第18話 セフィラ仕草
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森に入って半刻ほど経った頃のことである。
シャールはふと足を止めた。
正確に言えば、止めざるを得なかったのだ。なぜならば、隣を歩いていたはずのセフィラの気配がいつの間にか消えていたからである。
振り返る。
彼女は十歩ほど後方で、地面に屈み込んでいた。
「セフィラ」
呼びかけても返事がない。
シャールは踵を返し、彼女のもとへ歩み寄った。セフィラは道端に生えた何の変哲もない雑草を、まるで稀覯本でも見つけたかのような目つきで凝視している。
「これは……」
彼女の唇がかすかに動いた。
「アオバナヤドリソウの一種ですわ。いえ、待って。葉脈の走り方が違う。もしかすると亜種かもしれません」
「セフィ」
「ご覧になって、シャール。この鋸歯の形状。通常のアオバナヤドリソウは葉縁が滑らかなのですがこれには明らかな切れ込みがございます。文献で読んだ変異体の特徴と一致しますわ」
シャールは空を仰いだ。
木々の隙間から覗く空はまだ明るい。時間に余裕がないわけではなかった。だがしかし目的は小鬼の討伐であって、植物観察ではない。
「そろそろ行かないか」
「ええ、すぐに。ただ、少しだけ」
言いながらもセフィラはまじまじと観察している。
「公爵邸の書庫には北方植物誌がございましたでしょう。あの本の第三巻に記載されていた変異体がまさにこの形状でしたの。ただ、あの文献では南方でしか確認されていないとされていて」
「セフィ」
「分布域の拡大を示す貴重な標本になるかもしれませんわ。採取しても構わないでしょうか」
シャールはため息をついた。
だがそれは諦めのため息であった。セフィラの瞳に宿る輝きを前にして、否と言える者がこの世にいるだろうか。少なくともシャールにその強靭な意志はなかった。
「……手早く頼む」
「ありがとうございます」
セフィラは嬉々として植物を根元から丁寧に抜き取り、布で包んで荷物の中にしまい込んだ。その顔には満足げな微笑みが浮かんでいる。
歩みを再開する。
シャールは意識を周囲に張り巡らせながら、セフィラの隣を歩いた。彼の内なる力が薄く広がり、蜘蛛の巣のように空間を捉えていく。今のところ魔物の気配はない。鳥の声が遠くで響き、木漏れ日が足元に斑模様を描いている。穏やかな森の風景であった。
だがその穏やかさは長くは続かなかった。
否、魔物が現れたわけではない。
セフィラがまた足を止めたのである。
「シャール」
「……何だ」
「あの樹皮をご覧になって」
指差す先には苔むした老木がそびえていた。幹には確かに何かが付着している。シャールの目にはただの苔か菌類の類にしか見えなかった。
「キノコか何かか」
「キノコですけれど、ただのキノコではございませんわ」
セフィラの目が爛々と輝いている。
「ヒカリゴケモドキです。夜になると淡い燐光を放つことで知られる菌類ですの。発光の原理は未だ完全には解明されていないのですが魔力との関連が指摘されていて」
シャールは老木に歩み寄り、その菌類を観察した。言われてみれば、確かに普通の苔とは質感が異なる。表面にかすかな光沢があり、触れると微かにひんやりとしていた。
「発光するのか。見てみたいものだな」
「夜まで待てば見られますわよ」
「それは遠慮しておく」
セフィラは残念そうに肩を落としたがすぐに気を取り直して手帳を取り出した。シャールはその様子を眺めながら、ふと疑問を口にする。
「この菌類は珍しいのか」
「この地域では比較的見られますわ。ただ、これほど大きな群落は珍しいですわね」
「群落」
「ええ。ほら、あちらにも、そちらにも」
セフィラが指差す先を追うと、確かに同じような菌類が点在しているのが見て取れた。老木だけでなく、周囲の岩や倒木にも付着している。
「この森の魔力濃度を測る指標になりますの。ヒカリゴケモドキの発生密度と魔物の出現頻度には相関関係があるという論文を読んだことがございます」
「つまり、この辺りには魔物が多いということか」
「可能性はございますわね」
セフィラは老木の位置と菌類の付着状況を書き留めていく。シャールは周囲への警戒を続けながら、彼女の説明に耳を傾けていた。
菌類の発光原理が解明されていないという話は興味深い。魔力との関連が指摘されているということはこの世界の生態系には魔力が深く組み込まれているのだろう。資料庫で読んだ小鬼の起源の話を思い出す。地の精霊界から染み出してきた存在が人間の感情に影響されて歪んでいったという話だった。この菌類もまた、何らかの形で魔力の影響を受けているのかもしれない。
「シャール?」
セフィラの声で我に返る。
「考え事をなさっていましたか」
「ああ、少しな」
「何を?」
「この菌類と魔力の関係について、だ。資料庫で聞いた話を思い出していた」
セフィラの目が輝いた。
「小鬼の起源の話ですわね。地の精霊界から染み出してきた下級精霊が人間の負の感情に影響されて歪んでいったという」
「ああ。この菌類も同じように、何らかの形で魔力の影響を受けているのではないかと思ってな」
「素晴らしい着眼点ですわ」
セフィラは感心したように頷いた。
「実際、ヒカリゴケモドキの発光は魔力の放出によるものではないかという仮説がございます。菌糸が周囲の魔力を吸収し、それを光として放出している。つまり、発光している状態は魔力を消費している状態であり」
「つまり、この菌類は魔力を食べているのか」
「食べている、というのは少々語弊がございますが……概念としては近いですわね」
シャールは改めて菌類を見つめた。
光を放つ不思議な生き物。魔力を糧として生きる存在。この世界にはまだ知らないことが山ほどあるのだと実感する。
「面白いな」
呟きは自然と口をついて出ていた。
セフィラが嬉しそうに微笑む。その笑顔を見て、シャールは少しばかり照れ臭くなり、視線を逸らした。
「そろそろ行こう」
「ええ」
歩みを再開する。だがシャールには分かっていた。この先もセフィラは何度となく足を止めるだろう。彼女にとって、この森は宝の山なのだ。
果たして、その予想は的中する。
次にセフィラが足を止めたのは地面を這う小さな甲虫を見つけた時であった。
「シャール」
「……何だ」
「この甲虫」
彼女は地面に屈み込み、落ち葉の上を這う小さな虫を凝視していた。
「オオツノコガネの亜種に酷似していますわ。この触角の形状、文献で読んだ特徴と一致しますの」
シャールは溜息をつきそうになったが堪えた。代わりに、彼女の隣に屈み込む。
「どこが違うんだ、普通の甲虫と」
「ご興味がおありですか」
「……まあ、少しは」
正直に言えば、甲虫そのものに格別の興味があるわけではなかった。虫は虫だ。シャールにとって、それ以上でもそれ以下でもない。だがセフィラがこれほど目を輝かせるものには何かしらの価値があるのだろう。彼女の知性を疑う理由などどこにもない。ならば、自分も少しは学んでみるべきではないか。
それに、とシャールは思う。
かつて王宮で学んだ帝王学の一節が脳裏をよぎった。他者との絆を深めんとするならば、その者が愛するものに心を寄せよ。相手の関心に寄り添うことは言葉を重ねるよりも遥かに雄弁な親愛の証となる──そのような教えであった。
王位を継ぐ者としての教育。今となっては無用の長物とも言えるがしかし、その本質は人と人との繋がりを築く術に他ならない。セフィラという唯一の伴侶を得た今、その教えは別の形で意味を持ち始めていた。
彼女が愛するものを知りたい。彼女の目に映る世界を共有したい。
それは打算と呼ぶには純粋すぎ、愛情と呼ぶには理屈っぽい、奇妙な衝動であった。
「嬉しいですわ」
セフィラは目を輝かせた。シャールの内心など知る由もなく、ただ素直に喜んでいる。
彼女は指先で虫の進路を誘導しながら、説明を始めた。
「まず、触角の先端をご覧になって。通常のオオツノコガネは触角が扇状に広がりますがこの個体は櫛状になっておりますの」
「櫛状」
「ええ、歯が細かく並んでいるような形ですわ。これは匂いを感知する器官でして、櫛状のものはより鋭敏な嗅覚を持つとされています」
言われてみれば、確かに触角の形が独特だ。シャールにはそれが何を意味するのか分からなかったがセフィラにとっては大発見なのだろう。
「なぜ嗅覚が鋭いと触角の形が変わるんだ」
「表面積ですわ」
セフィラは嬉々として答えた。
「匂いの……なんというのでしょう、細かい、あまりにも細かい粒を感知する器官は触角の表面に分布しています。櫛状にすることで表面積が増え、より多くの粒を捉えられるようになりますの」
「なるほど」
理屈は分かる。網を大きくすれば、より多くの魚が捕れるのと同じことだ。
「この個体が櫛状の触角を持っているということはこの森の環境に適応した結果かもしれませんわね。匂いで餌を探す必要がある環境、つまり視覚に頼りにくい暗い場所で進化したのではないかと」
「確かに、この森は木々が茂って薄暗いな」
「ええ、まさにそういうことですわ」
「さて、そろそろ……」
「ええ、参りましょう」
歩みを再開する。
だがやはりセフィラの足は何度も止まった。
沢のほとりで苔を見つけた時。
「スイカワゴケの変種ですわ。通常種より色が濃い。水質が影響しているのかもしれません」
シャールは沢の水に目を向けた。
「この水は飲めるのか」
「おそらく。スイカワゴケが繁殖している水系は概ね清浄とされていますわ」
「覚えておこう」
地面に落ちていた羽根を拾い上げた時。
「ヤマカケスの尾羽ですわ。この時期にこれほど鮮やかな色彩を保っているのは珍しい」
シャールは羽根を手に取り、光に透かしてみた。
「なぜ色が鮮やかだと珍しいんだ」
「羽根の色素は時間とともに褪せていきますの。これほど鮮やかということは落ちてからまだ日が浅いか、あるいはこの個体の色素が特別に濃いか」
「色素が濃いと何か意味があるのか」
「繁殖において有利になることがございますわ。鮮やかな羽根を持つ個体はより健康であることを示すサインになりますの」
倒木に生えた茸を発見した時。
「シメジタケの一種……いえ、違いますわね。傘の裏側の構造が異なります」
シャールは倒木に近づき、茸を観察した。
「食べられるのか」
「分かりませんわ。見たことのない種類ですもの」
「なら触らない方がいいな」
「ええ、そうですわね。でも、記録だけは……」
セフィラは手帳を取り出し、茸のスケッチを始めた。シャールは呆れつつも、その姿を眺めていた。
「君は本当に好きなんだな、こういうことが」
「ええ。子供の頃から、世界がどのように成り立っているのかを知りたいと思っておりました。星々がどのような法則で動いているのか、生き物たちがどのように暮らしているのか。そのすべてを」
「すべてを、か」
「欲張りでしょうか」
「いや」
シャールは首を横に振った。
「素晴らしいことだと思う」
セフィラが静かに微笑む。
「ありがとうございます」
沢を渡り、対岸に上がった。
空気が変わった。
明確に言語化できるものではないが何かが違う。木々の密度が増し、陽光が届きにくくなっている。下生えも茂り、視界が狭まっていた。
シャールは意識の網をさらに広げた。
そして感知する。
北東の方角。およそ百歩先。複数の気配が蠢いている。
「いるな」
小声で呟く。
「小鬼か」
セフィラの声にも緊張が滲んでいた。彼女には探知の力はないがシャールの変化には気づいたのだろう。
「ああ。六体ほどだ。動きが緩慢で、まだこちらには気づいていない」
「どうなさいますか」
「接近する。君は私の後ろに」
「承知いたしました」
二人は足音を殺しながら、気配の方向へと進んでいった。
木々の間を縫い、茂みを迂回し、少しずつ距離を詰めていく。やがて、前方の窪地にそれらの姿が見えた。
小鬼である。
六体。いずれも成体のようだった。薄汚れた緑色の肌、尖った耳、ぼろ布を腰に巻いただけの姿。資料庫で聞いた通りの外見をしている。
彼らは窪地の中央で何かを囲んでいた。動物の死骸だろうか。奪い合うように肉を貪っている様子が見て取れる。
シャールは茂みの陰から観察を続けた。
六体の中で、一体だけ他より体格が大きい。おそらくあれが群長だろう。他の個体より一回り上背があり、腰には錆びた短剣を帯びていた。
「群長がいますわね」
セフィラが囁く。
「ああ。まず私が斬り込む。だがその前に、君の力で先制攻撃をしてくれないか?」
「お任せください」
そう言うなり、彼女は右の拳を小鬼たちに向けて突き出した。
「えいっ」
可愛らしい掛け声であった。
だが次の瞬間に起きた出来事はその声の響きとはおよそ釣り合わぬものだった。
何が起きたのか、シャールにも一瞬理解できなかった。
窪地の中央で、小鬼たちの姿が消えたのだ。
否、消えたのではない。
潰れたのだ。
まるで天から巨大な岩石が落下してきたかのように、六体の小鬼がまとめて地面に叩きつけられていた。不可視の圧力が彼らを上から押し潰し、骨を砕き、肉を裂き、内臓を破裂させたのである。
群長も例外ではなかった。
他の個体より一回り大きかった体躯は今や判別もつかぬほどに変形している。頭蓋が陥没し、眼球が飛び出し、口からは黒ずんだ血と歯の欠片が溢れ出していた。腰に帯びていた錆びた短剣だけがかろうじて元の持ち主を示す手がかりとなっている。
窪地は一瞬にして凄惨な光景へと変わり果てていた。
ぬらりとした肉塊があちこちに散らばり、血と臓物が地面を赤黒く染めている。ぐしゃり、と何かが潰れる湿った音が遅れて耳に届いた。それは骨格を完全に破壊された死骸が自重で更に変形していく音であった。
悲鳴を上げる暇すらなかっただろう。
六体の小鬼は文字通り一瞬で絶命していた。
シャールは呆然と立ち尽くしていた。
剣を抜く暇もなかった。構える暇も、踏み込む暇も、何もかもが。
視線がセフィラへと向く。
彼女は突き出した拳をゆっくりと下ろしながら、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。
「……すみません」
おずおずと、セフィラが口を開いた。
「少々、力を入れすぎてしまいましたわ」
シャールは窪地に目を戻した。
原形を留めぬ死骸の山。飛び散った血飛沫。地面に染み込んでいく体液。
それから、再びセフィラを見た。
「……少々」
「ええ。少々……本当に、その。ただ、少しだけ力が入ってしまった……かも? 多分……」
「そうか」
セフィラは頬を染め、視線を逸らした。
「加減が難しいのです。どうしても」
シャールは深いため息をついた。
セフィラの力がシャールのそれとは比較にならないことは知っていた。彼女は精密さには欠けるがその代わりに圧倒的な破壊力を持っている。だがまさか、これほどとは。
「……証拠の採取ができるか怪しいな」
「あ」
セフィラが声を上げた。
その顔に、今更ながら焦りの色が浮かぶ。
「耳を持ち帰らないと、報酬が……」
「分かっている」
シャールは窪地へと降りていった。足元がぬかるんでいる。血と臓物が靴底に絡みつく感触があった。
「形の残っているものを探そう」
「は、はい……」
セフィラも慌てて後に続く。
結局、六体分の耳を確保するのに、予想以上の時間を要することになった。無傷の耳など一つもなく、辛うじて形を保っているものを丁寧に切り取っていく作業は戦闘そのものより余程骨が折れた。
「……次からはもう少し手加減してくれ」
「善処いたします」
セフィラは殊勝な顔で頷いた。
だがその声にはどこか自信なさげな響きがあった。
シャールは嫌な予感を覚えたが口にはしなかった。




