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第9話 眠れる姫に王子のキスが無いのなら

──桜路は、私に恋をしていた


全身の力が抜けて、なんの舗装もされていない地べたにも関わらず、私はへたりこんでいた。


「ネムはかっこいいな」「ネムがいれば、探偵部はもっとよくなるよ」「ネムは綺麗だからな」そんなこと、他の女に気軽に言うほど朴念仁な男じゃない。

そんな軽薄な男だったら私はこんなに苦しんでいない。

私が好きな私のことを、桜路は好きでいてくれた。

本当は弱くて意地っ張りでかっこつけな私の、かっこいいところを好きでいてくれた。


「……何目移りしてんのよ……バカ……」


アイツが自分から離れるわけがないと慢心しているうちに、ぽっと出の女に奪われるなんて、意地張って本当のことを言わないでかっこつけていたせいで、目移りされるなんて、なんてみじめで恥ずかしくてダサいのだろう。


「…………じゃあ、尚更忘れた方がいいじゃん!」


私の思考に呼応するように山口の声が聞こえてきた。

うるさいうるさい。そんなことできるならとっくにしているに決まってるでしょ!!

林檎だってきっと……


「はは、あんた正直だね」


私と同じように、林檎も怒ると思いきや、思いのほか面白がるように笑っていた。


「そうだね。忘れた方が、きっと楽なんだろうね」


その言葉にふつふつと怒りのような感情が沸き上がってくる。短時間で驚きと悲しみと怒りと後悔の感情がドロドロに混ざり合って、感情がめちゃくちゃになっているんだ。最悪。

まるで山口の言葉が正論かのように空を見上げる林檎。アンタ、そんな簡単に忘れる気?みんなのように新しい彼氏でも作って、さっさと次に行く気?私にこんな事実を知らせておいて?


「忘れていいの?全部?」


林檎が、とどめのように首を傾げた。この女、山口なんて見ていない。

ただただ、私の感情をめちゃくちゃにかきまわすためだけに言葉を吐いている。


急に出てきた希望に、「お、俺が……」と山口が手を伸ばす。


「だめ、そんなの許さない」


気づいたら、よろよろのまま立ち上がって、私は林檎に伸ばされた山口の腕を叩き落としていた。


「い、井原さん……⁉︎」

「悪いけど、コイツは向こう数年は桜路を引きずる予定なの諦めなさい」


土まみれのスカートにガクガクの足、なぜか涙がにじんでいる目に真っ赤な顔。史上最強にカッコ悪くて不細工だったと思う。


「わぁ、ネムりんかぁわいい」


そんな私を林檎は心底嬉しそうに出迎えた。


「ど、どういうことだよ井原さん⁉︎なんで井原さんがそんなこと決めるんだよ」

「……言い方を変えるわ。向こう数年はコイツは私と一緒に苦しむの。私が先約済みだから退けなさいって言ってるの」

「え、あ、え」


助けを求めるように山口が林檎に視線を送った。

林檎は、ニヤリと、いつもの腹の立つ笑みを浮かべていた。


「そういうことみたい。私、ネムりんに予約されてるみたいだから~……ごめんね?」


急に饒舌になった林檎は、あっさりと山口を振った。

山口は気まずそうに公園から退散した。


「ふふ、言質取ったり」


黒目がちな瞳が半月型に歪む。笑っているのに、妙に迫力があって、吸い込まれるような変な力がある。まるで人の皮をかぶった怪異みたいに、人を堕落させる悪魔みたいに。


「くっそ、放っておく気だったのに…………」


頭を抱えながら、私は林檎の隣に座った。

なんでこんなことをしてしまったのだろう。


「私があの青春を過去のものにして、次の恋に行くのが許せなかったんだ」


この女。私が自身の行動の理由を自覚するのを先回りして、完璧に言語化しやがった。


「嬉しいな~ネムりん、私と一緒に地獄を歩いてくれるんだね」


呪いのように耳に纏わりつく甘ったるい声を、散らすように私は舌打ちをする。


「アンタ、私に聞こえるように言ったでしょ」

「いやぁ、まさかネムりんが盗み聞きしてるなんてなあ。趣味が悪いねえ」


いけしゃあしゃあとそんなことを言う。ぶん殴ってやりたい。

残念ながら、私には、とてもそんな力は残っていないのだが。


「……今更そんなこと気づかせてどうすんのよ。もう全部遅いじゃない……」

「何が?」


林檎が意地悪に聞き返した。

この女、自分でつけた傷の傷名を口に出させようとしている。

出会った中で一番性格の悪いクソ女。

私はやけになって、大きな声で言ってやった。


「……私も、アンタと同じで桜路が好きだったから!さっさと告白できてたら違う未来があったのかもってことよ」

「言えたじゃん」


なぜだか嬉しそうに微笑む林檎。


「何よ偉そうに……っ」


私は怒りに身を任して、いつものひねくれた言葉を叫びそうになる。しかし、この言葉の続きを言ってしまうと、自分がひどくみじめになる気がして、どうにかこうにか飲み込んだ。


「ふふ、ダサいねぇ。ネムりん」


私が奥歯を噛んで項垂れると、林檎はまるで恋人が寄り添うように手を握ってきて、悪魔のように顔を覗き込んできた。


「大丈夫、私が一番ダサいんだ。諦められなくて、納得いかなくて、ずっとあがき続けてる」


林檎は、小さく息を吸って、ゆっくりと吐いた。


「好きな人間に発情してるだけなのに、どんなに頭の良い人も獣みたいに必死に求愛して、どうやったら自分のものにできるか考えてる。ダサいよねぇ。恋って」


そして、林檎は饒舌に語りだした後、ゆっくりと言い聞かせるように言った。


「だから、ネムりんは恋してたんだよ」


青春なんて恋だけじゃない。

勉強を頑張ればいい、友達でも作ればいい。新しい趣味を見つけたっていい。

私がこれから鮮やかな青春を取り戻す手段なんていっぱいある。それでも。


「ねぇ、ネムりんはこれからどうするの?私と地獄を歩いてくれるんだっけ?」

「……なんでこの私に惚れときながら、あのちんちくりんの泡歌に靡いたのか、問い正さないと気持ち悪い」


今まで、謎を追うなんて、桜路といるための口実だった。

生まれてはじめて自分から謎を追いたいと思った。

あぁ、厄介な思い出に捕まってしまった。


「ふふ、ごめんね。責任とって一緒に苦しんであげる。逃がさないから安心してね」


私より少しだけ背が高いのに、上目遣いで彼女は微笑んだ。

その笑みを見ただけで、選択肢間違えたのかもしれないと頭が警笛を鳴らす。


だが、私はきっと、あの日からずっと、間違いを選び続けているのだから、こんなことは些事だろう。


――この女を置いていけなかったのが、私の運の尽きだ。


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