(第8話)王都新聞、見出しは踊る
朝刊の束は、冷たい。夜のうちに活字が汗をかいて、そのまま乾いた指の温度になっている。広場の掲示柱の下で私は一部をひろげ、見出しだけを十本、目で拾った。
〈悪役令嬢 灰の箱を新設 “増税の前振り”か〉
〈聖女リリア 本日も祈り 寄付は“白と青で別勘定”〉
〈工匠連合 蛇口復旧 値上げは当面なし〉
〈王太子 復興基金(金箱)創設へ 詳細不明〉
〈黒鹿毛同盟 実態は後援会機動班?〉
〈承認板無断外し 祭典局に注意〉
〈遠見塔 転送陣の運用権を“連名”で〉
〈寄付“一割”誤報 編集部お詫び〉
〈市民の声 “歌は耳で読める”〉
〈論説 “悪役”という役割経済〉
踊っている。名詞が飛び、動詞が追いかけ、形容が肩で息をしている。踊ってもいい。だが、踊り続ける紙は、すぐに転ぶ。
セドリックが肩越しに一枚を覗き込んだ。「“前振り”という言葉は、剣の鞘鳴りに似ている」
「鞘鳴りの音で人を脅すのは、武芸の下作です」
「新聞にも、下作はあるのだな」
「あります。だから“手順”を置く。――見出しの手順」
私は柱の横に小さな板を立て、“見出しの規約(案)”と書いた。見出しは短く強く、しかし足が要る。走って逃げず、歩いて届く足。
〈見出し規約(案)〉
――日付を入れる(いつの話か)。
――主体を入れる(誰の話か)。
――動作語を入れる(何をしたか)。
――数を入れる(どれだけか)。
――“不明”“未定”は“未定”と書く(飾らない)。
――罵倒語は不可、皮肉は程々。
――訂正は角を立てず、太く。
「新聞に命じるのか」通りすがりの男が笑う。
「命じない。置くだけです。――“歩くための杖”を」
王都新聞の若い記者が近づいた。昨夜“訂正の歌”を持って帰った彼女だ。目の下の紙焼けの影が少し薄い。
「“規約”、紙面で取り上げます。“踊る見出しを歩かせる杖”」
「いい比喩です。杖は、歳を取らない」
午前の空気は、おだやかだった。工匠連合の“仮復旧進捗表”が絵で上がり、遠見塔は“承認ログの図”を朝の鐘のたびに挿し替えた。歌は低く、長く、噂は短くなっていく。
正午前、王城の西翼から使者が現れた。金の紋章、白手袋、灰色の表情。
「王太子殿下、“復興基金(金の箱)”の発表。広場北にて。――令嬢、列席を」
「広場中央、掲示柱の下でと、昨夜お伝えしました」
「王城は高みから語る造りだ」
「広場は耳の高さで語る造りです。殿下が降りてこられるなら、列席します」
使者は唇を結び、わずかに顎を上げた。「……検討する」
検討は遅い剣だ。鞘から三寸も出ない。
◇
正午、北側に仮設の台が組まれた。王太子アルフォンスは白い外套に薄金の房を垂らし、よく通る声で宣した。
「――復興基金“金の箱”を創設する。被災地や貧困地区の再建を、迅速に、柔軟に、気高く支える」
見出しに優しい語が並ぶ。迅速、柔軟、気高い。中身はまだ“未定”。私は掲示柱の横で灰の箱の図を掲げ、歌の節を足した。
――白は掌 青は幕 灰は地面で手が汚れ
金は飾りでよく映えど 地面の泥は吸えはせぬ
セドリックが低く言う。「正面からは殴らないのか」
「殴ると見出しが跳びます。歩かせましょう」
王太子の背後に立つのは“祭典局の扇”ローレンス――ではない、黒い衣の事務官風の男。扇ではなく巻物、香の代わりに紙の匂い。彼が金箱の“規約”を読み上げ始めた。
「――配分の決定は“殿下の裁可”に属す。審査は王宮事務局。公開は“必要に応じて”」
必要に応じて。曖昧の王冠。私は柱の前に出た。
「“灰箱”の規約を公開します」
紙を広げる。
「――配分の決定は“基準表”に属す。審査は監査院。公開は“日々”。――箱の色で、やることが変わるのです」
群衆の間に「日々」という言葉が落ちて、溶けた。日々は退屈だが、強い。強いと、人は少し笑う。
王太子は笑わなかった。まっすぐ私を見た。視線に熱はなく、光がある。
「――レオノーラ、君の才覚は認める。だが、王家の顔を立てねば国は割れる」
「顔は立てます。箱を混ぜなければ」
「混ぜる気はない」
「“必要に応じて”は、混ざる時に使う文句です」
王太子の頬がかすかに動いた。動いた頬の筋は、迷いの地図だ。そこへ、新聞の見出し売りが声を張った。
「号外! “金箱”創設! “王家の柔軟さ”!」
踊る。柔軟が踊る。私は売り子から一部を買い、朱で小さく書き加えた。〈未定/裁可非公開〉。売り子が目を丸くする。
「これ、刷っていいんですかい」
「裏面に。杖の図と一緒に」
王太子は台を降り、私の前に半歩近づいた。
「――やり直しを、考えてくれないか。君が王家の側に立てば、箱は混ざらない」
「殿下。“やり直し”は好きです」私は丁重に言葉を置いた。「ですが、それは“被害のやり直し”ではないと、先日申し上げました。――入札が終わるまで、私は“公”に仕える。私情は、最後に」
セドリックの視線が短く私の横顔をなで、すぐ広場の外縁に戻っていった。盾は、告白に立ち会わない。立ち会うと、重くなる。
◇
午後、見出しの“踊り場”が移った。王都新聞の特別号――〈密談? 令嬢、夜の茶屋で水道値上げ協議〉。木炭の似顔絵、背にぼかした灯り。茶屋の屋号は潰してあるが、欄外の小字に“北区の銘菓”という匂わせ。踊りの足払いだ。
私は似顔絵をじっと見た。輪郭は上手く、目は私だが、左の髪の向きが逆だ。昨夜の私は風上に立っていた。風は右から吹いていた。髪の向きが違う絵は、想像の絵だ。
「反論は?」
セドリックの問いに、私は“杖”を持ち上げた。
「歩かせます。――“夜の打合せの記録”を、全部出す」
遠見塔のログ、監査院の出納板、工匠詰所の見回り簿、塔番の巡回歌。紙を並べ、時刻を赤で縫う。北区のベンチの図も描く。
「ここで私は鳩に糞を落とされ、ここで笑いました。笑いは、似顔絵より正確です」
「鳩は良い証人だ」
「嘘をつかないですから。――バルト殿、茶屋に聞き取りを」
「もう済んでいる。昨夜は閉店。帳場の朱も乾いたままだ」
私は柱の横に“訂正の歌”をもう一本貼った。
――夜の噂は灯りで踊る/灯りの向きで髪が揺れ
向きが違えば絵の中の夜/紙の上だけで鳩は眠る
若い記者が駆けてきて、似顔絵を見て顔をしかめた。「これは……私の紙じゃない。煽り専門の小新聞」
彼女は呼吸を整え、手帳を開いた。「“夜の打合せの記録”、写真に起こしていいですか」
「どうぞ。杖は誰が持っても杖です」
セドリックが薄く笑った。「盾も、誰が持っても盾ではない」
「だから、あなたが要る」
笑いは短い。短い笑いは、見出しの踊り場を狭める。
◇
夕刻、私は“見出し工房”を始めた。板の机を三台並べ、紙と墨を置く。誰でも自分の見出しを作ってよい。条件は“杖”に従うこと。子どもが最初に手を上げ、拙い字で書いた。
〈きのう みずが もどった〉
完璧だ。日付、主体(きのうの街)、動作(水が戻った)。数はないが、戻った水の数は、飲んだ人の腹が知っている。私は朱で小さな花丸を押した。
続いて、桶屋の若者が書く。
〈おけや しごとかわる よるみまわりへ〉
工匠の娘が続ける。
〈ふた ぬすむひと うたでつかまる〉
遠見塔の少女は、律儀だ。
〈とうばん ろぐを えにしてだした〉
工房の周りに笑いが溜まり、噂が痩せた。痩せた噂は、風に乗らない。
私は最後に一本書いた。
〈王太子 きんのはこ まだみえず〉
王太子は、その見出しを遠目に見て、わずかに眉を動かし、それから振り返らずに歩いた。背中は綺麗だ。綺麗な背中は、長い旅の途中にある背中だ。
◇
片付けの最中、バルト院長が封筒を置いていった。封蝋は黒に近い灰――監査院内で“緊急・秘”に使う色。中には、手紙が一枚。筆致は荒いが、律儀に行を揃えている。
〈辺境鉱山の帳場より。“白い帳簿”が二冊あります。表は空白、裏が本当。――亡霊は鉄ではなく、数字。助けを〉
“白い帳簿”。北棟で押収した薄葉紙を思い起こす。談合の雛形は都市の遊びだが、辺境の“白”は生きる枠だ。枠が嘘なら、骨が折れる。
セドリックが視線で問う。私はうなずいた。「行きます。歌と杖は広場に置いて。――明日は、土で手を汚します」
「剣は」
「抜かない、とは言いません」
「危険な言葉だ」
「だから、あなたに言う」
彼は短く笑い、外套の紐を締め直した。盾は、道の長さを測らない。歩幅だけを測る。
夜の鐘がゆっくりと鳴った。踊っていた見出しは、ようやく歩き始めた。歩く紙は、遠くまで届く。遠くは、辺境だ。辺境で数字が笑っていないなら、そこへ“朱”を連れていく。花であり、止血である印を。
――第9話「辺境鉱山の亡霊」へ続く。