第33話 王種⑧
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時間を少しだけ巻き戻そう。
それは調査隊が森の「深層」と呼ばれる領域へ足を踏み入れてから、数刻後のことであった。
世界が裏返るような唐突さで異変は彼らを襲った。
先頭を歩いていたムーキーが何の前触れもなく膝から崩れ落ちたのである。受け身を取ることすらできず、顔面から腐葉土に突っ込む鈍い音が静まり返った森に響いた。
「ムーキー?」
フリードマンが駆け寄ろうとして、足を止めた。彼の膝がガクガクと震えている。眼鏡の奥の瞳が見開かれ、脂汗が瞬く間に額を覆い尽くした。
「あ、が……熱い……」
呻き声と共に、彼もまたその場に蹲った。ただの体調不良ではない。皮膚の下で血管が暴れ回り、全身が赤く変色している。まるで体内の血液が沸騰し始めたかのような異常な熱量であった。
JJも例外ではなかった。巨漢の重装戦士が戦斧を杖代わりに体を支えている。鉄仮面の隙間から荒い呼気が漏れ、白い蒸気となって噴き出していた。甲冑が内側からの熱で加熱され、触れれば火傷しそうなほどの高温を帯び始めている。呼吸をするたびに肺が焼け、血が滾り、内部から焼かれていくのだ。
「みんな、どうしたの!」
サヨリだけが立っていた。
彼女は仲間たちの異変に目を見張り、慌ててJJの手を取った。熱い。掌が焼けるようだ。だが彼女自身は何の影響も受けていない。
なぜサヨリだけが無事なのか。その理由は彼女の用いる術理にあった。大陸の冒険者たちは大気中の魔力を無意識に取り込み、循環させることで身体能力を強化している。対してサヨリの故郷、東方の島国では力は魔力から借りるものではなく、己の丹田から練り上げる「気」であるとされる。外部魔力に依存せず、自律した循環系を持っていたことが結果として彼女を守っていた。
だが安堵する暇などない。
森の奥から、音が聞こえたからだ。
ずるり、ずるり。
湿った雑巾を濡れた床で引き摺るような、不快な粘着音。
闇の向こうから、それは現れた。
巨大な肉の塊だ。表面には無数の血管が脈打ち、至る所に埋没した魔物たちの顔が苦悶の表情を浮かべている。小鬼、灰狼、岩猿。かつてこの森の住人であったものたちが今は肉塊の一部として蠢いていた。
「なによ、これ……」
サヨリは息を呑んだ。
肉塊が波打ち、表面から無数の触手が噴き出した。狙いは倒れている三人の男たちだ。彼らの持つ豊富な魔力、沸騰するほどの生命力。それらが肉塊の食欲を刺激しているのだろう。
「させないっ」
サヨリは懐から束ねた紙片を取り出した。東方の呪符である。扇のように展開し、肉塊に向けて構える。
「オン・キリ・キリ・バザラ・ウン・ハッタ」
真言と共に呪符を放つと、呪符は青白い炎の矢となって肉塊に突き刺さる。
ジュウウウ、と肉が焦げる音がした。
だがそれだけだ。焼けた端から再生していく。いや、炭化した部分を自ら切り捨て、深奥から新しい肉を湧き出させているのだ。
触手の一本がムーキーの足首を絡め取った。
抵抗すらできないまま、彼は引きずられていく。肉塊の一部が裂け、巨大な口腔となって彼を飲み込もうと待ち構えている。
「やめなさい!」
サヨリが駆け出そうとした瞬間、轟音が響いた。
JJだった。
高熱に喘いでいたはずの重装戦士が戦斧を振り上げていた。全身から湯気を立ち昇らせながら、渾身の力で触手を断ち切ったのである。
「JJ!」
JJが振り返った。鉄仮面のスリットの奥で瞳が燃えていた。
病が治ったわけではない。むしろ悪化している。立ち上がれたのは単に気合と根性が一時的に病魔を押しのけたからに過ぎない。
「逃げろ……」
金属のこすれるような声だった。
「サヨリ……行け……」
「嫌よ!」
サヨリは叫んだ。涙が溢れて視界が滲む。JJは今、自分の命そのものを燃料にして戦っている。ここで置いていけば、彼は確実に死ぬ。
「あんたを置いていくわけないでしょ! あたしたちはチームでしょ! 死ぬなら一緒よ!」
「馬鹿野郎……!」
肉塊が怒ったように震えた。無数の触手が槍のようにJJへと殺到する。JJは吼えた。戦斧が風を巻き起こし、肉の槍を薙ぎ払う。
逃げれば助かるかもしれない。だが足は動かなかった。理屈ではない。ここで背を向ければ、自分は一生自分を許せないだろう。
サヨリは一歩、前へ出た。両手を合わせる。練り上げるのはサヨリの奥の手である。
己の全生命力を薪とくべ、炸裂させる──要するに自爆技。
使えば最後、彼女は確実に死ぬだろう。ただ、少なくとも尊厳を守ったまま死ねる。サヨリに躊躇いはなかった。
が。
肉塊が覆い被さってきた。
樹木にも肉の触手を張り巡らせていたのだ。サヨリの視界から空が消え、世界が赤黒い闇に塗り潰されていく。
そして──闇。
絶対的な闇の中に、サヨリはいた。
身動きは取れない。指一本動かす隙間もなく、四方八方から凄まじい圧力が加えられている。
──逃げなければ。でも、どうやって?
サヨリは暗闇の中で念じていた。
◆
そして現在。
シャールはまだ戦いの渦中にあった。
斧腕、とでも呼ぶべきであろうか。
黒い小鬼の右腕はもはや生物の四肢としての形状を完全に放棄し、巨大な戦斧そのものと化していた。刃渡りは人の背丈ほどもあり、月光を反射して鈍く光る漆黒の金属質。それが弧を描いて振り下ろされるたび、大気が悲鳴を上げて裂けていく。
シャールは避け続けていた。
一撃、また一撃。致死の重撃が空を切り、大地を抉り、木々を薙ぎ倒していく。直撃すれば人体など紙屑のように引き裂かれるだろうことは明白であった。だからこそシャールは決して受けることをせず、ひたすらに身を捩り、転がり、跳躍して斧の軌道から逃れ続けている。
時折、反撃を入れると傷はつく。黒い血が飛沫き、肉が裂け、骨が軋む音がする。
だが堪えた様子はない。傷口は瞬く間に塞がり、欠損した部位は新たな肉で補填される。まるで泥人形を切りつけているかのような虚しさがあった。
──とはいえ、肉は裂ける、血は出る。ならば殺せるのだろう。
シャールの中でもう一人のシャールが冷たく言った。
それは声として聞こえるものではなかった。内なる思考の別層とでも言うべきか。感情に支配されぬ、氷のように透徹した分析者の視点である。何もシャールに複数の人格があるというわけではない。王太子教育を受けているうちに培われた、言うなれば王太子としてのシャールの思考であった。
──なぜ奴はほかの生物を取り込むのか。
もう一人のシャールが問う。
──それは未熟だからだ。
答えは即座に導かれる。一個体で完全な存在として完結しているならば、他の生物を取り込む必要はないのである。吸収し、同化し、己の一部とせねばならぬのはそれだけ己が不完全であることの証左に他ならなかった。
黒い小鬼の斧腕が横薙ぎに振るわれる。シャールは低く身を沈めてそれを躱し、同時に思考を加速させた。
ならば──とシャールは結論を導く。
──この黒い小鬼は無限に再生できるわけではあるまい。回復には資源が必要だ。肉塊から切り離された今、供給源は限られている。削り続ければ、いずれ底をつく。
もう一人のシャールは酷く合理的であった。
状況を数字に置き換え、敵の弱点を炙り出し、勝利への最短経路を算出する。そこに感情の介在する余地はなく、あるのは純然たる計算だけである。王太子として育てられた十数年の歳月がこの冷徹な思考回路を彼の脳髄に刻み込んでいた。
帝王学というものがある。
それは単なる政治の技術ではない。人を統べ、国を治め、時に民を犠牲にしてでも大局を見据える覚悟を養う学問である。情に流されず、甘言に惑わされず、常に最善手を打ち続けること。そのために必要なのは己の中に冷酷な他者を住まわせることであった。
──強欲であれ。
かつて父王から教わった言葉が脳裏を過ぎる。
強欲とは決して悪いことではない、と父王は言った。欲を欠いた王など王たりえない。なぜならば王が満足して立ち止まってしまえば、国や民もそこで終わってしまうからだ。常に飢え、常に求め、常に手を伸ばし続けること。それこそが王たる者の責務である、と。
そう、“このシャール”は強欲だ。
強欲──だからこそ、セフィラを連れて国を捨てた。
あの王宮に留まっていれば、二人は引き裂かれていただろう。無の魔力という烙印を押され、政治の道具として消費され、いずれは殺されていたかもしれない。それを許容できなかった。セフィラと共にある未来を彼は強欲に求めたのである。
強欲──だからこそ、セフィラに国を家族を捨てさせた。
公爵令嬢としての地位も、血縁の絆も、生まれ育った故郷さえも。すべてを置き去りにして逃げ出すことをシャールは彼女に選ばせた。否、選ばせたというのは語弊があるだろう。彼女自身が選んだのだ。だがその選択を迫ったのは紛れもなくシャールであった。
黒い小鬼の斧腕が天を突いて振り上げられる。
シャールは後方へ跳躍し、距離を取りながらも思考を止めなかった。
そして今、このシャールは眼前の強敵の命を望んでいる。
自身が目をかける者たちの命を損なわないために。リッキーをヴァンスをトトをミランを救うために。そして自身の命も損なうことなく、この怪物を殺すことを望んでいる。
それは王の視点であった。
王とは民を守る者である。だが同時に、王とは生き残らねばならぬ者でもある。己が死ねば守るべき者を守れなくなるからだ。だからこそ王は慎重でなければならず、だからこそ王は強くなければならなかった。
黒い小鬼は確かに強大である。腕を戦斧に変え、肉体を自在に変形させ、傷を瞬時に癒す再生能力を持つ。だがそこには知性がない。あるいは知性はあっても、それを統御する理性が欠落している。獣のように貪り、獣のように暴れ、獣のように殺す。それだけの存在に過ぎなかった。
対してシャールには理性があった。
戦闘の最中にあっても冷徹に状況を分析し、敵の弱点を探り、勝利への道筋を構築していく知性。それはこの暗い森の中で月光よりも鋭く研ぎ澄まされていた。
黒い小鬼が吼える。
言語化できぬ咆哮が森に木霊し、鳥たちが一斉に飛び立つ音が聞こえる。だがシャールは怯まなかった。むしろその咆哮を聞いて、内心で小さく笑った。
焦れているな、と。
今この瞬間、この森で最も危険な生物は黒い小鬼ではなく、シャールかもしれなかった。




