第45話 ギンタマ②
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「おそらくは訓練を受けた密偵だろう。そういえばあんたたちもウェザリオの人間だったな? シャール・レオン・ウェザリオさんよ」
ギンタマの言にシャールが纏う空気が変わる。
冷然とした圧にしかし、ギンタマは全く臆した様子もない。まるで猛獣の檻に手を突っ込んでおきながら、その牙が届かぬと知悉している調教師のような泰然自若ぶりである。杯を傾ける仕草にもこちらを見据える眼差しにも微塵の動揺が見て取れなかった。
「わたくし達の素性を良くご存じなのですね」
セフィラの声は平静を装っていたがその翠色の瞳には警戒の色が滲んでいる。
シャールは反射的に周囲を窺った。酒場の喧騒は相変わらずで他の客たちは己の酒に夢中になっている。先ほど絡んできた三人組もこちらに背を向けたまま黙々と杯を空けており、誰もシャールたちの会話に耳を傾けている様子はない。だがそれでも今の言葉が聞かれていないとは限らなかった。ウェザリオという国名、そしてレオンという王族の姓。それを口にされた以上、このまま放置するわけにはいかぬ。
「大丈夫だ、俺の声はあんたらにしか届いてないからな。そういう風に声を出している」
シャールの思考を読んだかのようにギンタマが言った。その声は確かに奇妙な響きを帯びていた。くぐもった、というのとも違う。あたかも耳元で囁かれているかのような、妙に近い距離感で聞こえてくる。
聴けば、ギンタマの声はやや掠れている。喉を潰すような発声法なのだろうか。あるいは何か特殊な技術なのか。いずれにせよ常人の業ではないことは確かだった。
「何者だ」
シャールの問いは鋭かった。剣を抜くまでもなく、既に意識は臨戦態勢に入っている。感覚を拡張し、周囲の空気の流れを読み取りながら、目の前の男の一挙手一投足を観察していた。
ギンタマは「それを教えるにはまだ早いな」と意味ありげに笑う。その笑みには狡猾さと、それからどこか人の好さのようなものが奇妙に同居していた。酒場の薄暗い灯りの下で彼の顔は半分が影に沈んでいる。
「俺の事を教えるのはまだ先だろう。だが一つだけ言っておく。俺はあんたらの敵じゃないぜ」
「味方でもないということか」
「まあそれは時と場合によるな。ただ、俺たちの関係がどうなるかはすぐに分かる」
「随分ともったいぶるじゃないか」
シャールの声には苛立ちが滲んでいた。
この男は明らかに何かを知っている。それもただの噂話の類ではない。シャール・レオン・ウェザリオという本名を知っているということは王国の内情にある程度通じているということだ。単なる情報屋の領分を超えている。
「今はそういう状況なんだ。だが俺はあんたらを買っている。それだけは覚えておいてくれ」
そう言ってギンタマは酒を呷った。
まるでこれで話は終わりだと言わんばかりの仕草である。杯を置き、視線を逸らし、もはやシャールたちには関心がないかのような態度を示す。その不遜さは意図的なものだろう。追及を封じる壁として機能している。
シャールは何か言いかけて、やめた。この男を問い詰めたところで今以上の情報は得られまい。そういう手合いであることは短い付き合いの中で既に見て取れている。ギンタマは自分が話したいことだけを話し、聞かれたくないことには決して答えない。それが彼の流儀なのだ。
「行こう、セフィ」
立ち上がりながらそう言うと、セフィラも黙って従った。彼女もまたこの場でこれ以上の会話が無意味であることを悟っているのだろう。
酒場を出ると、夜の冷気が頬を撫でた。
星が瞬く空の下、二人は肩を並べて宿への道を歩き始める。石畳を踏む足音だけが静かに響き、どこか遠くで酔客の歌声が聞こえていた。
帰り道、二人の間に言葉はなかった。
話すべきことが多すぎて、かえって何も言えなくなっているのかもしれない。あるいは話すべき場所がここではないと、二人とも無言のうちに了解しているのかもしれなかった。シャールは黙々と足を進め、セフィラはその半歩後ろを歩いている。
街路灯の明かりが二人の影を長く伸ばしていた。
朝霧の鐘亭の部屋に戻り、扉を閉めると、シャールは深い息を吐いた。
窓際に歩み寄り、外の闇を見つめる。セフィラは椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を組んでいた。しばらくの間、二人とも口を開かなかった。ランプの炎が揺れ、壁に映る影がゆらゆらと踊っている。
「彼は何者なのでしょうね」
やがてセフィラが口火を切った。
「分からん。だがただの情報屋ではないことは確かだ」
シャールは振り返らずに答えた。
「王国とも繋がりがあるのかもしれませんわね」
「ああ。だがあの男の口ぶりからすると、王国の手先というわけでもなさそうだ。敵でもなければ味方でもない、と言っていた」
「第三勢力、ということでしょうか」
セフィラの声には推測が滲んでいる。
大陸には様々な勢力が存在していた。国家、商会、傭兵団、そして名を持たぬ暗部の組織。そうした勢力のどれかにギンタマが属しているのか、あるいはもっと別の何かなのか。今の段階では判断がつかない。
「いずれにせよ」
シャールは窓辺から離れ、セフィラの向かいに腰を下ろした。
「私たちの素性が露見しつつあるのは事実だ。このままラスフェルにいて大丈夫なのか、考え直す必要があるかもしれん」
「この街を出る、ということですか」
セフィラの声が僅かに震えた。ラスフェルでの暮らしに愛着が芽生え始めていたのだろう。ここで出会った人々、ここで積み重ねてきた日常。それらを捨てて再び逃亡者となることへの抵抗がある。シャール自身も同じ気持ちだった。
「すぐに結論を出す必要はない」
シャールは慎重に言葉を選んだ。
「だが選択肢として考えておくべきだろう。ここに留まるか、それとも──」
言葉が途切れた。
「それとも?」
「別の場所へ移るか」
セフィラは黙って頷いた。
「ギルドマスターのグレンはわたくしたちを追い出すつもりはないと言っておりましたわね」
「ああ。だがそれは状況が変われば覆り得る、とも言っていた」
「王国が本格的に動き出せば、この街もわたくしたちを匿いきれなくなる」
「そうだ」
シャールは目を伏せた。
ラスフェルという街は確かに自由を謳っている。だがその自由は脆い均衡の上に成り立っているものであり、大国の圧力の前には砂上の楼閣に過ぎぬかもしれなかった。
「今夜のところは休もう」
シャールは言った。
「明日になれば、また状況が変わっているかもしれない。あの言葉の意味もいずれ分かるだろう」
「ええ、そうですわね」
セフィラは小さく息を吐き、椅子から立ち上がった。
「考えても仕方のないことを考え続けるのは不毛ですわ。今夜は眠ることに致しましょう」
二人は並んで寝台に横たわった。
セフィラの体温が傍らから伝わってくる。シャールはその温もりを感じながら、暗い天井を見つめていた。眠りはなかなか訪れなかったがそれでも隣にセフィラがいるという事実だけが彼の心を僅かに落ち着かせていた。
窓の外では夜風が木々を揺らし、どこか遠くで犬が一声吠えている。




