(第9話)辺境鉱山の亡霊
王都の夜明けは紙の匂いだったが、辺境の朝は鉄と松脂だ。私とセドリックは、監査院の供馬車に揺られて三日、峡谷を縫う鉱山道へ入った。山肌はむき出しの赤茶で、斜面に刻まれた掘り跡が古い楽譜のように見える。風が鳴れば、譜面台の上で紙が震える音がする。ここでは鐘の音より、風の音が早い。
鉱山町の入り口で、坑夫たちの目が一斉にこちらを見た。瞳に泥の色、皮膚に粉塵の白。彼らの視線は、疑いでも敵意でもなく、“早くしてくれ”の焦りに近かった。焦りは善い。遅さに耐えかねた誠実だ。
「レオノーラ・ヴァイス。監査院の臨時審理と、公開会計のために来ました」
私は掲示布を開く。王都で使う厚紙は山では贅沢だ。布に墨を打てば、粉塵でも読める。
「“白い帳簿”の手紙はどこから?」
前に出たのは、髭に鉄粉を噛ませた中年の坑夫頭ダン。「俺たちの帳場からだ。――これを見ろ」
彼が差し出したのは、二冊の帳簿。表紙は同じ茶革、表のページは綺麗に空白。裏表紙の裏から、逆さ綴じで細かい字がびっしり並ぶ。
〈賃銀控除(安全費)〉〈賃銀控除(灯油)〉〈賃銀控除(社宅修繕)〉〈賃銀控除(購買部立替)〉――。控除、控除、控除。穴の縁に穴を開けて、土が尽きるまで崩すやり口だ。
「“白い帳簿”は二重綴じ。表が空白、裏が本当。――亡霊は鉄ではなく数字、というのは、これですね」
ダンは笑わない。「笑う余裕は坑道に置いてきた。――控除の内訳のほとんどが、購買部(会社直営の店)の『石票』だ。銀貨じゃなく“石の札”で賃金を渡され、店でしか使えない。銀貨で払えと言えば、明日から穴の割り当てが“細い筋”に落ちる」
セドリックが低く息を吐いた。「配給型の縛り……剣では断てない」
「剣で断つと、坑道が崩れます」私は布と木炭を受け取り、地面に図を描いた。
〈坑夫の手〉から〈石票〉→〈購買部〉→〈控除帳〉→〈銀貨〉。
矢印の一本を逆向きに引き直し、〈灰箱(労働・資材)〉と書き足す。
「石票を“金”に換える箱ではなく、“石票を減らす手順”に灰箱を使います。――まず、購買部の“独占”の根を切る」
「どうやって?」
「入札です。購買部の“仕入れ権”を公開入札へ。落札条件は三つ。“銀貨での払戻し可” “価格掲示を図で” “石票は段階的廃止”。違反すれば没収金+審理鐘。――次に“安全費”“灯油費”の控除。灰箱から“安全備品”だけ立替、灯油は“共同倉”にして村で管理。社宅修繕は、修繕計画を掲示して“賃銀控除とリンクさせない”」
ダンが眉をひそめる。「お嬢さん、絵は綺麗だが、鉱脈は意地が悪い。鉱山主(親方の上)が黙っちゃいない」
「黙らなくていい。ここで喋ってもらいます」
坑口の上手にある事務所から、毛皮の裾を引いた恰幅の男が出てきた。地元領主代理にして鉱山主の代官、バルカ。「王都の“悪役令嬢”が土まで汚しに来たか。――ここは王都ではない」
「ええ。だから、王都よりも“遅く正確”にやります」
私は布の図を立て札にし、監査院の臨時審理板を地面に置いた。審理官の灰は王都から同行している。鐘を一つ。高い音が山に割れて、尾根で返る。
「争点は三つ。――一、“石票”の適法性。二、“控除”の適法性。三、購買部の“独占”。」
私は帳簿の裏ページを広げ、「白」の空白を表に向ける。「“空白は無内容”。これを“表”にして賃銀を支払っている時点で、賃銀記録に重大な欠陥がある。裏の数字は“内規”扱いになる。――これを、表へ引っくり返す」
バルカが鼻で笑った。「王都の審理語を山に持ち込むな。石票は昔からの“慣習”だ」
「慣習は慣習、条文は条文。条文は“銀貨で払う”を求め、慣習は“石を返す”を求める。――両方を即日は無理です。だから段階。〈一〉賃銀の一部を銀貨で。〈二〉購買部の“換金率”を掲示。〈三〉三ヶ月で“石票停止”。その間、灰箱が“灯油・安全備品”を支えます」
セドリックが静かに位置を変え、坑口の梁、事務所の扉、坂の上の見物の列を目だけで結ぶ。ここで剣を抜けば、列は雪崩になる。剣は鞘で眠っている方が強いときがある。
審理官の灰が手を挙げる。「“控除”の内訳を列挙せよ」
事務員が運んだ控除明細は、笑えない冗談で一杯だった。“鍋の貸出料”“鎚の柄の相談料”“坑道冷却祈祷費”。
「祈りは白の箱。――賃銀控除から出す項目ではないですね」
私は白・青・灰の図を並べ、鉱夫たちの子どもが読めるように絵を増やす。壺=祈り、幕=祭、手袋とランプ=労働。
「“控除”は線の上を歩かせます。線を越えた“祈り”と“幕”は戻す」
バルカの頬が引きつる。「戻して空いた穴は、誰が埋める」
「灰が埋める。灰は冷えた熱。――王太子の“金箱”ではない。基準表で配る“灰箱”です」
「王家に楯突くか」
「箱の混色に楯突いているだけです。王家個人ではない」
灰の審理官が判定を下した。「“石票”の段階的廃止を命ず。購買部の“仕入れ権”は公開入札へ。入札条件は令嬢案に準拠。“控除”は白・青・灰に再振分。三十日で第一次報告。――違反は没収金および臨時審理」
鐘が二度、山に跳ねた。ダンの肩から力がひとつ抜けた。抜けた肩に、錆の粉がさらりと落ちる。
「……お嬢さん、歌をくれないか」
ダンが不意に言った。「うちの連中、字が苦手だ。石票の“換え時”を、口で覚えたい」
私は膝をついて砂地に歌を書いた。
――石は石でも銀にはならぬ/銀は銀でも石にはならぬ
――月の頭に銀ひとかけ/月の半ばに銀ふたかけ
――三月過ぎりゃ石は止む/止んだ石なら道に敷け
子どもが先に覚え、父親が照れて笑う。照れ笑いは、山で一番良い合図だ。
◇
午後、購買部の仮入札を先にやることにした。王都に戻ってからでは遅い。利権は、空白の間に根を伸ばす。掲示布に“入札条件三箇条”を描くと、村の鍛冶屋、旅商、修道院の小売部が名乗りを上げた。
「最低でも“銀での払戻し”と“価格掲示”。――“石票受け取り”は暫定のみに限る。三ヶ月後は不可」
「三ヶ月で足りるか」セドリックが訊く。
「足りません。でも“期限”は速度を作る」
入札箱は木の桶、鍵は二本。一本は私、一本は灰の審理官。開札。“鍛冶屋連合”が落札した。鍛冶屋は鉄を売るより、秤で嘘を嫌う。秤が嘘を嫌うなら、帳も嘘を嫌う。
バルカは不承不承、承認印を押した。彼の指に墨がつく。墨の筋は、筋道の筋とよく似ている。
「……王都の令嬢。ここは遠い。王都の鐘は、山には届かん」
「だから、山で鐘を鋳ましょう。――“違反は鐘”は、ここでも同じです」
「鋳物代は誰が払う」
「灰の箱」
「灰、灰とうるさい」
「うるさいものは、だいたい命を守ります」
セドリックがわずかに肩で笑った。笑いは短く、剣は眠る。
◇
夕刻、坑道の奥で事故が起きた。天井の脈石がわずかに落ち、若い坑夫の脚をかすった。致命ではないが血が出る。私は白の箱の規約を思いだし、修道女の応急箱を呼んだ。
「白から薬草、灰から担架と灯。――“控除”には入れないで」
ダンが頷き、若い者たちが歌いながら担架を運ぶ。
――灯は灰から 祈りは白から
――鎚は自分で 握って帰る
担架の横に、見慣れない顔がひとつ。鼻筋の通った若い男。目が綺麗すぎる。綺麗は嘘でなくても、舞台の方へよく滑る。
「どなた?」
「旅の投資家です」と彼は軽く頭を下げた。「名は――ルカ。鉱山への“復興基金”を検討している。王都の“金箱”からの分配を期待してね」
セドリックの視線が硬くなる。私は笑顔を水平に保った。「“金箱”は未だ未定です。灰は今日ここにあります」
ルカは肩をすくめた。「柔軟でなくては資本は死ぬ。――あなたは、柔軟ですか」
「条文の範囲で、最大に」
彼は唇に微笑を貼り付け、ダンの肩に中途半端な同情の手を置いた。「三ヶ月で石票を止める? 大胆だ。だが、ここは山。王都の娘さん」
「だから、三ヶ月“も”です」
ルカは踵を返し、夕焼けに溶けるように消えた。消えるときに匂いを残さない人間は、だいたい匂いを別の場所に置いていく。匂いはたいてい、数字の裏。
セドリックが低く言う。「投資家の背、監視する」
「お願いします。――“柔軟”は踊りやすい言葉です」
◇
夜。鉱山町の小さな広場で、私は“白い帳簿”をひっくり返す儀式をした。裏綴じを表に、表の空白を裏に。朱の印で“仮”。仮は弱いが、正しい方向に弱い。
「三十日で“本”。その間、毎晩“表のページ”を掲示。控除の項目は、絵で。――祈りは壺、祭は幕、労働は手袋」
ダンが前に出て、厚い指で印を押した。朱が鉄粉に食われ、少しくすむ。くすんだ朱は、綺麗な朱より好きだ。働いた印だ。
広場の隅で、バルカが誰かと小声で話している。耳は拾えないが、手の動きで“札”と“鍵”。札は“石票”だけではない。“偽の入札札”もある。鍵は“外箱だけ”。王都で見た手だ。
私はセドリックと目を合わせ、わずかに顎を引いた。
「明朝、“購買部”の正式入札。――“入札破り”が来ます」
「来させて、捕る」
「剣は」
「抜かずに、箱で」
「良い盾です」
私は背筋を伸ばした。山の夜は濃い。濃い夜ほど、歌は短い方がいい。
――白は手当 青は幕 灰は手袋と灯の油
――石は道へと戻すもの 穴を掘るなら道が要る
坑夫の子が声を重ね、女たちが拍を取り、男たちの肩が少しだけ下がる。亡霊はまだいる。だが、亡霊の足は数字だ。数字には、杖が効く。
私は帳面を閉じ、審理板を布で覆った。明日の朝、布を外せば、山の絵はまた新しくなる。
ざまぁは、敵を山から蹴り落とすことではない。山道の石を払い、滑る足に杖を渡すことだ。杖が増えれば、転ぶ数は減る。転ぶ数が減れば、歌は長くできる。
――第10話「入札破りの罠」へ続く。