第39話 前へ(サヨリ顛末)
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ケリガンの森における異変から一か月が過ぎていた。
街を覆っていた謎の熱病は森の奥に潜んでいた元凶が討伐されたと同時に潮が引くように消え去り、いまやラスフェルの日常は何事もなかったかのような平穏を取り戻しつつある。商人たちは再び活気を帯び、冒険者たちは森へと足を向け、宿屋の酒場では笑い声が響いていた。だが傷跡が消えたわけではない。
死んだ者は生き返らない。失われたものは戻ってこない。それは当たり前のことではあったが当たり前であるがゆえに救いがなかった。
サヨリが目を覚ましたのは森の異変から三日後のことである。
最初に見えたのは天井の木目であった。見慣れた部屋。ギルドの医療区画だ。清潔な白い布。かすかに漂う薬草の匂い。身体を起こそうとして激しい眩暈に襲われ、そのまま枕に頭を沈めた。
なぜ私はここにいるのだろう。
記憶が曖昧だった。断片的な映像が脳裏を過ぎる。黒い肉塊。触手。仲間たちの悲鳴。JJの背中。そして闇。圧倒的な闘。息ができなくなるほどの圧迫感の中でもがき続けた永遠のような時間。やがて誰かが部屋に入ってきた。医療班のアトキンスだ。白髪交じりの老人は疲れた顔でサヨリの枕元に立った。
「目が覚めたか」
「アトキンス……私、どうして」
「森から運び出されたんだ。お前さんは」
アトキンスの声には安堵と、それから別の何かが混じっていた。その表情を見て、問わずにはいられなかった。
「調査隊の他のみんなは」
アトキンスは一瞬言葉に詰まり、それから首を横に振った。
「……すまん。生き残ったのはお前さんだけだ」
サヨリは何も言わなかった。言えなかったのではない。言う必要がなかったのだ。分かっていた。あの状況で自分だけが助かり、他の者たちが無事であるはずがない。ムーキーも、フリードマンも、そしてJJも。
──JJ。
その名前を心の中で呼んだ瞬間、胸の奥で何かが砕けた。悲鳴を上げることもできず、涙を流すこともできず、ただ天井を見つめていた。呼吸をしているのに息ができない。心臓は動いているのに生きている実感がない。身体の内側に巨大な空洞が生まれ、その虚無が全身を蝕んでいくような感覚だけがあった。
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サヨリとJJが出会ったのは五年前の秋のことである。
ラスフェルの冒険者ギルド。受付の前で途方に暮れていた東洋人の娘に声をかけたのは鉄仮面をつけた大男だった。
「困ってるのか」
低く響く声。威圧的な外見とは裏腹にその声音には奇妙な穏やかさがあった。サヨリは警戒しながらも頷いた。
「言葉が……まだあんまり上手くなくて」
たどたどしい共通語。東方訛りが強く残るその発音をJJは辛抱強く聞いていた。
「東からか」
「ええ」
「遠いな」
「そうね」
それだけの会話であった。だがJJはサヨリの隣に立ち、受付とのやり取りを手伝ってくれた。依頼の内容を噛み砕いて説明し、報酬の相場を教え、必要な手続きを代わりに進めてくれた。その日一日かけて、サヨリは冒険者としての登録を終えることができた。
「ありがと」
「いい。困った時はお互い様だ」
JJはそう言って去っていった。鉄仮面の奥から覗く瞳がどのような表情をしていたのか、分からなかった。
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サヨリが故郷を捨てたのには理由があった。
極東と呼ばれる島国。大陸の東端から更に海を渡った先にある閉鎖的な国々。そこでは魔力よりも血統が個人の意志よりも家の存続が何よりも重んじられていた。サヨリの生家は武門の家であった。代々主君に仕えてきた名門の家柄であり、当主である父は厳格な人物だった。娘であるサヨリに許されていたのは家の名に恥じぬ振る舞いをすることだけである。礼法を修め、やがては然るべき家に嫁いで子を成す。それがサヨリに与えられた運命であり、逸脱は許されなかった。
だが心の奥底には常に別の声があった。
外の世界を見たい。この狭い島国の外にはどのような景色が広がっているのか知りたい。書物でしか知らぬ大陸の街を歩き、異国の空気を吸い、見知らぬ土地で生きてみたい。
そんな衝動を抑え込んで生きていた。抑え込むしかなかったのだ。放浪を望むなど許されるはずもない。そのような願望を口にすれば家の恥となり、父の怒りを買い、最悪の場合は座敷牢に閉じ込められることすらあり得た。
転機が訪れたのは十七の年である。縁談が持ち上がった。相手は政略結婚としては申し分のない相手であり、父は満足げにその話を進めていた。サヨリの意志など誰も問わなかったし、問う必要があるとも思われていなかった。
その夜、サヨリは家を出た。着の身着のまま、わずかな路銀だけを懐に。港へ向かい、大陸行きの船に潜り込んだ。発覚すれば追手が放たれるだろう。だがもう後戻りはできなかった。座敷牢で一生を終えるくらいなら、海の藻屑になった方がましだと思った。
船旅は過酷だった。密航者として船底に潜み、船員たちの目を盗んで食料を得る日々。発見されれば海に投げ込まれても文句は言えない。何度も死を覚悟した。だが運良く大陸にたどり着き、そこから先は徒歩で西へ西へと進んでいった。言葉が通じない。風習が分からない。金がない。何度も騙され、何度も襲われそうになり、何度も野宿を強いられた。東洋人の娘が一人で旅をしているという事実は好奇の目を集め、時として悪意ある視線も引き寄せる。
それでもサヨリは歩き続けた。死にたくはなかった。故郷を捨ててまで掴んだ自由をこんな所で手放したくはなかった。剣術の心得が身を助けることもあったし、東方で鍛えた気の技が窮地を脱する力となることもあった。泥に塗れ、血に染まりながらも、生き延びてきた。
そうしてたどり着いたのがラスフェルであった。自由の街。出自を問わず、実力さえあれば誰でも冒険者として生きていける場所。サヨリにとってそこは約束の地であった。ようやく見つけた居場所。ようやく手にした安息の地。
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JJとの再会は登録から一週間後のことだった。
ギルド直営の酒場兼食堂で一人飯を食っていたサヨリの向かいに、あの鉄仮面の男がどかりと腰を下ろしたのである。
「慣れたか」
「……まあまあね」
「飯は足りてるか」
「なんとか」
「金は」
「ぎりぎりってとこかしら」
JJは頷き、自分の皿から肉を一切れサヨリの皿に移した。
「食え。痩せすぎだ」
面食らったが断る理由もない。空腹は常についてまわる友人だったし、施しを拒むほどの余裕もない。黙って肉を口に運ぶと、JJは満足げに自分の食事を始めた。
それからというもの、JJはことあるごとにサヨリの様子を見に来るようになった。依頼の選び方を教え、危険な場所を警告し、時には食事を奢った。最初こそ警戒していたが彼の意図が純粋な親切であることを次第に理解していった。
「どうしてこんなに良くしてくれるの」
ある日、思い切って尋ねた。JJは鉄仮面の奥で目を細めた。
「昔な、俺も似たようなもんだった」
「似たような?」
「よそ者だったんだ。この街に来た頃は」
詳しくは語らなかった。だがその言葉の端々から、彼もまた何かを背負ってこの街にたどり着いた人間なのだということが伝わってきた。
心が揺れ始めたのはいつからだったろうか。JJの不器用な優しさに触れるたび、胸の奥で何かが熱くなる。鉄仮面の下に隠された素顔を見たいと思った。彼の声を聞くだけで心が安らいだ。彼の姿を見かけると自然と足がそちらへ向いた。
恋というものをサヨリは知らなかった。故郷では恋愛など許されなかった。結婚は家と家の結びつきであり、個人の感情が入り込む余地はない。だから自分の中で燃え上がるこの感情が何なのか、最初は分からなかった。分かったのはJJが他の女冒険者と親しげに話しているのを見た時に胸が締め付けられるように痛んだ。
告白したのはサヨリの方からである。四年前の夏の夜。月が綺麗だった。酒場を出て宿に戻る道すがら、隣を歩くJJに向かって言った。
「あんたのことが好きよ」
JJは足を止めた。鉄仮面の奥から見えるその目が見開かれているのが分かった。
「……本気か」
「本気に決まってるでしょ」
「俺はその……」
JJは珍しく言葉に詰まった。大きな体躯が居心地悪そうに揺れている。
「俺みたいな男でいいのか」
「あんたがいいの」
長い沈黙があった。やがてJJは鉄仮面に手をかけ、ゆっくりとそれを外した。
彫りの深い顔立ち。額には古傷があり、頬には無精髭が生えている。決して美男子とは言えない顔だったがサヨリにとってはそれが世界で最も見たかった顔だった。
「……俺も、お前のことが好きだ」
その夜、二人は初めて唇を重ねた。
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恋人同士になってから、二人の生活は少しずつ変わっていった。
冒険者という職業は危険と隣り合わせである。依頼をこなすたびに命を削り、いつ死んでもおかしくない。若い頃はそれでも構わなかった。守るべきものなど何もなかったから。だが今は違う。帰りを待つ者がいる。失いたくない者がいる。
二人で相談して、冒険者を続けながらも安定した収入を得る方法を探し始めた。そんな折、ギルドの職員募集の話が耳に入ってきたのである。
ラスフェルの冒険者ギルドには独特の制度があった。勤勉に依頼をこなし、街に貢献してきた冒険者は希望すればギルドの正規職員として雇用される道が開かれていた。給金は冒険者としての稼ぎより安定しており、危険も格段に少ない。森や遺跡を駆け回る代わりに、調査任務や新人の指導、依頼の仲介といった仕事を担うことになる。まあその分、一攫千金とはいかないのだが。
JJとサヨリは二人してその制度に応募し、審査を経て採用された。JJは重装備を活かした調査隊の一員として、サヨリは東方の術と薬草学の知識を買われて同じく調査員として配属されたのである。
それからの三年間は穏やかな日々だった。時には危険な任務もあったがかつてのように毎日命を賭けるようなことはなくなった。二人で一つの部屋を借り、朝は一緒に食事を取り、夜は寄り添って眠る。当たり前の日常。だがサヨリにとってはかけがえのない宝物だった。
ギルドの仲間たちとも親しくなった。受付のマリアとは休日に街を散策する仲になり、ベルトランには仕事のことで何度も助けられた。カティアの淹れる茶は絶品でアトキンスの薬草学は東方のそれとはまた違った体系を持っていて興味深かった。
そんな生活が永遠に続くと思っていた。森の異変が起きるまでは。
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思い出が頭の中を渦巻いていた。
二人で受けた調査任務のこと。喧嘩して三日も口を聞かなかったこと。仲直りの印にJJが不格好な花束を買ってきたこと。サヨリが故郷の料理を作ってJJが涙を流すほど辛がったこと。何でもない日常の一こまが今は宝石のように輝いて見える。
もう二度と、あの温もりに触れることはできない。あの声を聞くことも、あの背中に寄り添うことも、あの不器用な笑顔を見ることも。
JJは死んだ。サヨリを庇って、あの肉塊の触手に立ち向かい、そして飲み込まれた。最後まで戦斧を振るい続けていた。最後まで自分を逃がそうとしていた。
──逃げられなかったけれど。
医療区画の寝台の上で膝を抱えていた。涙は出なかった。泣けなかった。泣くことすらできないほど、心が凍りついていた。
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さらに一か月が過ぎ、サヨリの体調は回復していた。
肉体的にはという話である。精神の方は依然として深い傷を負ったままだったがそれでも日常生活を送れる程度には持ち直していた。人間というものは案外丈夫にできているらしい。心が壊れていても、身体は動く。
ギルドの同僚たちは彼女に気を遣った。マリアは毎日のように顔を見せては他愛のない話をしていったし、ベルトランは仕事を急がせることなくゆっくり休めと繰り返した。カティアは黙って茶を淹れてくれ、アトキンスは傷の具合を丁寧に診てくれた。
その優しさが今のサヨリには辛かった。彼らの顔を見るたびにJJのことを思い出す。あの酒場でJJと一緒に飲んだこと。あの廊下でJJと肩を並べて歩いたこと。このギルドの至る所にJJとの思い出が染み付いている。同僚たちの気遣いは本物だったがその気遣いの中にJJの不在が際立って、余計に心が軋んだ。
結局、サヨリは去ることを選んだ。
ラスフェルを出るのだ。この街にいる限り、JJの記憶が付きまとう。あの酒場、あの通り、あの宿屋。そこを歩くたびに心が引き裂かれる。耐えられそうにない。
逃げるのだと言われればそうかもしれない。だが逃げて何が悪い。生きるために逃げるのだ。故郷を捨てた時と同じだ。壊れてしまう前に逃げる。それがサヨリの生き方であった。
次の行き先は決めていない。西へ向かうか、南へ向かうか。どこでもよかった。ここではない場所。JJのいない場所。新しい土地で新しい自分を作り直す。できるかどうかは分からない。だがやってみるしかなかった。
荷物をまとめ始めたのはある晴れた朝のことである。といっても大した荷物はない。着替えが数枚と、武器と、わずかな金。JJとの思い出の品は持っていかないことにした。持っていけば余計に辛くなる。ここに置いていく。この街に埋めていく。
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出発の前日、サヨリはふと思い立った。
自分を助け出したという二人組の冒険者。ベルトランから聞いた話では森の奥深くで彼女を発見し、街まで運んできたのだという。新人の二人組らしいがそれ以上のことは教えてもらえなかった。何か事情があるようだった。だが彼らがいなければ自分は今頃あの肉塊の養分になっていただろう。
──せめて礼の一つも言うべきだわ。
それが人としての道理というものである。顔も知らぬ相手に命を救われて、礼も言わずに街を出るのは筋が通らない。武家の娘としての矜持が残っていたし、何よりJJならそうしただろうと思った。
ギルドの大広間に向かい、受付にいたマリアに声をかけた。
「マリア、ちょっといい?」
「サヨリ。どうしたの、もう動いて大丈夫なの?」
マリアの声には心配が滲んでいた。サヨリは小さく頷いた。
「もう平気よ。それより、私を森から運び出してくれた人たちに会いたいの。お礼が言いたくて」
マリアの表情がわずかに曇った。
「その件なんだけど……」
「何か問題でもあるの」
「問題というか……あの二人、名前を出さないでほしいって言ってて。色々と事情があるみたいなのよ」
眉をひそめた。だが深く追及する気にはなれなかった。誰にでも人に言えない事情はある。サヨリ自身がそうであるように。
「会うだけでいいの。お礼を言って、それで終わり。迷惑はかけないわ」
マリアはしばらく考え込んでいたがやがて小さく溜息をついた。
「……分かった。先方に確認してみる。でも、すぐには無理よ。明日の昼過ぎにまた来てくれる?」
「明日……」
出発の日である。だが構わなかった。半日遅らせれば済む話だ。
「分かったわ。明日の昼過ぎに来る」
「サヨリ」
立ち去ろうとしたサヨリをマリアが呼び止めた。
「……街を出るつもりなんでしょ」
振り返らなかった。
「どうしてそう思うの」
「分かるわよ。あなたの顔を見れば」
沈黙が落ちた。やがてサヨリは小さく頷いた。
「……ごめんね、マリア。色々よくしてもらったのに」
「謝らないで」
マリアの声が震えていた。
「あなたが決めたことなら、私は何も言わない。でも……元気でね」
「ありがと」
それだけ言って、ギルドを後にした。
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宿に戻り、窓辺に立つ。
夕陽がラスフェルの街並みを橙色に染めていた。商人たちが店仕舞いを始め、冒険者たちが酒場へと繰り出していく。いつもの光景。もう見納めになる光景。
明日、恩人に会う。礼を述べる。そしてこの街を出る。
新しい土地で何が待っているかは分からない。また苦労するだろう。また辛い思いをするだろう。だがそれでも生きていく。生きていかねばならない。JJがサヨリの命を守ってくれたのだ。その命を粗末にするわけにはいかなかった。
夕陽が沈んでいく。闇が街を包み始める。窓を閉め、寝台に横たわった。明日のために眠らなければならない。だが目を閉じるとJJの顔が浮かぶ。鉄仮面を外した時のあの照れくさそうな表情。サヨリが好きだと告げた時の戸惑った目。
涙が一筋、頬を伝った。ようやく泣けた。声を殺して泣いた。枕に顔を押し付け、嗚咽を漏らす。身体が震え、心が軋んだ。泣いても泣いても涙は止まらず、夜が更けても彼女は泣き続けた。
そうして長い夜が明けていく。
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翌日の昼過ぎ。
サヨリはギルドの大広間に立っていた。荷物は既にまとめてある。この面会が終わり次第、東門から街を出る手筈だ。新しい旅が始まる。新しい孤独が始まる。
受付でマリアに声をかけると、彼女は奥の部屋へとサヨリを案内した。
「こちらで待ってて。もうすぐ来るはずだから」
通されたのは小さな応接室だった。質素だが清潔な部屋である。窓から射し込む午後の光が木製のテーブルを照らしている。
椅子に腰掛け、背筋を伸ばして待った。どのような人物だろうか。腕の立つ冒険者であることは間違いない。あの森の深層から生きて戻ってきたのだから相当な実力者のはずだ。屈強な男かもしれないし、老練な魔術師かもしれない。
やがて扉が開く気配がした。
立ち上がり、入口へと視線を向ける。
そこに現れたのは若い男女の二人組だった。
男の方は黒髪で整った顔立ちをしている。鋭い眼光の奥にどこか憂いを帯びた光があり、その立ち姿には生まれながらの気品のようなものが漂っていた。女の方は亜麻色の髪に翠色の瞳、華奢な体躯ながら芯の強さを感じさせる佇まいである。二人とも冒険者にしては妙に洗練された雰囲気を持っていた。
サヨリは深々と頭を下げた。
「サヨリよ。このたびは命を救ってくれて、本当にありがとう」
顔を上げると、男女は互いに視線を交わしていた。何か意味ありげな沈黙が流れる。やがて男の方が口を開いた。
「シャルだ。こちらはセフィ。礼など気にしなくていい。たまたま居合わせただけだ」
「たまたまでも、あなたたちがいなければ私は死んでたわ。感謝してる。でも……聞きたいこともあるのよ。あの森で……何があったの?」
気づけばそう問いかけていた。
シャールとセフィラは再び視線を交わす。何かを測りかねているような表情だった。やがてセフィと呼ばれた女性が静かに口を開く。
「あなたはあの……肉の塊のようなものに取り込まれておりましたわ」
「覚えてるわ」
「わたくしたちがそれを倒した時、あなたが吐き出されたのです」
黙って頷いた。断片的な記憶と符合する。闇の中でもがいていた。圧迫感。息苦しさ。そして突然訪れた解放。
「他の……私の仲間たちは」
「申し訳ありませんが、あなた以外にお助けできた方はいらっしゃいませんでしたわ」
分かっていた。分かっていたが改めて告げられると胸が締め付けられる。
「そう」
それだけ言うのが精一杯だった。
沈黙が落ちる。窓の外から鳥の声が聞こえてきたがそれすらも遠い世界の出来事のように思えた。
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「あなたは……」
シャールが口を開いた。
「これからどうするつもりだ」
顔を上げた。
「この街を出るわ。今日これから」
「どこへ」
「まだ決めてない。西か、南か……どこか、遠くへ」
「逃げるのか」
不意に発せられたシャールの言葉に、セフィラは一瞬息を呑んだ。
「……責めてるの?」
何かを押し殺す様なサヨリの声。
「いや」
シャールは首を横に振った。その目に責めの色はない。ただ淡々と事実を確認しているだけのようだった。
「逃げることを悪いとは思わない」
サヨリは少し驚いて、シャールの顔を見つめ返した。
「……そう」
「逃げた先で見えてくる景色もある」
シャールの声には妙な説得力があった。単なる気休めや慰めではない。実感を伴った言葉の重みがある。まるで自分自身の経験を語っているかのような。
サヨリは目を細めた。
「あなたたちも、何かから逃げてきたのね」
シャールの表情が微かに動いた。その瞬間、サヨリには分かった。この若い二人組もまた、何かを背負い、何かから逃れ、この街にたどり着いた者たちなのだと。
シャールはわずかに頷いた。それだけだった。言葉はなかった。だがその沈黙の中に、語られなかった物語の重みが確かにあった。
セフィラが一歩前に出た。
「サヨリさん。もしよろしければ、出発の前に少しお茶でもいかがですか。お話を聞かせていただきたいのです」
「話……」
「ええ。あなたのこと、あなたの仲間の方々のこと。もしお辛くなければ、ですけれど」
少し考えた。話したくはなかった。JJのことを他人に語れば、傷口が開いてしまいそうで怖かった。だが同時に、誰かに聞いてほしいという気持ちもある。JJという男がいたこと。彼がどれほど不器用で優しかったか。彼がどれほどサヨリを愛してくれたか。それを誰かに伝えておきたかった。
「……少しだけなら」
頷き、口を開く。
「……JJは変な奴でね。体は大きいくせに気は小さくてね……傷貌を見られたくないからっていつも鉄仮面をつけてるの」
気がつけば話し始めていた。
「私がこの街に来たばかりの頃、言葉も分からず途方に暮れていた私を助けてくれたの。理由なんてなかった。ただ、困っている者を放っておけない、そういう人間だった」
シャールとセフィラは黙って聞いていた。
「最初は何とも思っていなかったわ。親切な人だな、くらいにしか。でも、いつの間にか彼のことばかり考えるようになって」
茶碗の中の液体が揺れている。自分の手が震えているのだと気づいた。
「告白したのは私からだった。あんたのことが好きだって。JJは驚いて、俺でいいのかって聞いてきた。あんたがいいのって答えた。そしたら彼、鉄仮面を外してくれたの」
その時の光景が鮮明に蘇る。月明かりに照らされた彼の顔。額の古傷。無精髭。照れくさそうに目を逸らしながら、それでも真っ直ぐにサヨリを見つめていた。
「不格好な顔だった。でも、私にとっては世界で一番見たかった顔だった」
声が震えた。喉の奥が熱くなる。だが涙は流さなかった。
「森であの怪物に襲われた時。JJは最後まで私を守ろうとしてくれた。逃げろって叫んでた。自分が囮になるから逃げろって。でも私は逃げられなかった。逃げる前に、私も飲み込まれちゃってね」
沈黙が落ちた。
「……お辛かったですわね」
セフィラの声が静かに響いた。
「その方は最後までサヨリさんのことを想っていらしたのですね」
「ええ」
頷いた。
「だからこそ、生きなきゃいけないと思ってる。JJが守ってくれた命だから。無駄にするわけにはいかない」
「それでこの街を出るのですか」
「ええ。ここにいたら壊れちゃいそうだから」
正直に答えた。取り繕う必要はなかった。この二人には不思議と嘘をつく気になれない。
「逃げて、生き延びる。それが私のやり方なの。昔からそうだった。故郷を出た時もそうだった。壊れる前に逃げる。それしか私にはできない」
セフィラが穏やかに微笑んだ。
「サヨリさんが選んだ道を否定したりはしませんわ。ただ──」
「ただ?」
「もし、いつかまたこの街に戻ってくることがあれば、その時はまたお茶でもご一緒しましょう。わたくしたち、まだこの街にいると思いますから」
約束でもなければ、期待でもない──そんなふわりとした手触りの提案であった。
「……考えておくわ」
サヨリは立ち上がった。
「そろそろ行くわね。本当にありがとう。命を救ってくれたこと、話を聞いてくれたこと、全部」
そう言ってサヨリは深く一礼し、扉に手をかけた。
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ギルドの建物を出ると、午後の陽光が眩しかった。
荷物を背負い直し、東門へと歩き始める。足取りは軽くはなかったが重くもなかった。ただ淡々と、一歩一歩を踏みしめていく。
振り返ることはしなかった。振り返れば、この街への未練が生まれてしまいそうだったから。JJとの思い出が詰まったこの街を今は振り返る余裕がない。
そうして歩き続けて東門をくぐった。
その瞬間、背後から声が聞こえた気がした。JJの声に聞こえた。気のせいだと分かっている。分かっているが一瞬だけ足が止まった。
深呼吸をして、そしてまた歩き始める──前を向いて。




