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追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話  作者: 埴輪庭
第一章

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第20話 双影

 ◆


 ラスフェルの街が寝静まり、通りの喧騒が遠い記憶のように薄れていく頃、安宿「朝霧の鐘亭」の一室には濃密な沈黙が澱のように溜まっていた。窓の外では風が微かに唸りを上げているが部屋の中にあるのはランプの芯が油を吸い上げて燃える微かな音と、時折ページがめくられる乾いた音だけであった。


 部屋は狭い。粗末な木製の寝台が二つ並び、窓際に小さな机が一脚。あとは二人の荷物が部屋の隅に置かれているだけの、殺風景極まりない空間である。しかしこの狭さが二人にとっては世界の全てであり、同時に無限の広がりを持つ宇宙でもあった。


 公爵令嬢としての華美な生活を捨て、王太子としての虚飾を脱ぎ捨てた彼らにとって、この空間こそが誰にも侵されることのない真の王国なのである。


 セフィラは寝台の縁に腰掛け、膝の上に開いた書物に没頭している。


 街の貸し本屋で借りてきたその書物は幾人もの手垢に塗れ、背表紙は擦り切れ、ページは黄ばんで独特の酸っぱいような古紙の匂いを放っていた。題名は『辺境における異端の諸相』。著者は不明だがおそらくは百年以上前にこの地を旅した物好きな学者が書き残したものであろう。内容は雑多で、土着の信仰から魔獣の生態、果ては集落ごとの酒の醸造法に至るまで、脈絡なく記されている。


 公爵家の書庫に並んでいた絢爛な装丁の稀覯本とは比べるべくもない粗悪な書物である。だがセフィラにとってそれは宝石箱にも等しかった。彼女の翠色の瞳は黄ばんだ紙面を埋め尽くす不揃いな活字の列を、飢えた獣のように貪っていた。


 文字を追う彼女の意識は既にこの薄暗い部屋にはない。北方の荒涼たる大地、吹きすさぶ風雪、そこで逞しく、あるいは無様に生きる人々の営みの中へと飛翔している。著者が記した「土着の精霊信仰における供物の変遷」という一節から、彼女はその背後にある食糧事情の変化、気候変動、さらには他種族との交易の痕跡までもを読み取ろうとしていた。


 指先がページをめくる。カサリ、という音が静寂に波紋を広げた。


 知ることへの渇望。それはセフィラという人間を構成する最も根源的な要素であった。公爵令嬢という立場を失い、家名を捨て、ただのセフィという冒険者になってもその渇望だけは変わらない。否、むしろ自由を得たことで、その知的好奇心はタガが外れたように暴走し始めていると言ってもよい。


 彼女は読む──著者の偏見に満ちた記述の行間を読み、矛盾を見つけ出し、そこから真実の欠片を拾い上げる。それは砂金採りの作業にも似ていた。泥にまみれた言葉の河床から、きらりと光る砂金を見つけ出す悦び。その知的な興奮が彼女の白皙の頬をわずかに紅潮させ、呼吸を浅く速めていた。


 一方、部屋の反対側でシャールは全く別の世界に浸っていた。


 空気が揺らいでいる。いや、正確には空気ではない。そこには無数の、極めて微細な砂粒が浮遊し、ランプの光を反射して鈍く煌めいていたのである。シャールは左手の指先を指揮者のように微かに動かしていた。その指の動きに呼応して、空中の砂粒たちが生き物のように蠢く。


 彼が操っている砂は特別なものではない。建物の解体現場や路地裏で拾い集めたただの埃混じりの砂であった。成分も大きさも不揃いな、価値のない粒子たち。だがシャールの意志が介在することでそれらは命を得る。


 彼は今、宙空に絵を描いていた。砂絵である。キャンバスは虚空。絵筆は意志。絵の具は砂。描かれているのは醜悪な小鬼の姿であった。ケリガンの森で遭遇し、そして屠ったあの小鬼たち。その記憶をシャールは砂を用いて空間に再現しようとしていた。


 小鬼の輪郭が浮かび上がる。丸まった背中、不格好に長い腕、節くれだった指。それらは単なる平面的な絵ではなく、奥行きを持った立体として構築されていた。


 シャールの眉間には深い皺が刻まれている。これは遊びではない。鍛錬なのだ。


 彼は意識を極限まで細分化していた。数千、数万という砂粒のひとつひとつに、己の精神を浸透させる。それぞれの粒子を個別に制御し、全体として一つの形を成すように統率する。それは脳が焼き切れるような集中力を要する作業であった。


 小鬼の表情が浮かび上がる。歪んだ口元、剥き出しの歯牙、欲望と恐怖が入り混じった卑しい瞳。シャールは記憶の中の小鬼を解体し、再構築していた。筋肉の付き方、骨格の構造、皮膚のたるみ具合。それらを砂粒の密度と陰影だけで表現する。


 砂の小鬼はシャールの指先の動きに合わせて、ゆっくりと首を動かした。生きているかのようだった。口が開き、音のない叫びを上げる。その細密さは狂気じみていた。歯の欠けた部分、耳の裂け目、爪の垢に至るまで、砂粒の濃淡で再現されている。


 シャールは額に汗を滲ませながら、それでも指を止めない。もっと精緻に。もっとリアルに。それは完璧主義者の業であり、同時に、己の力への恐怖を克服しようとする儀式でもあった。自分が振るう力がどれほど恐ろしいものか、彼は誰よりも理解していた。だからこそ完全に支配下に置かなければならないと考えていたし、実際それは成功しつつあった。


 ◆


 部屋の中には二つの異なる時間が流れていた。


 過去の記録を紐解き、知の海を漂うセフィラの時間。現在の空間を支配し、物質を意のままに操るシャールの時間。


 二人は視線を交わすこともなく、それぞれの世界に没入している。だがそこには断絶はない。むしろ、互いの気配を肌で感じながら安心して背中を預け合っているような、奇妙な連帯感があった。


 シャールの砂がサラサラと微かな音を立てる。それがセフィラにとっては心地よい雨音のように響き、セフィラのページをめくる音がシャールにとっては振り子のリズムのように心を落ち着かせる。


 どれほどの時間が過ぎただろうか。セフィラの手が止まった。


 彼女は最後のページを読み終え、小さく息を吐いた。パタン、と本を閉じる音が部屋の空気を変えた。それは二人の時間が再び交わる合図であった。セフィラは本を枕元に置き、凝り固まった首を軽く回すと骨が小さく鳴った。


 ふと視線を上げれば、シャールの姿がある。彼の前には砂色の幻影が浮かんでいた。セフィラは音もなく寝台から降りる。床板が軋まないように、爪先立ちでゆっくりと歩み寄る。シャールの集中を乱さぬよう、気配を殺して。そうしてその作業を覗き込む。


 そこには三体の小鬼がいた。一体は棍棒を振り上げ、一体は怯えてうずくまり、もう一体は何かを喰らっている。まるで森の一場面を切り取って、そのまま砂で固めたかのような光景にセフィラは目を見開いた。


「……凄まじいですわね」


 セフィラの口から、感嘆の吐息が漏れた。シャールの指がぴくりと止まる。同時に、空中の小鬼たちが崩れ落ちた。砂の彫像は形を失い、ただの砂の帯となって空中に漂う。


「……まだ細部は甘い所がある」


 シャールは振り返らずに言った。その声には集中を解いた直後特有の、少し掠れた響きがある。


「邪魔をしてしまいましたか?」


 セフィラは裾を払って、シャールの隣に腰を下ろした。二人の肩が触れ合うほどの距離である。


「いや、構わない。そろそろ潮時だと思っていた」


 シャールは左手を開閉し、強張った筋肉をほぐす。漂っていた砂たちは主人の意思を失い、床に落ちる……ことはなく、シャールの手元にある革袋へと吸い込まれるように戻っていった。


「それにしても、相変わらず精緻な操作ですこと。あの小鬼の表情……夢に出てきそうですわ」


「悪趣味だろうか」


「いいえ。むしろ芸術的でした。あの醜さをあそこまで克明に再現できるのは対象を深く観察している証拠ですもの」


 セフィラは膝を抱え、シャールの横顔を見つめる。ランプの明かりが彼の彫りの深い顔に陰影を落としている。王宮にいた頃よりも精悍になった気がする。日焼けした肌、瞳の奥に宿る光の強さ。


「本は読み終わったのか」


 シャールが尋ねる。


「ええ。とても興味深い内容でしたわ」


「どんな?」


「北方の少数部族における婚姻の儀式について書かれた章があったのですけれど……」


 セフィラは少しだけ言葉を濁し、視線を逸らした。頬に朱が差している。


「彼らは言葉ではなく、互いの魂の一部を交換することで契約を結ぶのだそうです」


「魂の一部?」


「ええ。具体的には……髪の毛であったり、あるいはもっと親密な……血であったり」


「野蛮だな」


「そうかもしれません。でも、著者はこう記していました。『彼らにとって契約とは紙切れに署名することではなく、互いの存在を自らの中に刻み込む行為なのだ』と」


 シャールは黙って聞いていた。互いの存在を自らの中に刻み込む。その言葉が胸の奥に重く響く。


「私たちも似たようなものかもしれないな」


 シャールがぽつりと言った。


「え?」


「神誓の儀で弾かれ、国を出て──こうして二人で生きている。契約書も、婚約の証明書もない。あるのは共犯者としての記憶だけだ」


 これまでのすべてを捨てて国を出たあの夜に、共に騎士を殺したあの夜に。言葉で飾る必要がないほどに、二人の魂はすでに混ざり合っていた。


「それは……どんな儀式よりも、強い絆ではありませんこと?」


 セフィラが囁くように言う。


 シャールは彼女の方を向いた。翠色の瞳がランプの光を吸い込んで揺れている。知的な輝きの中に、隠しきれない熱が灯っていた。夜の静寂が部屋の中の空気を濃密にしていく。


 シャールはゆっくりと手を伸ばした。鍛え抜かれた武骨な指先だ。至る所に小さな傷があり、皮膚は硬くなっている。その手がセフィラの頬に触れる。


 セフィラは身じろぎもしない。ただ、受け入れるように瞼を少し下げる。


「髪が伸びたな」


 シャールの指が彼女の亜麻色の髪を梳く。


「ええ……切ろうか迷っているのですけれど」


「必要があればそうしたらいい。ただ、少し惜しくは感じる。とても綺麗だから」


 思わず、といった風にセフィラは自分の手をシャールの手に重ねた。


「シャール……」


 名前を呼ぶ。それは問いかけであり、同時に誘いでもあった。


 シャールが顔を寄せる。自然な、重力に従うような動きで、二人の距離がゼロになる。唇が重なる。最初は軽く、触れるだけの口づけ。乾いた唇の感触。一度離れ、互いの瞳を見つめ合う。そこには王宮の書庫で初めてキスをした時のような初々しさはもうない。あるのは互いを必要とし、互いを貪り尽くしたいという、もっと切実で生々しい渇望であった。


 二度目の口づけは深く、熱を帯びたものになった。


 セフィラの腕がシャールの首に回される。シャールの腕が彼女の腰を引き寄せる。衣擦れの音が静寂の中で扇情的に響く。シャールは彼女を抱き寄せたまま、自身の膝の上に乗せるような体勢をとった。セフィラは抵抗することなく身を預ける。


「本には……続きがあるのです」


 唇を離し、息を弾ませながらセフィラが囁く。


「続き?」


「その部族の儀式……魂の交換のあと、彼らは一晩中、互いの鼓動を確かめ合うのだそうです。朝が来るまで、片時も離れずに」


 シャールは微かに笑った。この聡明な元公爵令嬢はいつだって知識を盾に、自分の欲望を正当化しようとする。その不器用さが愛おしくてたまらない。


「ならば、我々もその儀式に倣うとしようか」


「……ええ。郷に入っては郷に従え、と申しますもの」


 セフィラの瞳がとろりと潤む。シャールは彼女の首筋に顔を埋めた。脈打つ血管の上、命の音が聞こえる場所に唇を寄せる。セフィラが小さく喉を鳴らし、シャールの髪に指を絡めた。


 夜はまだ長い。

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