第49話 乗合馬車の朝
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夜明け前の空気は肺を刺すように冷たかった。
シャールとセフィラは赤銅の盾亭の前に立ち、東の空がかすかに白んでいくのを眺めていた。革鞄をひとつずつ足元に置き、吐く息が白く立ち上っていく。
蹄の音が近づいてきた。
四頭立ての乗合馬車。車体に張られた青い帆布は色褪せ、あちこちに継ぎ当ての跡がある。見たところ、十年は使い込んでいるだろう。御者台には痩せた男が座っており、こちらを見もせずに煙草を吹かしていた。
「おい、乗るなら早くしろ」
挨拶もなしにそれだけ言われた。シャールが銀貨を一枚手渡した。御者は歯で噛んで真贋を確かめてからあごで後ろを示す。
馬車の後部に回ると、すでに乗客がいた。
向かい合った長椅子の片側に丸々と太った男がどっかりと座っている。膝の上に帳面を広げ、何やら数字を書き込んでいた。その隣には頭巾を被った老婆が籠を抱えて眠っている。いびきが聞こえた。
反対側には若い男がひとり。壁に背をもたれ、目を閉じている。外套の下に革鎧が見えた。傭兵か冒険者か。いずれにせよ、話しかけてくれるなという雰囲気を全身で発散させていた。
シャールが先に乗り込み、セフィラに手を貸す。
二人は入口に近い席に腰を下ろした。藁が敷かれた床からは馬糞と埃が混じった匂いが立ち上っている。
「……なかなかの芳香ですわね」
セフィラが小声で言った。皮肉である。
「贅沢は言えない」
「分かっております」
馬車が動き出した。石畳を踏む車輪の音が規則正しく響く。
街並みが流れていく。パン屋の煙突、鍛冶屋の看板、井戸端で水を汲む女たち。見慣れた風景。もう戻ることはないだろう。
東門を通過した時、セフィラは振り返らなかった。シャールも振り返らなかった。
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馬車が街道に入って半刻ほど経った頃、太った男が口を開いた。
「お二方、どこまで行かれるのかな」
「……マルディンだ」
実際は、マルディンを通るというだけの話なのだが。
「おお、鉱山町か。最近は景気がいいと聞いておりますぞ。なにせ新しい鉱脈が見つかったとかで」
男は勝手に喋り始めた。名はゴルツ。織物を扱う商人らしい。ラスフェルで仕入れた反物を帝国領で売りさばくのだという。
「わしはね、年に四度はこの路線を往復しておるんですよ。だからこの辺りの事情には明るい。何か知りたいことがあれば聞いてくだされ」
親切というより、単に喋りたいだけのようだ。シャールは適当に相槌を打っていた。
そのうちセフィラが口を挟んだ。
「ゴルツさん。この辺りの野生動物について、何かご存知ですか」
「野生動物? ああ、そうですな……この季節ならば、畑の上を舞っている鉤爪鷲を見かけるかもしれませんな。青黒い羽毛に尾だけが赤い。ご覧になったことは?」
「いいえ、まだ」
セフィラの目が輝いた。知らないことを教えてもらうのが好きなのだ。
「あれは元々は普通の灰色鷲だったそうでしてな。二百年ほど前にとある魔導師が品種改良を重ねて作り出したと言われておる。貴族の狩猟用に珍重されましてな、美しい羽色の個体を選んで交配させた結果、ああなったと」
「人工的に作られた種が野生化したのですね。興味深いですわ」
「お嬢さん、博物学に興味がおありで?」
「ええ、少々」
少々どころではない、とシャールは思った。この女は書物で読んだ知識を実地で確かめることに尋常でない執着を見せる。ラスフェルでも森で見慣れない草を見つけるたびに立ち止まっては観察していた。
ゴルツとセフィラの会話は続いた。シャールは黙って聞いていた。
◆
太陽が高くなってきた頃、窓の外の景色が変わり始めた。
麦畑が途切れ、草原が広がっている。その中に腰ほどの高さの植物が群生していた。茎の先端に拳大の淡い青色の花を咲かせている。風に揺れるたびに花弁がかすかに光っているように見えた。
「セフィラ」
シャールが呼びかけると、彼女の顔が窓に張り付くようにして外を見た。
「あれは……」
セフィラの目が見開かれた。
「霊脈香ですわ! 実物を見るのは初めて……!」
「霊脈香?」
「根が地下の魔力脈に達している植物です。花弁に魔力を蓄え、夜になると発光するのですわ。錬金術では触媒として珍重されますが採取には特別な許可が必要で……」
セフィラは興奮気味に説明を始めた。シャールは話半分に聞いていた。
「野生でこれほどの群生を見られるとは……! ああ、窓がもっと大きければ……!」
「落ち着け」
「落ち着いていますわ。ただ少し、興奮しているだけです」
「それを落ち着いていないと言うんだ」
ゴルツが笑った。
「いやいや、お嬢さんの気持ちは分かりますぞ。わしも初めてあれを見た時は驚いたものです。もっとも商売にならんと分かってからは興味を失いましたがな」
「商売にならない?」
「ええ。採取には辺境伯の許可が要りましてな。無断で取れば密猟で牢屋行き。許可を得るにも莫大な手数料がかかる。割に合わんのですよ」
「なるほど、だから群生が保たれているのですわね」
セフィラは納得したように頷いた。
その時、老婆が目を覚ました。いびきが止まり、頭巾の奥からぼんやりした目がこちらを見る。
「……なにを騒いでおるんじゃ」
「申し訳ございません、お婆様。窓の外の花に見惚れておりました」
「花? ああ、あの光る草か。この辺りには昔からあるよ。子供の頃は夜中に抜け出して見に行ったもんじゃ」
老婆は歯のない口でにっと笑った。
「じゃが取っちゃいかんよ。領主様に怒られる」
「存じております」
老婆は籠から干し林檎を取り出し、咀嚼し始めた。そしてセフィラをじろじろと眺める。
「べっぴんさんじゃのう。そちらの旦那様も男前じゃ。ええ夫婦じゃな」
セフィラは答えに窮した。夫婦と言い切るのも否定するのも妙だ。いや、言い切ってもいいとは思っていたが、これでいて生真面目な性格のセフィラであるので、婚儀をあげるまでは夫婦とは言えないのではないかという妙な考えがある。
「……ありがとうございます」
結局、曖昧に微笑むしかなかった。
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昼を過ぎると、馬車は街道沿いの休憩所で止まった。
乗客たちは馬車を降り、足を伸ばす。御者は馬に水を与え、車輪の具合を確かめている。
シャールとセフィラは井戸で水を飲んだ。冷たい水が喉を潤していく。
休憩所の裏手には果樹園があった。白い花をつけた木々が並んでいる。
「香梨の花ですわ」
セフィラが言った。その声には感慨のようなものがある。
「王宮にもあったな」
「ええ。懐かしい……と思うべきなのでしょうけれど」
「思わないのか」
「王宮の庭園は箱庭のようなものでした。整えられ、管理され、あるべき形に押し込められた自然。ここにあるのは違う」
セフィラは果樹園を見回した。
「剪定が甘くて、枝が伸び放題ですわ。虫食いの葉もある。でもだからこそ生きている感じがします」
シャールは黙って聞いていた。
御者の呼び声がした。出発の時間だ。
二人は馬車に戻った。
◆
午後になると、道は山にかかり始めた。
傾斜が急になり、揺れが激しくなる。老婆が抱えていた籠が床に落ち、中身が散らばった。
「あっ」
セフィラが手を伸ばそうとした。しかしその前に若い男──ずっと黙っていた外套の男──が動いていた。
彼は素早く屈み込み、転がった干し果実を拾い集める。それを籠に戻し、老婆に手渡した。
「ありがとうな、若いの」
老婆が礼を言った。
若い男は何も答えず、席に戻って目を閉じた。
セフィラは男の横顔を見た。二十代半ばくらいだろうか。日に焼けた肌、鋭い目つき。疲労の色が濃い。
ゴルツが小声で言った。
「あの男、傭兵崩れかなにかでしょうな。この路線には多いんですよ、ああいう手合いが。訳ありの連中がね」
「訳あり、ですか」
「ええ。故郷に居られなくなって流れてきた者、戦争で居場所を失った者、借金で追われている者……この辺りは王国と帝国の境目でしてな。どちらにも属さない人間が溜まりやすいんですよ」
シャールは黙って聞いていた。自分たちもまた、訳ありの人間である。
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山道をしばらく進んだ時、セフィラが悲鳴を上げた。
「きゃっ……!」
シャールが反射的に身構える。しかし敵ではなかった。
窓の外に異様な植物が見えたのである。
道端から生えた太い茎。その先端に巨大な花が咲いていた。いや、花と呼んでいいのかどうか。深紅色の肉厚の器官がまるで獣の口のように開いている。内側には何本もの棘のような突起が並び、粘液でてらてらと光っていた。
「何だ、あれは」
シャールが尋ねた。自分も図鑑で見た記憶があるが名前が出てこない。
「……顎蓮ですわ」
セフィラの声は震えていた。恐怖ではなく、興奮である。
「食虫植物の一種です。あの大きさならば、野兎くらいは軽く捕食できるはず……! 信じられない、野生の顎蓮を見られるなんて……!」
「喜んでいるのか」
「喜んでおります! 文献でしか見たことがなかったのです! あの突起は返しになっていて、一度入り込んだ獲物は二度と出られない構造で……!」
セフィラは身を乗り出すようにして窓に張り付いていた。
ゴルツが顔をしかめた。
「お嬢さん、ああいうものがお好きで?」
「好き嫌いの問題ではございません。知識を実地で確認できることへの感動ですわ」
「はあ……変わったお方ですな」
シャールは苦笑した。確かに変わっている。だがそれが彼女の魅力でもあった。
顎蓮は馬車が通り過ぎると、風に揺れて何事もなかったかのように佇んでいた。
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夕暮れ時、馬車は山道を抜けて盆地に出た。
眼下に小さな町が見える。石造りの建物が肩を寄せ合い、煙突から夕餉の煙が立ち上っている。
「クレイン宿場だ」
ゴルツが言った。
「今夜はあそこで一泊だな。明日の昼には次の町に着く。夕方にはマルディンだ」
シャールは窓の外を見た。夕日に照らされた町並みが橙色に染まっている。
見知らぬ町。これから何度、こんな風景を見ることになるのだろう。
馬車がゆっくりと坂を下り始めた。




