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追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話  作者: 埴輪庭
第一章

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17/30

第17話 討伐依頼

 ◆


 朝の鐘が街に響き渡った。


 ラスフェルの東端にそびえる時計塔から放たれるその音色は、街に暮らすすべての者にとって一日の始まりを告げる合図である。商人は店を開き、職人は火を起こし、冒険者たちは宿を出てギルドへと足を向ける。


 シャールもまた、その鐘の音で意識を覚醒させた。


 瞼の裏に朝の光が滲む。だがすぐには起き上がらなかった。右腕に重みがある。視線を落とせば、亜麻色の髪がそこに広がっていた。


 セフィラだ。シャールの腕を枕に穏やかな寝息を立てている。


 ──起こすべきだろうか。


 そう考えはしたものの、体は動かなかった。というより、動きたくなかった。


 朝の光が少しずつ部屋に満ちていく。窓の外からは商人たちの声が微かに聞こえてくる。セフィラの寝息だけがすぐ傍らで静かに続いている。


 そうしている内に、セフィラの瞼がゆっくりと開く。翠色の瞳が朝靄の中で揺れ、焦点が合うまでに数秒を要した。


「……おはようございます、シャール」


 寝ぼけた声。まだ完全には覚醒していないのだろう。


「おはよう」


「あら……」


 自分の状態に気づいたらしい。頬がわずかに染まる。


「申し訳ありません。腕が痺れてしまったのでは」


「多少はな」


 シャールは肩をすくめてみせた。


「だが悪くない目覚めだった。朝一番に君の顔を見れるというのは嬉しい事だ」


 その言葉にセフィラの頬の赤みが増す。彼女は慌てて身を起こし、乱れた髪を手で整えた。


「もう、朝からそのようなことを……」


 ◆


 冒険者ギルドは朝から賑わいを見せていた。


 吹き抜けの大広間には依頼を求める者、報告に訪れた者、仲間と打ち合わせをする者たちが入り混じっている。その喧騒の中を、シャールとセフィラは慣れた足取りで進んでいった。


 依頼の掲示板に向かおうとしたところで、聞き覚えのある声が二人を呼び止める。


「おう、シャルにセフィ。ちょうどいいところに来たな」


 振り返ると、ベルトランがカウンターの向こうから手を振っていた。依頼の受付から報酬の支払いまでを一手に担う中堅職員である。無骨な外見とは裏腹に、その仕事ぶりは的確で無駄がない。


 シャールとセフィラはカウンターの前へと歩み寄った。


「何か用か」


「ああ、ちょっとな」


 ベルトランは腕を組み、二人の顔を順に見る。


「お前ら、そろそろ討伐依頼を受けてみたらどうだ」


 その言葉に、シャールの眉がわずかに動いた。


「討伐依頼」


「そうだ。ここ一か月、お前らは雑用ばかりこなしてきた。水汲み、荷運び、解体、薬草採取。まあ地道な仕事だがな、評判はすこぶる良いらしい」


 ベルトランは机の上に広げた帳簿に目を落とした。


「依頼主からの苦情はゼロ。むしろ指名で来る仕事も増えてきてる。これだけ信頼を積み上げたんだ、次の段階に進んでもいい頃合いだろう」


 シャールは黙って話を聞いていた。


 セフィラもまた、穏やかな表情でベルトランの言葉を受け止めている。


「ケリガンの森って知ってるよな」


「ああ」


「ラスフェル近郊の森だ。街道から半日ほど北東に入ったところにある。森の浅層は採取依頼で何度か行っただろう。だがな、中層より奥には魔物が跋扈してる」


 ベルトランの声がわずかに真剣味を帯びた。


「小鬼、角兎、毒蜥蜴、灰狼……まあ下級の魔物が中心だな。とはいえ油断すれば命に関わる連中ばかりだ」


「それを討伐する依頼があると」


「ああ。ギルドでは定期的に間引きを行ってる。放っておくと数が増えすぎて、そのうち人里に溢れ出してくるからな」


 間引き。


 その言葉に、シャールはふと疑問を覚えた。


「完全に根絶やしにはしないのか」


「しない」


 ベルトランの答えは明快だった。


「理由は単純だ。魔物がいなくなれば討伐依頼がなくなる。討伐依頼がなくなれば冒険者が育たない。冒険者が育たなければ本当に危険な魔物が現れた時に対処できる者がいなくなる」


 なるほど、とシャールは内心で頷いた。


 ある種の生態系管理である。魔物を完全に駆逐するのではなく、適度な数を維持することで冒険者たちの訓練場として機能させている。冷徹ではあるが合理的な判断だった。


「それにな」


 ベルトランが付け加える。


「魔物ってのは素材としての価値もある。皮、牙、角、内臓。物によっては高値で取引される。完全に絶滅させちまったら、そういう産業も成り立たなくなる」


「経済的な側面もあるのですね」


 セフィラが静かに相槌を打った。


「そういうことだ」


 シャールは腕を組み、しばし考え込んだ。


 討伐依頼を受けるかどうか。その判断を下すにあたって、いくつかの要素を天秤にかける必要がある。


 まず、メリット。


 報酬は雑用の比ではない。銀貨数枚の仕事を数日に一度こなすだけで、今の生活水準を維持できるだろう。時間的な余裕が生まれれば他のことに手を回す余地も出てくる。


 さらに、戦闘経験を積むことができる。いつまでも雑用だけでは、いざという時に身を守る術が錆びついてしまう。あの森で騎士団を相手にした時の感覚を維持するためにも、実戦の機会は必要だった。


 次に、デメリット。


 怪我のリスクがある。最悪の場合は命を落とす可能性すら否定できない。セフィラを危険に晒すことへの抵抗感は依然として強い。


 だが同時に、彼女もまた戦える身である。あの時、騎士たちにとどめを刺したのは他ならぬセフィラ自身だった。彼女を守るべき対象としてのみ見るのは、むしろ彼女への侮辱かもしれない。


 そしてもう一つ。


 シャールの思考は別の方向へと向かった。


 なぜベルトランは自分たちに声をかけてきたのか。


 単なる親切心だろうか。


 それとも他に理由があるのか。


 シャールは視線を上げ、ベルトランの顔を観察した。その表情には作為的なものは見当たらない。だがそれだけで判断を下すのは早計だ。


 ギルドという組織にとって、シャールとセフィラはどのような存在なのだろう。


 ここ一か月、二人は着実に評価を積み上げてきた。依頼主からの信頼も厚い。そうした実績を持つ冒険者が次の段階に進むことを、ギルド側が望まない理由はない。


 逆に言えば、いつまでも雑用ばかり受け続ける冒険者は組織にとって扱いにくい存在となる。成長の意欲がないのか、それとも何か隠された事情があるのか。いずれにせよ、怪しまれる要因になりかねない。


 ベルトランの提案を受け入れることは、ギルドに対して「自分たちは普通の冒険者として成長していく意志がある」という意思表示になる。


 断れば逆の印象を与えることになるだろう。


 無用な詮索を避けるためにも、ここは素直に従っておくのが賢明だ。


「分かった」


 シャールは静かに答えた。


「討伐依頼を受けてみたいとおもうが──セフィ、君はどう思う」


「彼がそう決めたのなら、わたくしに異論はありません」


 セフィラは穏やかに微笑んだ。


「新人向けの依頼から始めればよろしいのでしょう?」


「ああ、そうしてくれ。いきなり大物を狙うなよ。まずは小鬼あたりからだ」


 ベルトランは満足げに頷いた。


「それとな、もう一つ話がある」


 彼は机の下から一枚の木札を取り出した。


「資料庫の使用許可だ」


「資料庫?」


 シャールとセフィラは顔を見合わせる。


「ギルドの地下にある。魔物に関する情報、過去の討伐記録、地形図、そういったものが保管されてる場所だ」


 ベルトランは木札を二人の前に置いた。


「普通は誰でも使えるってわけじゃない。ギルドが認めた者だけに許可が出る」


「なぜ制限を?」


 シャールの問いに、ベルトランは肩をすくめた。


「情報だけを目的とする連中がいるからだ」


「情報だけ……」


「依頼を受ける気もないのに、魔物の弱点や生態を調べに来る奴らがいる。そういう連中に無料で情報を提供してやる義理はないってわけだ」


 なるほど、とシャールは納得した。


 情報には価値がある。それを対価なしに提供すれば、ギルドの存在意義そのものが揺らぎかねない。一定以上の貢献を積んだ者にのみ開示するというのは理に適っている。


「お前らはこの一か月で十分な実績を積んだ。資料庫を使う資格があると俺は判断した」


 ベルトランは木札を指で叩いた。


「これを見せれば入れる。討伐に出る前に一度覗いてみるといい。書庫は奥の、ほら、あの扉だ。階段を下った先に爺さんがいるからそいつに見せろ」


 シャールは木札を手に取った。磨り減った木の表面にギルドの紋章が刻まれている。


「感謝する」


「礼はいらん。お前らが生き残って戻ってくれば、それが俺の評価にも繋がる。そういう話だ」


 ベルトランは照れ隠しのようにそっぽを向いた。


 ◆


 石造りの階段を下りていくと、突き当たりに重厚な扉があった。


 その前に一人の老人が座っている。白髪を後ろで束ね、眼鏡越しにこちらを見上げた。深い皺が刻まれた顔には、長い年月を経た者だけが持つ独特の重みがあった。


「許可証は」


 シャールが木札を見せると、老人はそれを手に取り、しばらく眺めた。


「ふむ。ベルトランの署名だな。入っていい」


 老人が扉を開ける。


 中に足を踏み入れた瞬間、シャールは思わず息を呑んだ。


 広い。


 想像していたよりも遥かに広大な空間が地下に広がっていた。天井までそびえる書架が幾重にも並び、その間を細い通路が縫っている。書物だけではない。巻物、木簡、羊皮紙の束、標本らしき瓶詰め。ありとあらゆる形態の記録がここに集積されていた。


「すごい……」


 セフィラが感嘆の声を漏らす。


「これほどの規模とは思いませんでした」


「二百年分の蓄積だからな」


 背後から声がした。


 振り返ると、先ほどの老人が扉を閉めてこちらを見ている。


「ラスフェルが建都されて以来、この街を訪れた冒険者たちが持ち帰った情報がすべてここに保管されている。魔物の生態、討伐法、分布図。国家機密にも匹敵する情報量だ」


 老人は眼鏡を押し上げた。


「だからこそ、誰でも入れるわけではない。お前たちが許可を得たということは、相応の信頼を勝ち取ったということだ。その意味を忘れるなよ」


「肝に銘じます」


 シャールは深く頭を下げた。


「して、何を調べに来た」


 老人は杖を突きながら書架の間を歩き始める。その足取りは老齢とは思えぬほど確かなものだった。


「小鬼についてだ」


 シャールが答える。


「明日、ケリガンの森で小鬼の討伐依頼を受ける予定でいる。事前に情報を得ておきたい」


「ほう、小鬼か」


 老人は足を止め、振り返った。眼鏡の奥の瞳に、どこか懐かしげな光が宿る。


「新人がまず相手にする魔物としては定番だな。だが、侮ってはならん。小鬼で命を落とす者は毎年後を絶たない」


「基本的な生態を教えていただけますか」


 セフィラが一歩前に出た。


「書物を読むだけでは得られない、実践的な知識があればぜひ」


 老人はしばし二人の顔を見比べていたが、やがて近くの閲覧机へと歩み寄った。


「座れ。立ち話で済む内容ではない」


 三人が机を囲むと、老人は静かに語り始めた。


「まず、小鬼とは何か。お前たちはどこまで知っている」


「人の膝から腰ほどの背丈を持つ魔物です」


 セフィラが答える。


「緑がかった肌、尖った耳、鋭い牙。知能は低いとされていますが、集団で行動し、狡猾な罠を仕掛けることもあると聞いています」


「教科書通りの回答だな」


 老人は皮肉げに鼻を鳴らした。


「だが、それだけでは不十分だ。小鬼を真に理解するには、もっと根源的なところから知る必要がある」


「根源的なところ、とは」


 シャールが問う。


「魔物とは何か。そこから話を始めねばなるまい」


 老人は机の上で指を組んだ。


「この世界には、我々が暮らす物質界とは別に、いくつかの〈界〉が重なり合って存在している。火の精霊界、水の精霊界、風の精霊界、そして地の精霊界。それぞれの界には、その属性を司る精霊たちが棲んでいる」


「精霊界……」


 セフィラの目が輝いた。


「小鬼は地の精霊界に属する存在と聞いた事があります」


「そうだ。正確に言えば、小鬼の原型となる存在は地の精霊界に棲む下級精霊だった。土くれや岩に宿り、大地の循環を司る存在だ。本来は知性も乏しく、人に害を成すような存在ではなかった」


「では、なぜ今のような姿に」


「魔力だ」


 老人の声が低くなった。


「この世界には魔力が遍在している。空気のように、水のように、あらゆる場所に満ちている。そしてこの魔力とは──」


 老人は一拍置いた。


()()()()()()()だ」


 シャールの眉が動いた。


「願いを、叶える」


「そうだ。魔力とは本質的に、意志や願望に反応して現実を変容させる力だ。人が魔術を使う時、その根底にあるのは術者の願いだ。火を起こしたい、水を操りたい、傷を癒したい。そうした願いに魔力が応え、現実を書き換える。それが魔術の正体だ」


 セフィラは食い入るように老人の言葉に聞き入っていた。


「では、小鬼が歪んだのも、何者かの願いによるものなのですか」


「いい質問だ、お嬢さん」


 老人は満足げに頷いた。


「必ずしも明確な意志を持った者の願いとは限らん。魔力は意志に反応するが、その意志が誰のものかは問わない。生きとし生けるものすべてが持つ漠然とした欲求、恐怖、怒り、悲しみ。そうした無数の感情が魔力に影響を与え、世界を少しずつ歪めていく」


「無数の感情が……」


「人が魔物を恐れれば、その恐怖が魔力を通じて魔物をより恐ろしい存在へと変えていく。人が魔物を憎めば、その憎しみが魔物をより凶暴な存在へと駆り立てる。一種の悪循環だな。地の精霊界の下級精霊たちは長い年月をかけて物質界に染み出してきた。そして人間の恐怖や敵意といった負の感情に晒され続けた結果、今のような姿へと歪んでいった。本来の純粋さを失い、攻撃性と狡猾さを身につけた。それが小鬼だ」


「興味深いですわ」


 セフィラは身を乗り出した。


「では、小鬼には地の精霊としての性質が残っているのでしょうか。例えば土や岩に関連した特性とか」


「よく気づいたな」


 老人の目が細まった。


「小鬼は地下や洞窟を好む。これは単に暗がりを好むというだけでなく、大地との繋がりを本能的に求めているからだ。土の中にいる時、彼らは傷の治りが早くなる。逆に、川を渡ったり水場の近くにいると弱体化する傾向がある」


「水に弱いのですか」


「弱いというほどではないが、居心地が悪いのだろう。地の精霊にとって水は相性が悪い。小鬼が川を渡って追ってくることは稀だ。覚えておくといい、いざという時の逃げ道になる」


 シャールは頷いた。実戦で使える情報だ。


「他にも何かありますか」


 セフィラはさらに問いを重ねる。


「小鬼の社会構造についてお聞きしたいのですが。群れの中での役割分担や、意思決定の方法など」


「お嬢さん、学者になった方がいいんじゃないか」


 老人は呆れたように、しかしどこか嬉しそうに言った。


「小鬼の群れには必ず一匹、他より体の大きな個体がいる。群長と呼ばれる存在だ。この群長が群れ全体の行動を統率している」


「群長……」


「群長は単に体が大きいだけではない。魔力の濃度が他の個体より高く、それゆえに知能も高い。罠を仕掛けたり、待ち伏せの指示を出したりするのは大抵この群長だ」


「では、群長を倒せば群れは瓦解するのですか」


「そう単純ではない」


 老人は首を振った。


「群長が死ぬと、群れは一時的に混乱する。だが、しばらくすると次に魔力の濃い個体が新たな群長となる。根本的な解決にはならん」


「数を減らすしかない、と」


「そういうことだ。だからギルドは定期的に間引きを行っている。完全な駆除が不可能である以上、数を管理するしかない」


 セフィラは考え込むように顎に手を当てた。


「魔力の濃度で個体差が生まれるということは……その群長と呼ばれる存在よりも、さらに特異な個体が生まれることがあるのでしょうか」


「ある」


 老人の声がわずかに硬くなった。


「ごく稀にだが、異常に魔力を蓄えた個体が出現することがある。そういった個体は通常の小鬼とは比較にならない知能と戦闘力を持つ。王と呼ばれる存在だ」


「王……」


「百年に一度出るかどうかという存在だがな。最後に確認されたのは七十年ほど前、北の山脈地帯だったと記録にある。討伐には大分骨を折ったそうだ。……まあ、お前たちが遭遇することはまずないだろう」


 老人は空気を和らげるように付け加えた。


「ケリガンの森にいるのは通常の小鬼だ。群長クラスでも、二人で協力すれば十分に対処できる」


「ありがとうございます」


 セフィラは深々と頭を下げた。


「大変勉強になりました」


「礼には及ばん。情報を伝えるのがわしの仕事だ」


 老人は立ち上がり、杖を突いた。


「それより、もう一つ忠告しておく」


 その目が鋭くシャールを射抜いた。


「小鬼を相手にする時、決して油断するな。傷ついたふりをして同情を誘い、近づいた者の喉を掻き切る。そういう狡猾さを持っている」


 シャールは静かに頷いた。


「肝に銘じる」


「それから」


 老人の視線がセフィラに移った。


「お嬢さん。あんたからは独特の気配を感じる。魔術師か」


「……ええ」


 セフィラは一瞬だけ逡巡したが、やがて頷いた。


「多少は心得がありますわ」


「なら、なおさら気をつけろ。小鬼は魔力に敏感だ。魔術師を優先的に狙う傾向がある。魔力の匂いに引き寄せられるんだろうな」


「ご忠告、感謝いたします」


 老人は頷くと、ふと思い出したように付け加えた。


「そうだ、討伐の証について説明しておらんかったな」


「証?」


 シャールが問い返す。


「ああ。小鬼を討伐したという証拠がなければ、ギルドは報酬を支払わん。当然だろう、口だけで『十匹倒しました』と言われても確認のしようがない」


「何を持ち帰ればよいのですか」


「耳だ」


 老人は自分の耳たぶを指で示した。


「小鬼の耳を切り落として持ち帰る。一体につき耳は二つ。つまり、耳二つで一体分の討伐証明となる」


 シャールは眉根を寄せた。血と臓物の匂いを想像したのだろう。討伐そのものよりも、その後の処理の方が精神的な負担になりそうだった。


「鮮度は問わん。ただし、あまりに腐敗が進んでいると判別がつかなくなるから、そこだけは気をつけろ。専用の袋をギルドで支給している。塩が染み込ませてあって、多少は保存が利く」


 老人の視線がセフィラへと移った。その目には、いくばくかの懸念が浮かんでいるようだった。


「……お嬢ちゃん」


「はい」


「荷が重いかもしれんな、この作業は」


 その言葉の意図は明らかだった。貴族の令嬢然とした雰囲気を纏うセフィラに、魔物の死体から耳を切り落とすという行為が務まるのか。老人なりの気遣いだろう。


 だがセフィラは、むしろ不思議そうに小首を傾げた。


「ご心配には及びません」


「ほう?」


「わたくし、以前は……少々、そういった作業に慣れる機会がございましたの」


 言葉を選ぶように、セフィラは続けた。


「植物の押し花から始まり、昆虫の標本、小動物の骨格標本なども作成したことがございます。解剖の手順も、保存処理の方法も、一通り心得ておりますわ」


 セフィラは公爵令嬢時代、博物学の分野に興味を示していた。屋敷の一室には彼女が作成した標本のコレクションが並んでいたものだ──もっとも、今となっては手の届かない過去の話だが。


「刃物で組織を切り分ける感覚には慣れております。小鬼の耳を切り落とす程度であれば、何の支障もございません」


 老人は目を丸くした。


 見た目の印象と発言の内容との落差に、しばし言葉を失っているようだった。


「……そうか」


 やがて老人は、どこか感心したように息を吐いた。


「見かけによらず肝が据わっておるな、お嬢さん」


「お褒めに与かり光栄ですわ」


 老人に礼を述べ、二人は資料庫を後にした。


 石段を上り、ギルドの喧騒の中へと戻る。朝の人混みはいくらか落ち着きを見せていたが、それでも広間には依頼を求める者たちの姿が絶えない。シャールは受付で討伐依頼の木札を受け取り、詳細を確認した。ケリガンの森中層にて小鬼を五体以上討伐すること。報酬は銀貨三枚。期限は三日以内。


 宿に戻ると、セフィラは手際よく荷造りを始めた。


 傷薬、包帯、保存食、水袋。先日買い揃えた品々が革袋の中に収められていく。シャールもまた腰の長剣を確かめ、短剣の鞘がしっかりと固定されているかを点検する。鍛冶屋のガッツから譲り受けた無骨な刃は、この一か月で幾度となく振るわれ、すでに手に馴染んでいた。


「準備はこれで十分でしょうか」


 セフィラが振り返る。


「ああ。行こう」


 街の東門を抜けると、石畳の道が土の街道へと変わった。


 午前の陽光が二人の背を照らしている。空には薄い雲が流れ、風は穏やかだ。討伐に出るには悪くない天候と言えるだろう。街道沿いには荷馬車の轍が幾筋も刻まれ、行商人や旅人の姿がちらほらと見える。シャールとセフィラは足早にそれらを追い越し、やがて分岐点に差しかかった。


 北東へ折れる細道。その先にケリガンの森が広がっている。


「ここからですわね」


 セフィラが呟いた。


 道は次第に細くなり、両脇から木々が迫ってくる。陽光が遮られ、空気がひんやりと湿り気を帯び始めた。鳥の声が遠くで響いている。だがそれ以外に音はない。風が梢を揺らす微かなざわめきだけが耳に届く。


 シャールは無言で歩を進めながら、周囲に意識を張り巡らせていた。


 彼の内なる力が薄く広がり、蜘蛛の巣のように空間を捉えていく。今のところ異常は感じられない。だが油断は禁物だ。


 そうして森の奥へ、二人の姿は緑の闇に呑まれていった。



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