線が引いてあるが、実態は自治都市の顔色次第だ。あいつらは王国の旗も帝国の旗もどっちも掲げないからね」
「緩衝地帯ですわね」
「そう。だからこそ行商人にとっちゃ都合がいい。関所がないから通行税もかからない。この自治都市帯を抜けて帝国の管轄に入ると途端に税を取られるんだがね」
シャールは黙って聞いていた。だが──
「その緩衝地帯に、王国の兵は立ち入れるのか」
「立ち入れなくはないが面倒だ。自治都市はよそ者に厳しいし、ましてや軍を入れたら自治権の侵害になる。外交問題さ。王国も帝国もそこには手を出さないのが暗黙の了解だよ」
シャールは何も言わなかったが肩の力がほんのわずかに抜けた。追手の影がまた少し遠くなったのだ。
「ところであんたたち、見るからに訳ありの顔だが」
「訳がない旅人などいませんわ」
セフィラがにこりと微笑んだ。花が咲くような笑顔だが質問を受け流す時の笑顔でもあることはマルディンで実証済みだ。フェルディスは肩をすくめて干し肉の残りに歯を立てた。
「違いないね」
荷台の反対側で白髯の薬売りがぽつりと口を開いた。
「いい夫婦だね」
シャールとセフィラが同時に声の方を向いた。荷台の隅で黙り込んでいたはずの老人が背負い箱に凭れたまま薄く笑っている。
「婚約者ですの」
セフィラが訂正した。否定はしていない。
薬売りは「ああそうかい」と呟いて目を閉じた。それきりまた黙り込む。
まあ悪い沈黙ではなかった。
◆
昼前に馬車が宿場に停まった。
宿場と呼ぶのも憚られるほどの小さな集落だ。街道の脇に石造りの宿が一軒と井戸がひとつ、馬を繋ぐ柵があるばかりで、あとは冬枯れの畑が低い丘の向こうまで広がっている。御者が馬に水を遣り荷台の縄を締め直しているあいだに乗客たちは足を伸ばした。
街道の分岐点に石柱が立っている。シャールの腰ほどの高さの角柱で四面にそれぞれ文字が刻まれ、上部には鷲の紋章が浮き彫りにされていた。
「里程標ですわ」
セフィラが歩み寄り文字を指でなぞった。
「帝都まで百十二レグア。フォルカまで十八レグア。マルディンまで四十三レグア──帝国の距離単位ですわね」
「四と三分の一ミルで一レグアだよ。正確には」
声の主は測量士の若者だった。名をルッツという。頬がこけて目の下に隈がある。帝国の土木局から派遣されて南街道の里程標の修繕と再測量を行なっている男で、馬車の中ではひと言も喋らなかったが里程標が話題に上った途端に口が滑らかになるのは職業病というものだろう。
「この石柱は四十年くらい前のものだね。風雨で刻みが浅くなってる。僕はこれを彫り直しに来たんだ」
「帝国は道路の維持に熱心だとお聞きしましたけれど、里程標の修繕まで中央から測量士をお遣わしになりますの?」
「うん。帝国は街道を国の背骨と考えているからね。軍の行軍速度、物資の輸送量、通行税の計算──全部が正確な距離に懸かっている。里程標が読めなくなったら行軍計画が狂う。だから里程標の管理は重要なんだ」
ルッツは石柱の四面を順に示しながら説明した。北面に帝都への距離、南面にマルディンへの距離、東面と西面にそれぞれ分岐先の町への距離。四面すべてに鷲の紋章と設置年号が彫り込まれている。
「ウェザリオ王国にはこうしたものはないのですか」
「王国は街道の管理を各領主に委ねているから、まちまちだよ。領主が熱心なら立派な道標があるけど、そうでなければ道がぼろぼろのまま放置されている。帝国は違う。道路は皇帝の直轄だ。どの街道を歩いても同じ規格の石柱が立ち同じ幅で舗装されている。統一された基盤が版図の拡大を支えているんだよ」
セフィラは目を輝かせて聞き入っている。石柱ひとつに帝国の統治思想が凝縮されていることが愉しくて仕方がないのだ。
シャールは井戸の縁に腰掛けて二人の会話を拾っていた。距離を精密に管理し里程標の一本に至るまで中央が掌握する。軍の展開速度を支える基盤だ。バーヴェラが語っていた帝国の版図拡大がどのような足場の上に成り立っているかが、石柱ひとつから読み取れる。
「フォルカまで十八レグア。馬車の速度なら」
「二日だな」
シャールが答えた。
セフィラがちらりとシャールを見る。まるで「よくできました」とでも言わんばかりの笑みを浮かべながら。
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ルッツはこの宿場で降りた。次の里程標が待っているのだ。馬車を降り際に振り返り──
「帝都に着いたら南大門の里程標を見てくれよ。あれが帝国のすべての距離の起点だ。あそこに立つと帝国の広さが分かるよ」
と言い残して道具箱を抱えて歩いていった。痩せた背中が里程標の脇を通り過ぎ、冬枯れの畑の向こうに小さくなる。
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午後になると馬車は静かになった。
フェルディスがいびきを立てて眠り込んでいる。鼾の大小が馬車の揺れと奇妙な拍子を刻んでおり薬売りの老人は背負い箱に凭れて目を閉じ、起きているのはシャールとセフィラだけだった。
街道の両側の風景が変わりつつある。マルディン周辺は冬枯れの畑ばかりだったが南に下るにつれて常緑の灌木がちらほらと目につき始めた。痩せた土が黒く湿った土に変わり、水路の跡らしい窪みが畑の縁を走っている。空気の匂いも違う。鉱山町の煤と硫黄が記憶の彼方に退き、土と草と冷たい水の匂いが鼻腔に馴染み始めている。
「気候が変わってきていますわね」
セフィラが呟いた。視線は街道の脇に群生する灌木に向いている。
「標高が下がって温暖になっているのでしょう。あの常緑の灌木──たしかクリューネルの植生地理誌に載っていましたわ。霜の少ない土地の指標種だとか」
「帝国に近いんだな」
「ええ。帝国の中心部は温暖な平野ですもの。フェルディスさんが仰っていた通り、フォルカの渡しを越えたら景色ががらりと変わるのでしょうね」
荷台の端に並んで座る二人の肩が触れている。馬車が揺れるたびに互いの体重がわずかに寄り合い離れる。どちらも避けない。
「帝都に着いたら図書館に行きたいですわ」
「ああ。帝都の書庫は豊かだと聞いている」
「皇立学院には王国の十倍の蔵書があるとか。万粒論の原典が残っているとすれば帝国の書庫しか考えられません。あのフランシス・セラ・アンブルームの原著が読めたなら」
万粒論。万物は目に見えぬ粒で構成されており四大属性はその粒の振る舞いに付けた名に過ぎないという異端の学説だ。
「やりたいことが多すぎて困るのではないか」
セフィラは一瞬きょとんとした。それから翠色の瞳を細めて笑った。口元には出さない笑みだが目が笑っている。
「困るのは嬉しいことですわ。やりたいことがないよりずっと」
風が冷たくなってきた。陽が西に傾き始めている。
シャールが荷物の中からセフィラの上着を引き出して肩にかけた。
「ありがとうございます」
「風が出てきたな──」
それだけの会話だ。だがセフィラは衿を合わせる指先でシャールの手の甲に触れた。
「お若いの」
目を閉じていたはずの薬売りが声を出した。
「フォルカの手前に薬湯の湧く宿場がある。メルリンゲンという小さな温泉場でね。旅の疲れを落とすにはいい。急がないなら寄ってみなさい」
「ご親切にありがとうございます」
「年寄りの唯一の財産は道の記憶だからね。使ってやっておくれ」
老人はそれだけ言ってまた目を閉じた。
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日暮れにカンネンベルクという宿場町に着いた。
街道を跨ぐ石の門がこの町の入口で、門柱に例の鷲の紋章が刻まれている。ルッツが管理していたのと同じ規格の里程標が門の脇に立ち、帝都まで百四レグアと示していた。帝国の統治の輪郭がじわりと近づいてきている。
フェルディスが「ここの黒パンは南街道で一番うまい」と太鼓判を押した宿に入り、安い部屋を取った。
部屋に荷物を下ろすとセフィラは小さな窓から外を眺めた。沈む陽の残光が畑の上に橙色の帯を引いている。
「明日にはフォルカに届きますわね」
「ああ。両替はフォルカでいいだろう」
「薬売りのおじいさまが仰っていたメルリンゲンの温泉場にも惹かれますわ」
「急ぐ旅ではない、そこにも行ってみよう」
シャールがベッドの端に腰掛けた。セフィラは窓辺に立ったまま、沈んでいく太陽を見ている。
暮れゆく日の光に照らされたセフィラの横顔を、シャールはいつまでも眺め続けていた。
南街道の旅のしおり(マルディンから帝都)
https://hiyoku-shiori.pages.dev/
ウェザリオ王国史観
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フランシス・セラ・アンブルームによる万粒論
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本URLはHTMLで作成した内容をクラウドフレアにデプロイしたものです。まあ雰囲気を出すために作成しました。




