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追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話  作者: 埴輪庭
第一章

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第31話 王種⑥

 夜の底を歩いている──そんな心地であった。


 石畳を打つ靴音だけが死んだように静まり返った街路に響き、空には月があったがそれは砕けた骨片のように白く乾いていた。


 襟を立て、東へと向かう道を独り歩く。宿を出る時、セフィラの寝顔を盗み見た瞬間の記憶が喉の奥に小さな石のように引っかかっている。


 寝息の音。


 薄い毛布の起伏。


 窓から差し込む月明かりに照らされた睫毛の影──それらを振り切るようにして扉を閉めた時、蝶番が軋む音が妙に大きく響いた。


 目覚めれば怒るだろう。あるいはその聡明な頭脳で即座に事態を察し、怒りよりも深い何かを瞳に宿すかもしれない。


 二人で生きると誓った夜があった。互いの背中を預け合い、何者にも屈せず、ただ二人だけの王国を築こうと約束した。彼女の指先が自分の手の甲に触れた瞬間の温度を今も皮膚が覚えている。その契約を今夜、一方的に破棄したのである。


 裏切り──弁解の余地はない。


 だが、と己の内心に巣食う言い訳を反芻する。連れて行くわけにはいかなかったのだ。これから赴く場所は彼女のような清冽な魂が触れてよい領域ではない。もしもあの森の毒気に当てられ、リッキーのように、あるいはそれ以上に無惨な姿で朽ちていくようなことがあれば──そこまで考えて、思考が途切れた。


 想像することすら拒む何かが胸の奥で蓋をする。これは愛ではない。自己愛だ。傷つく姿を見るという耐え難い苦痛から自分自身を守ろうとしたに過ぎない。なんと卑小な男だろうか。吐き捨てるように息を吐く。白い呼気が闘に溶け、一瞬だけ形を保ってから消えていった。街外れに差し掛かると人家の灯りは完全に途絶える。


 ここから先は魔境だ。


 ◆


 ケリガンの森の入り口は、昼間見たそれとは似ても似つかぬ異様な相貌を夜気に晒していた。


 巨大な獣の腐乱した口腔、あるいは大地という皮膚に生じた膿み爛れた悪性の腫瘍か。鬱蒼と茂る木々はもはや植物としての健全な営みを放棄しているように見える。枝は苦悶にのた打ち回る死人の指のごとくねじれ、天に向かって何かを訴えるように突き出されていた。葉はどす黒く変色し、乾いた血の塊のような光沢を帯びて月光を弾いている。風が吹き抜けるたびに梢が擦れ合う音が響くのだが、それは葉擦れの爽やかな音色などではなかった。何千何万という虫が這い回る音か、あるいは喉を掻き切られた男が血泡と共に吐き出す断末魔の呻きにも似て、鼓膜に粘りついて離れない。


 腐臭が漂っている。


 獣の脂が腐ったような、甘ったるく、それでいて鼻腔の奥を焼くような悪臭。地面を覆う下草は皮を剥がれた筋肉の繊維のように赤黒く脈打ち、踏み込めば何か湿ったものが靴底を濡らしそうだった。


 ここへセフィラを連れてこなくて正解だった──喉の奥で声にならない確信が響く。この光景は彼女に見せるべきものではない。足を踏み入れるだけで精神の表層が剥がれ落ちそうな圧迫感がある。


 森の入り口で足を止め、闇の奥を睨みつけ、意識を集中した。


 視覚ではない。聴覚でもない。生まれ持ち、王宮での孤独な日々の中で磨き上げてきた"力"の感覚を薄い膜のように周囲へと展開する。


 するとどうだ、感じ取れるではないか。周囲に張り巡らせた"力"の網が明らかな異物を捉えていた。


 セフィラの仮説は当たっていたのだ。


 森の奥底から無数の細い糸のようなものが伸びてきている。それは触手のようでもあり、蜘蛛の糸のようでもあった。あるいは深海に潜む軟体動物が獲物を探って伸ばす透明な腕か。無数に蠢き、森の入り口を取り囲み、獲物がかかるのを待ち構えている。


 糸は粘着質で執拗で生き物の体温を求める寄生虫のような意志を持っていた。肌には触れていないが展開する意識の領域にはそのぬらりとした感触が伝わってくる。水底の泥に指を沈めたような、ゆっくりと絡みついてくる不快さ。普通の人間には知覚できまい。だが魔力を持つ者、あるいは鋭敏な感覚を持つ者は無意識のうちにこの"糸"に触れてしまう。そして絡め取られるのだ。


 周囲に展開された不可視の力場が砂嵐のように細かく振動した。伸びてきた触手はその力場に触れた瞬間、バチリと弾かれるように退いていく。やはり通じない。この力は魔力ではない。故に魔力を媒介とする呪いのような糸は己を捕らえることができないようだった。泥沼の上を歩くアメンボのように汚染から隔絶されている。皮肉なものだ。王宮で疎まれた異能が今はこうして命を繋いでいる。


「魔力か」


 闘に向かって低く呟く。冒険者の多くは強い魔力を持っている。鍛え上げられた魔力は皮肉にも彼らをこの森の悪意に引き寄せる灯火となっていた。無防備にその魂を晒し、見えない触手に侵入を許してしまったのだろう。リッキーが倒れたのも、調査隊が戻らないのも、すべてはこの捕食機構によるもの。森そのものが一つの巨大な消化器官と化している。獲物を誘い込み、じわじわと養分を吸い取る。


 冒険者ギルドへ戻りこの情報を伝えるべきか。それが最も合理的で安全な策であることは理解している。ギルドならば大規模な魔術師部隊を編成し、結界を張りながら進むこともできるだろう。あるいは森そのものを焼き払い、物理的に浄化するという手段も取れるはずだ。


 首を横に振った。


 遅すぎる。組織が動くには時間がかかる。会議を開き、予算を組み、人員を集める。書類が机の間を行き来し、印章が押され、誰かが責任の所在について議論を始める。その間にあの触手はさらに伸び、街の人々をリッキーたちをセフィラをも侵蝕するかもしれない。


 それにこの森に潜む"何か"が悠長に包囲網の完成を待ってくれるとは到底思えなかった。悪意を感じる。ただの自然現象ではない。明確な意志を持った捕食者の気配。それが今この瞬間にも力を増しているような切迫感があった。


 背筋を這い上がる冷たいものがある。恐怖ではない。もっと原始的な獣としての警戒信号。理屈ではない。直感が今すぐ断ち切らねば手遅れになると警鐘を鳴らしている。


 次にシャールは自身の死の可能性について考えた。


 森の奥にいる元凶が何であれ、これほどの異変を引き起こす存在である。手に負える相手ではない可能性が高い。その時はどうするか。即断する。躊躇なく背を向け、全力で逃走する。誇りも体面も捨てて、ただ生き延びることだけを考える。そして宿に戻りセフィラを叩き起こして、着の身着のままラスフェルを脱出する。


 リッキーを見捨てることになる。世話になったガッツやベルトラン、マリア、ギンタマ、セイル。この街で得た全ての縁を切り捨てて逃げることになる。非情な選択だ。かつての自分なら王族としての誇りがそれを許さなかったかもしれない。だが今、守るべき世界の全てはあの狭い宿の一室に集約されている。


 ならばなぜ、最初からそうしないのか。今すぐにでも荷物をまとめ夜逃げ同然に街を出ればいい。そうすれば危険を冒す必要などない。安全な場所へ行き、また一からやり直せばいい。自問する声が頭の中で響く。口元が歪んだ。


「それが私の甘さだな」


 自嘲するように呟くシャール。


 見捨てられないのだ、結局のところ。リッキーの泣き顔が浮かぶ。ガッツの豪快な笑い声が聞こえる。宿の主人が差し出してくれた温かいスープの湯気。ベルトランの不器用な励まし。この街で出会った人々のささやかで泥臭くて、けれど懸命な営みが足首を掴んで離さない。


 ──民を守るのは尊き者の務めである。


 不意に父王の言葉を思い出した。遠い記憶。豪奢な王宮の玉座。冷ややかな瞳で見下ろしていた父。あの頃その言葉はただの空虚な響きでしかなかった。支配者の自己正当化。弱者を搾取するための方便。金糸の刺繍が施された衣の下でどれほどの民が飢えているか知りもしないくせに。そう思っていた。


 だが今、王冠を捨て名を捨てただのシャールとなって、その言葉が別の意味を持って胸に迫る。誰かに命じられた義務ではない。血筋による強制でもない。ただ自分がそうしたいと願うからそうする。


 守りたいものがあるから、剣を取る。


 それが「務め」の本質なのかもしれない。皮肉だ。父を憎み、王家を捨てた果てに、父の言葉の真意に辿り着くとは。


 息を吸い込んだ。腐敗臭を含んだ空気が肺を満たす。腰の剣を確認し、革袋の中の砂がサラリと音を立てた。


「行くぞ」と一歩、シャールは森の闇へと足を踏み入れていった。

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