第52話 地の底の獣
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マルディンの冒険者ギルドは、一言で言うならば石と鉄で出来た箱だ。
まず入口の扉からして違う。ラスフェルのギルドは木製の両開き扉で、押せば軽く開いたものだが、ここは鉄板を張った片開きの重い扉で、開けるだけで一苦労だ。扉の表面には無数の傷がついており、それが拳によるものか刃物によるものかは判然としない。
中に入ると薄暗かった。窓が小さいのだ。採光よりも堅牢さを優先した造りで、壁は煤けた石積み、天井の梁は太い鉄骨で補強されている。鉱山町のギルドは、建物そのものが坑道の延長のようだった。
壁には一面に依頼書が貼り出されている。紙の色は様々だが、目を引くのは赤い判の押されたものが異様に多いことだった。「緊急」の二文字。それが壁の半分以上を占めている。
奥のテーブルでは冒険者たちが酒を飲んでいた。朝だというのにだ。杯を傾ける手つきに陽気さはなく、眉間に皺を刻んだまま、ただ惰性で喉に流し込んでいるようだった。余り陽気な感じはしなかった。
受付のカウンターに近づくと、中年の男が顔を上げた。目の下に濃い隈があり、頬がこけている。名札には「ヘルツ」と書かれている。
「どうも。ああ、他所からいらっしゃったので? いえ、顔を見ればわかりますよ。それで、何かご用件でも?」
「──地脈虫の討伐依頼について聞きたい」
シャールが言うと、ヘルツの手が止まった。
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「お話しできることはすべてお話ししますがね」
ヘルツは帳面を閉じ、カウンターの裏から分厚い書類の束を引き出した。報告書の山だ。
「事の始まりは三週間前です。第七坑道の拡張工事中に、坑夫たちが地下深くで空洞に突き当たりました。自然洞窟かと思われたのですが──翌日、工事現場が襲われました」
地脈虫──シャールも名前だけは知っている。
「地中に巣を作り、振動を感知して縄張りの侵入者を排除する節足型の魔物です。成虫は人の腕ほどの太さで、全長はまあ大人二人分ってところですか。顎は鉄をも噛み砕きます」
ヘルツは淡々と語った。感情を排した声は、何度も同じ説明を繰り返してきた疲労の色を帯びていた。
「普段は地中の深い場所に棲んでおり、地上の生物と接触することはありません。何百年も前からこの地方の地下に生息していると言われていますが、人を襲うことは稀でした。問題は──」
「縄張りか」
シャールが言った。ヘルツが頷く。
「はい。採掘のツルハシの振動が巣を刺激したのです。地脈虫にとって、あの振動は縄張りへの侵入と同じ意味を持つ。一度刺激された巣は活性化し、群れ全体が狂暴化します。一匹や二匹ではない。巣から湧き出るように現れるのです」
セフィラが口を開いた。
「地脈虫は魔力脈の近傍に巣を作る傾向がありますわね。鉱脈と魔力脈は地質構造上、重なることが多い。鉱山を掘れば巣に当たる確率が高いのは、ある意味では必然ですわ」
ヘルツが驚いた顔をした。
「よくご存じで……その通りです。マルディンは豊富な鉱脈に恵まれた町ですが、その鉱脈が魔力脈と重なっているがゆえに、地脈虫との共存を強いられてきました。過去にも何度か巣が見つかっています。しかし今回の巣は──規模が違う」
ヘルツは書類の一枚を広げた。坑道の見取り図らしい。黒い線で描かれた坑道の奥に、赤い印がいくつも書き込まれている。
「坑夫五名が死亡。討伐に入った冒険者パーティが二組壊滅しています。一組は全滅、もう一組は重傷者を出して撤退。今ギルドには、地脈虫の巣を潰すか、もしくは地脈虫を討伐する依頼しかありませんよ。巣を潰せば報酬は銀貨二百枚。鉱山主と町の共同出資です」
銀貨二百枚は大きいが、果たしてそれに見合う危険とはどれほどのものなのだろうか、とシャールは考えた。
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カウンターの横のテーブルに、男が一人座っていた。
右腕を三角巾で吊り、左の頬に大きな裂傷の痕がある。まだ新しい傷だ。包帯の下から赤黒い滲みが覗いていた。眼窩の奥の瞳は虚ろで、手元の麦酒にも口をつけていない。
壊滅したパーティの生き残りだと、ヘルツが教えてくれた。
「話を聞いてもいいか」
シャールが近づくと、男はゆっくりと顔を上げた。焦点の合わない目が、シャールの顔をしばらく見つめてから、ようやく口を開く。
「……あんたも、潜るのか」
「まだ決めていない。だから聞きたい」
男は長い沈黙の後、麦酒を一口だけ飲んだ。喉仏が上下するのが見えた。それから、乾いた声で語り始めた。
「坑道に入って半刻くらいだった。最初は静かだったんだ。魔導灯の明かりだけが頼りで──松明は使えない。火が虫を刺激するから。暗い、狭い、空気が悪い。そんな中を進んでいたら、足の裏に振動が来た。地面が震えてるんだ。最初は微かだったのが、だんだん強くなって──」
男の声が震えた。
「壁から出てきたんだ。石壁の中からだ。砕けた石と一緒に、黒い体がぬるっと。一匹じゃない。壁の左からも右からも、床からも──天井からも。どこが安全な足場なのか分からなくなった。足を置いた場所が次の瞬間には割れて、そこから奴の顎が突き出てくる」
セフィラの表情が硬くなっていた。
「甲殻が硬くてな。剣で斬りつけても刃が滑る。仲間が渾身の一撃を叩き込んだのに、甲殻の表面に白い線が入っただけだった。有効打になったのは、戦鎚で殻の隙間を叩いた時だけだ。だがそれも──」
男は右腕を見た。動かない右腕を。
「倒すと体液が飛ぶんだ。あれに触れたら終わりだ。革鎧が溶ける。肌に付いたら──」
彼は右の手袋を歯で引っ張って外した。その下の肌は、火傷のように爛れていた。指が二本、根元から溶けたように失われていた。
「仲間は三人死んだ。俺だけ引きずり出された。……忠告しておく。依頼を受けるならしっかり準備しておくことだ」
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宿に戻る道すがら、二人は無言だった。
しばらく歩いてから、セフィラが口を開いた。
「整理しますわね。地脈虫は振動感知型。狭い坑道では群れに囲まれる危険が極めて高い。甲殻は硬く剣では通らない。有効なのは鈍器による隙間への打撃のみ。そして倒した際の体液が腐食性──」
指を折りながら条件を列挙していく。その声は冷静だったが、結論はすでに見えていた。
「わたくしたちの力とは余り相性が良くないかもしれませんわね」
角を曲がると宿が見えた。シャールは足を止めて言った。
「ここで依頼を受けるのはやめておこう」
セフィラは即座に頷いた。
セイルの声が聞こえた気がした。──勝てる戦いだけを選べ。ラスフェルで学んだ教訓の中で、もっとも重要なものの一つ。勇敢さと無謀は違う。
「帝都を目指しましょう。ここは通過点ですわ」
「ああ」
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午後、ギルドを再訪した。
ヘルツに辞退の旨を伝えると、一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
「承知しました。……正直に申し上げれば、止めなかった自分を恥じるべきかもしれません。お二人にはお怪我がなくて何よりです」
その声には、これまでに何組もの冒険者を坑道に送り出し、そのうちの何人かが二度と戻ってこなかったことへの疲弊が滲んでいた。
辞退の書類に署名している時だった。
奥のテーブルから声が聞こえた。わざと聞こえるように出された声だ。
「おい、聞いたか。よそ者が尻尾巻いて逃げるってよ」
杯を置く音。椅子の軋み。
「だろうな。見かけ倒しってのはこういう奴のことだ」
「根性がねえなあ。やっぱり余所から流れてきた奴は信用ならねえ」
笑い声が広がった。一人が笑えば隣も笑う。嘲りの連鎖だった。ギルドの空気が敵意を帯びていく。鉱山が止まり、町が干上がりかけている。苛立ちの矛先を向ける先があれば、人はたやすくそこに群がるものだ。
セフィラの翠の瞳がそちらを向きかけた。だがシャールが先に動いた。
「地脈虫との戦いは、地元の貴殿らのほうが慣れているだろう。地の利を知る者が挑むべき仕事だ」
静かな声だったが、ギルドの隅々まで届いた。
冒険者たちは口を噤んだ。反論が出ない。正論だからだ。しかも「貴殿ら」という丁寧な呼びかけと「地の利を知る者」という表現が、嘲笑した側の矜持を暗に認めている。馬鹿にされたのではなく、持ち上げられたのだ。それに気づいた者から順に居心地が悪くなっていく。
気まずい沈黙が長く伸びた。誰もが目を逸らし、杯に視線を落とした。
その沈黙を破ったのは、テーブルの向こうから響いた、重い足音だった。
冒険者たちの一団の後方から、大きな影がぬっと前に出てくる。
長身だった。二メトルはあろうかという偉丈夫。だが男ではなかった。短く刈り込んだ赤銅色の髪、額を横に走る古い傷跡、そして体格に見合わぬ整った目鼻立ち──笑みを浮かべると意外に艶がある、豪快な美人だった。背中には人の上半身ほどもある巨大な戦鎚が、当たり前のように背負われている。
「少しは弁えてるみたいだね」
低く、よく通る声。不敵な笑み。
周囲が道を空けた。「姐御」と呼ぶ声がどこかから聞こえた。
ヘルツが小声で補足した。
「"岩喰い"のバーヴェラ。銀等級上位。この町でもっとも腕の立つ冒険者です」
バーヴェラはシャールの前に来ると、上から覗き込むようにして──にやりと笑った。
「逃げる奴にも二種類いるんだ。怖くて逃げる奴と、考えて退く奴。あんたは後者だね」
シャールは無言で視線を返した。
バーヴェラの笑みが深くなった。
「──おまけに、顔もいい」
最後の一言は、明らかに品定めの色を帯びていた。




