第50話 虫の巣
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クレイン宿場に着いた時、日はすでに山の端に沈みかけていた。
馬車が中央広場で止まると、乗客たちが次々と降りていく。老婆は足元をふらつかせながらも、籠をしっかり抱えて地面に立った。若い男は無言のまま人混みに消えていった。
ゴルツは二人に向かって手を振った。
「では、明日の朝また。わしは馴染みの宿がありましてな」
「ああ。世話になった」
「いやいや。道連れというやつですからな」
商人は丸い背中を揺らしながら去っていった。
シャールとセフィラは広場に立ち、周囲を見回した。
魔導灯が点り始めている。橙色の柔らかな光が石畳を照らし、見知らぬ町に陰影を与えていた。旅人の姿が多い。馬車から降りた者、別の馬車を待つ者、宿を探す者。
「あそこにしましょうか」
セフィラが指差した。
通りの角に、三階建ての石造りの建物がある。看板には「銀月亭」と書かれていた。窓から暖かな光が漏れている。
二人は宿の扉を開けた。
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一階は食堂を兼ねた広間になっていた。いくつかのテーブルが並び、すでに何組かの客が食事を取っている。料理の匂いと談笑の声が入り混じっていた。
カウンターには四十過ぎの女が立っている。日焼けした肌、逞しい腕。おかみだろう。
「いらっしゃい。泊まりかい」
「ああ。二人で一部屋」
「お二人さん、夫婦?」
また同じ質問だ。シャールは面倒になってきた。
「そうだ」
きっぱり答えた。セフィラが少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
「そうかい。二階の奥から二番目が空いてる。一泊銀貨二枚、朝飯付き」
鍵を受け取り、階段を上がる。
部屋は狭かったが、清潔だった。窓際に寝台がひとつ、その横に小さな机と椅子。壁の燭台に火を点けると、淡い光が室内を照らした。
セフィラが荷を下ろし、窓を開けた。
「シャール」
「何だ」
「さっき、夫婦だとおっしゃいましたわね」
「ああ。いちいち説明するのが面倒だった」
「それだけですか」
セフィラの声には、からかうような響きがあった。
「……それだけだ」
「そうですか。残念ですわ」
シャールは答えなかった。セフィラは小さく笑い、荷物の整理を始めた。
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夕餉は一階の食堂で取った。
羊肉のシチューと固いパン。素朴な味だが、空腹の身には十分だった。
隣のテーブルでは、商人らしい連中が声高に話している。聞くつもりはなかったが、断片的に耳に入ってきた。
「──マルディンの新坑道がな──」
「──虫が出たって話だ──」
「──冒険者を何人も雇ったらしいが──」
シャールはパンを齧りながら、耳を傾けた。
「虫?」
セフィラも気づいたようだ。
「マルディンに何かあったのですか」
「分からん。だが、気になる」
シャールは立ち上がり、隣のテーブルに近づいた。
「すまない、少し聞いてもいいか」
商人たちが振り返った。警戒の色はない。酒が入っているせいだろう。
「何だね」
「マルディンで虫が出たという話を聞いたが、どういうことだ」
「ああ、あれか」
太った商人が杯を置いた。
「新しく掘った坑道でな、地脈虫の巣を掘り当てちまったらしい。坑夫が何人もやられたって話だ」
「地脈虫……」
セフィラが呟いた。顔色が変わっている。
「シャール、地脈虫は厄介ですわ。地中に巣を作り、振動を感知して獲物を襲う。成虫は人の腕ほどの太さになり、顎は鉄をも噛み砕く」
「詳しいな」
「文献で読みました。繁殖期には凶暴になり、巣全体が活性化する。討伐には専門の技術が必要で……」
商人たちはセフィラを見た。若い女が虫の生態を滔々と語る姿は、彼らには奇異に映ったのだろう。
「お嬢さん、えらく詳しいな」
「博物学を少々」
「学者さんかね」
「いえ、冒険者です」
商人たちは顔を見合わせた。
「冒険者? お嬢さんが?」
「ええ。それと、お嬢さんはやめていただけますか。わたくしにも名前がございます」
セフィラの声には棘があった。シャールは苦笑した。彼女は「お嬢さん」という呼び方を好まない。見下されているように感じるらしい。
「失礼した。で、その地脈虫の巣とやらは」
シャールが話を戻した。
「今も残っているのか」
「らしいな。冒険者を雇って討伐しようとしたが、巣が深くて手こずっているとか。おかげで鉱山は操業停止だ。町の景気も落ち込んでいる」
「なるほど」
シャールはセフィラと目を合わせた。
仕事がありそうだ。
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部屋に戻ると、セフィラが言った。
「地脈虫の討伐、受けるおつもりですか」
「選択肢のひとつだ」
「危険ですわ。巣を潰すには奥深くまで入る必要がある。狭い坑道での戦闘は不利です」
「分かっている。だから、現地で情報を集めてから決める」
セフィラは頷いた。
「賢明ですわね。飛び込みで危険な仕事を受けるのは愚かです」
「ラスフェルで学んだ」
「ええ。リッキーさんたちを見ていて」
リッキー。その名前を口にした時、セフィラの表情がわずかに翳った。
「……彼らは元気にしているでしょうか」
「分からん。だが、ヴァンスがいる。セイルもいる。大丈夫だろう」
「そうですわね」
セフィラは窓の外を見た。月が昇り始めている。
「シャール」
「何だ」
「明日からまた、新しい土地ですわね」
「ああ」
「楽しみですわ」
その言葉に、シャールは少し驚いた。
「楽しみ?」
「ええ。知らない土地、知らない生き物、知らない依頼。それを自分の目で見て、自分の力で乗り越えていく。それがわたくしの選んだ道ですもの」
セフィラは振り返り、微笑んだ。
「シャールはどうですか」
「……私は」
シャールは言葉を探した。
楽しいかと問われれば、正直なところよく分からない。ただ、隣にセフィラがいる。それだけで、どこへでも行けるような気がしていた。
「悪くない」
それだけ答えた。
セフィラは小さく笑った。
「相変わらず、言葉が足りませんわね」
「……すまない」
「謝らなくて結構ですわ。分かっておりますもの」
セフィラはシャールの傍に歩み寄り、その腕に自分の腕を絡めた。
「明日も早いですわ。休みましょう」




